金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

時計の景観


土圭とはチャイナでは 引用ーーーー【圭】…天子が領土を与えたしるしとして、諸侯に与える玉器。上部がとがり、下部が四角な玉。
かど。きちんとかど目がたっているさま。転じて、すっきりしたさま。また、かどだつ。「圭角」
【土圭】どけい・とけい   中国周代の日時計。時間を知り暦を作るために、初めは一定の高さの土盛りをしたり、棒を立てたりして、その日影の長さを測った。のち、金属や宝石で作った。
日本語の「とけい(時計)」は、その借用語。ーーーーここまで

山体崩壊の大地形全体を一望して見るために、朝の景観と日の入り時刻の景観を観察した。
11.07の朔旦立冬の後11.11日の夕日を見たとき、頭上には6日の月がきれいに見えていた。
6日月は素直に唯見ても、6日月と見てとれ無理なく分りそうに思う。
朔旦立冬を見ていたからこそ、それも理解できた。

            富士山の左上に 6日月が見えている

  茅が岳                         南アルプス

 

夕日が鋸岳に入り、30分ほど後には富士山の頂のみが夕日を受け、それ以外の周りの山々は暗い深い青に変っていた。

そして暫くの後には富士山の山頂も深い青に変った。

これが土圭の起源でしょう。
チャイナの書籍には土圭の起源は書いていない、この景観ならその元になると出来るのでは無いでしょうか。富士山は世界にも認められた、土圭の元はここのこの景観だったものと考える。
太陽暦も太陰暦も土圭も、縄文人の金生遺跡にその元は全て見えていた。
土圭、時計は富士山でそれが知れる、富士山以外に適切な山はないでしょう。
 しかし、これは今見えるからで、縄文時代の当時、富士山は今のように見えていたのかどうかは保証できませんが。
縄文遺跡にはこれに類する三角の山がランドスケープとされていただろうという所が幾つもある。近くの縄文前期の阿久遺跡では蓼科山がそれとされている。土圭の起源としての伝統は縄文時代よりあったのでは。

引用ーーーーーー

配石遺構と山
 代表的なものは、配石遺構の近くには富士山型の山があるという指摘である。(江坂1973・堀越1998など)
   大森勝山遺跡-岩木山
   大湯環状列石-黒又山
   釜石環状列石-姫神山
   佐貫遺跡-高原山
   下谷戸遺跡-大山
   千居遺跡-富士山
   牛石遺跡-富士山
   金生遺跡-八ヶ岳
 これらは配石遺構の性格を考える上でそれなりの根拠となっていた。山岳信仰が想定されたのである。しかし、全ての例には合致しないとする否定的な見解もある(阿部1983)。よく考えればこれには何の根拠もないのである。日本において山の見えないところなどないし、ほとんどの山には神が祀られているのだから。
ーーーーーー

山…「崖」…
「山(やま)+厓(がけ)」の会意形声。厓(がけ)に山を付けて本来の意味をはっきりさせた字。https://blog.goo.ne.jp/ishiseiji/e/f21be2fa89a442c3a4cdd96054ea30cd
意味 (1)がけ(崖)。切り立った所。「断崖ダンガイ」「崖谷ガイコク」(両側が崖になった谷) (2)かど。かどだつ。「崖異ガイイ」(きわだって異なる) (3)きし。みぎわ(=涯) (4)さかい。かぎり。果て。
山…「崖」…圭…
圭は「土+土」で、土を盛ることを示す。土地を授けるとき、その土地の土を三角の形に盛り、その上にたって神に領有を告げた。その形をかたちどったのが圭という玉器で、土地領有のしるしとなり、転じて、諸侯や貴族の手に持つ礼器となった。その形はまた、日影をはかる土圭(ト゛ケイ)(日時計の柱)の形ともなった。
日影をはかる土圭(ト゛ケイ)(日時計の柱)の形
土圭」とは、前条注 (1) で述べたように、表(ノーモン)の影を測定するための玉器、すなわちノーモン影尺のことである。「地中」とは、夏至の際、表の影が土圭の長さ(一尺五寸)と一致する場所で、そこが地の中心と考えられた。
ーーーーーー

『中国の科学と文明 第5巻 天の科学』 〔ジョゼフ・ニーダム/著〕
 ⇒ 〔第 110 図 の 拡大図〕  
第 110 図『欽定書經圖説』巻一 堯典
第 20 章 天文学 (g) 天文器具の発達
 (1) ノーモンとノーモン影尺
 (p.128)
第 110 図 ノーモンとノーモン影尺を使って夏至の太陽の影を測定する伝説上の古代の人物羲叔(羲兄弟の末子)を描いた清末の図。『欽定書經圖説』、巻一、堯典 (Karlgren (12), p. 3) より。
 (p.129)
 『淮南子』は、10 尺の長さのノーモンが古代に使われたという伝承を伝えているが(これは、すでに述べた周時代の 10 進法度量衡の存在に対する強力な証拠となろう)、これは早期に、たぶんそれが直角三角形の辺に関する簡単な計算の助けには容易にならなかったために、棄てられた。+544 年の虞?の 9 尺のノーモンのようないくつかの例外はあるが、一般に、古代および中世の文献に記されているのは 8 尺の長さである。元の時代、精度を高めるためさらに大きな構造を持ったときでさえ、8 尺の倍数 40 尺が選ばれたのは、後に見るとおりである。完全に水平な台と完全に垂直な棒が必要であることは、漢以前によく理解されていた。なぜなら、『周禮』に水準器および錘を吊るすひもについての記述があるからである。漢の注釈者はこれを同じ長さのひもが、台のおのおのの隅に一つずつ固定されているという意味に取ったが、唐の賈公彦は、吊るすのに 4 つの測鉛線を使ったと推測した。もしそうだったとすると、この器具はローマ時代の測量官が用いていたグローマ (groma) と非常によく似たものであった。
 影の長さの最も初期の測定は、もちろん当時の物差しで行われた。しかしこれらは役人の指示と地方の習慣によって一定でないことがわかったので、標準の碑玉の板(土圭)で、ノーモン影尺 (gnomon shadow template) と呼べるようなものが、この目的のためのみにつくられた。それは『周禮』に記されており、実物は素焼きの土製で、+164 年のものが現存している。
 大司徒(高官)は[『周禮』に言う]、ノーモン影尺を使って、太陽下の大地への距離を決め、正しい太陽の影(の長さ)を定める。こうして大地の中央を見いだす ……。大地の中央は夏至の時の太陽の影が 1 尺 5 寸ある(場所)である。
 大司徒之職。…… 以土圭之?測土深。正日景以求地中。…… 日至之景。尺有五寸。謂之地中。(周禮、地官司徒)
? ここまでに記述された語句の意味を、簡単にまとめておきましょう。
 ? 古代中国の日時計では、一般的に、八尺の棒である表(ひょう)を基準の長さとした。
 ? 表の影(かげ)の長さを測る装置=器具が、土圭(とけい)である。
 ? 表には、ジョゼフ・ニーダムの『中国の科学と文明』で「ノーモン (gnomon)」の語があてられた。
 ? 土圭は、同書で「ノーモン影尺 (gnomon shadow template)」と表記されている。
 ? 土圭と表を合わせて「圭表(けいひょう)」と呼ばれることがある。
 ? 影は『周礼』で日景(ひかげ)と書かれ、『周髀算経』では?(ひかげ)と記述されることが見える。
  〔『周髀算経』の内容は、あらためて確認する予定〕
The End of Takechan
 ○ 日本の古い記録にある「時計」についても、ある程度『広辞苑』でたどることができます。


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「旅行」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事