金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

持続可能な地球文明の発見と解明

持続可能な地球文明の発見と解明

縄文文明の発見
持続可能な農耕、正確な太陽暦を持ち
10000年間継続していたようなので、地球文明の持続可能性を示す
年表


持続可能な農耕
エジプト、シュメール文明など古代文明はほとんど自然を食い尽くして砂漠を残し滅亡している
持続可能な農耕を開発したのは、縄文文明のみでは無いか
マメ類との共存する雑穀混栽農耕
窒素固定の再生


縄文文明の衰退は気候の寒冷化による農耕衰退による
後期から晩期の寒冷化により東で栄えていた縄文文明の人口は、日本列島内を東から西に流れて、文化も西に流れたようだ
しかし気候の寒冷化には、正確な太陽暦を持ってしても、縄文時代の農耕レベルでは逆らえなかった
マメ類を主とする農耕では、温暖化は問題はなく、寒冷化が問題だった。

 

 

縄文農耕では国を成立させられるほどの富の蓄積は出来なかった
したがって巨大な社会組織は成立しなかった

縄文文明は水田稲作農耕の弥生文明が入ってきたときに、対抗しうる社会組織は形成できていなかった

弥生文化の低地湿地の大規模農地開発による水田稲作に対して、縄文人の台地から低地の雑穀混栽農耕の自然と共存する持続農耕では、農地開発の面からも自然の制約からも生産性を高めることは出来なかった。


図はお借りしました
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文明とされる要素については、様々な定義や見解がありますが、
一般的には以下のようなものが挙げられます。

- 効果的な食料生産。農耕や灌漑によって余剰農産物を生み出し、人口増加や分業を可能にする。
縄文前期以降はこれらのものを想定できる
持続可能な農耕、固定窒素の再生、自然のシステムに適合する農耕

- 大きな人口。都市や国家を形成し、社会や文化の多様化や発展を促す。
縄文前期からは聚落は巨大化、持続可能な聚落


- 職業と階級の分化。農業以外の専門的な職業や技術を持つ人々が生まれ、支配層や神官層などの階級が形成される。
物流業者、製陶専門家、

- 文字。記録や伝達の手段として発明され、歴史や法律、文学などの分野に貢献する。
縄文時代は新石器時代の始からの情報記録メディアとしての土器、
生業開発記録、太陽暦と太陰暦の記録、栽培種の成立、農耕成立の記録が成されていた

- 冶金術。金属を加工して道具や武器、装飾品などを作り出す。
不明

- 記念碑的公共建造物。神殿やピラミッド、城壁などの大規模な建築物を建設し、信仰や権威、技術力を示す。
社会組織の規模は巨大石棒、大配石、ストーンサークル、木柱列

- 合理科学の発達。数学や天文学、医学などの知識や理論を生み出し、自然現象の解明や社会生活の改善に役立てる。
正確な太陽暦の開発

- 支配的な芸術様式。彫刻や絵画、音楽などの芸術作品を創造し、文明の特徴や価値観を表現する。
縄文時代前期以降中期の土器

エジプトやシュメールといった古代文明は、これらの要素のほとんどまたはすべてを備えていたと言えます12。
しかし季節を正確に把握できる太陽暦が無い
持続可能な社会では無かったため、全て滅びている


引用しますーーーーーーーーーーーーーー

縄文時代の植物栽培の問題は日本の農耕の起源を考える上で重要なテーマで、中部日本の縄文中期農耕論、
九州の縄文後晩期農耕論など、さまざまな議論がなされてきました。
1960年代に提唱された、九州の縄文時代後期から晩期に大陸から伝えられた雑穀の焼畑農耕が行われたという後晩期農耕論は大きな反響を呼びました。その後、後・晩期の栽培植物の種子類や籾痕の付いた土器、イネのプラントオパールの発見など穀類の存在を示す資料が増えてきました。

福岡市早良区四箇(しか)遺跡では縄文時代後期の遺物に伴って、オオムギ、ヒエ、アズキ、センナリヒョウタンが出土し、そして、周辺での焼畑の可能性も指摘されています。
このように縄文時代後期以降、九州ではこれらの栽培植物の出土例の他、土掘り具とされる打製石斧などの石器類も多くなることから狩猟・採集に加え、植物栽培の比率も高くなってきたと考えられるようになりました。

この背景には先に触れたように寒冷化による気候変動も指摘されています。また、これらの外来とされる栽培植物の流入には既に雑穀栽培を行なっていた半島との海を通じた交流が関連していると考えられています。しかし、水田跡が発見されている弥生時代と異なり、縄文時代では水田や畑などの遺構の検出例はなく、それらの種子類や石器類の出土例にも関わらず、水稲耕作以前の農耕については多くの未解決な点があります。
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縄文時代の約1万年間は気候変動により、大きく環境が変化しました。例えば、縄文時代前期の約6,000年前は温暖化が進み、平均気温で現在より2℃程高く、海岸線も今より内陸にあったとされます。
その後は寒冷期と温暖期を推移していたとされます。特に寒冷化による環境変化は人々の生活に多大な影響を与え、植物栽培もその一つと考えられています。

縄文時代の植物栽培の問題は日本の農耕の起源を考える上で重要なテーマで、中部日本の縄文中期農耕論、九州の縄文後晩期農耕論など、さまざまな議論がなされてきました。1960年代に提唱された、九州の縄文時代後期から晩期に大陸から伝えられた雑穀の焼畑農耕が行われたという後晩期農耕論は大きな反響を呼びました。その後、後・晩期の栽培植物の種子類や籾痕の付いた土器、イネのプラントオパールの発見など穀類の存在を示す資料が増えてきました。福岡市早良区四箇(しか)遺跡では縄文時代後期の遺物に伴って、オオムギ、ヒエ、アズキ、センナリヒョウタンが出土し、そして、周辺での焼畑の可能性も指摘されています。
このように縄文時代後期以降、九州ではこれらの栽培植物の出土例の他、土掘り具とされる打製石斧などの石器類も多くなることから狩猟・採集に加え、植物栽培の比率も高くなってきたと考えられるようになりました。この背景には先に触れたように寒冷化による気候変動も指摘されています。また、これらの外来とされる栽培植物の流入には既に雑穀栽培を行なっていた半島との海を通じた交流が関連していると考えられています。
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2-2:縄文人による「マメの栽培化」
 近年、縄文時代にはクリのような大型樹木の栽培だけでなく、現在の畑作に近い様相の植物栽培が存在した可能性もにわかに浮上してきました。そのなかでも最も注目されているのが、ダイズ・アズキといったマメ類の栽培です。
マメ(※フリー素材を使用)

縄文時代のマメ類については、実物よりもむしろ縄文土器の表面に残された動植物の痕跡=「圧痕」によって研究が進んでいます。上述した小畑弘己(考古学者)は、縄文土器に残されたマメ圧痕のサイズが時期を経るごとに急激な増大をみせる現象を明らかにしました。小畑はこの現象を、「縄文人によるマメ類栽培の証拠」とみています8。

種子の大型化のメカニズムは、人間が大きな種子を選んで畑(畠)の地中深くまくことで、小さな種子は発芽できなくなり、大きな種子の遺伝子だけが淘汰されて生き残っていくことで説明がつく。縄文人たちは、おそらく最初は野生のダイズやアズキを採集していたが、そのうち、その中の大きいものを選び出し、土中にまいて育て始め、そのような行為を1000年以上繰り返すことによって、種子を大きくしていったものと考えられる。

縄文人による「マメ」の栽培化のイメージ(筆者作成)

加えて、小畑は土器に残された植物圧痕の種類別の割合を分析し、縄文時代中期には中部高地(現在の山梨県・長野県の一部)で、後期・晩期には九州で、マメ類がある程度大量に消費された可能性をも指摘しました。
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土壌改良を行うマメ科植物
窒素固定ができない植物は、基本的には自身や他の植物が落とした葉や幹や根が微生物に分解されるときに出る硝酸態窒素を使うことしかできません。そのため、植物が生えていない環境では、他に川や高濃度に窒素化合物が含まれた大気といった供給源が無い限り、植物は窒素不足に陥り、生育が困難です。根粒菌と共生関係を結ぶことができたマメ科植物は、他の植物が生育できないような、窒素含有量が非常に少ない場所でも空気中から窒素を取り込めるため生育することが可能です。それだけではなく、マメ科植物が窒素固定をして成長し、葉を落としたり枯死したりすることによって、空気中の窒素がどんどん植物が使える形になって土壌に蓄積されることになります。
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 作物の栽培においてもっとも多用される肥料は窒素肥料である.
戦後の“緑の革命”において,多量の窒素肥料を投入することにより作物の生産は飛躍的に向上し,世界人口の急激的な増加に対応することができた.その反面,窒素肥料の利用は温室効果ガスの排出を促進することから環境に悪影響をおよぼす.

ダイズなどのマメ科植物は土壌微生物である根粒菌と共生することにより大気中の窒素分子を固定し利用する.陸上植物の進化の過程においてマメ科植物が根粒菌との共生能を獲得した機構を解明することにより,持続的な循環農業に貢献できると考えられる.

はじめに
 1960年に30億人であった世界人口は,2000年には60億人に達し,2050年には90億人になると推定されている.20世紀後半における人口爆発をささえたのは食料の大幅な増産であり,これを可能にしたのはコムギおよびイネにおける“緑の革命”であった.すなわち,品種改良により草丈を短くし子実の重量の増加にともなう倒伏性を克服したことにより,窒素肥料の過剰な施用に対応したことである.
ハーバー法の発明により窒素肥料の生産量は飛躍的に増大したが,これにともない環境への負荷は増大した.
アンモニアの合成および尿素などの2次的な生産において温室効果ガスが排出され,さらに,過剰な施肥により作物に吸収されない窒素は河川および近海の富栄養化の原因となり,これは水圏の酸素濃度の低下による生物の大規模な死滅をひき起こす.
また,農耕地において余剰な窒素が硝化や脱窒をうけることにより,二酸化炭素のおよそ300倍の地球温暖化係数をもつ一酸化二窒素が発生する.中長期的にみた農業活動の持続と環境保全のためには,収量を担保しつつも窒素肥料の施用を低減することがもとめられる.このためには,品種改良による作物の窒素の利用効率の向上や薬剤による硝化および脱窒の抑制,緩効性の肥料を利用した窒素の施肥技術の改善などがあげられるが,抜本的かつ効率的な解決策として,共生細菌による生物学的な窒素固定の利用が考えられる.
生物学的な窒素固定は一部の原核生物のみにみられ,ニトロゲナーゼのはたらきにより大気中の窒素分子をアンモニアに変換する.すなわち,共生的な窒素固定を利用することにより窒素肥料への依存から脱却することが可能になり,したがって,窒素肥料の施用にかかわる温室効果ガスの排出を大幅に削減することにつながる.

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陸稲とダイズやアズキなどとの混栽については、以下のようなことが言えるでしょう。

- 陸稲とダイズやアズキは、**マメ科の植物**であり、根に**根粒菌**が共生して空気中の窒素を固定することで、土壌を肥沃にします12。また、根に付く**菌根菌**がリン酸分などの養分を吸収しやすくする効果もあります12。

- 陸稲とダイズやアズキは、**コンパニオンプランツ**として相性がよく、互いの害虫を予防する働きがあります3。例えば、ダイズやアズキにつく**アブラムシ**や**カメムシ**などの害虫を忌避する効果があります3。

- 陸稲とダイズやアズキは、**空間を有効活用できる**こともあります。例えば、陸稲は草丈が高く、ダイズやアズキは草丈が低いので、畑の高さの違いを利用して混植できます3。また、陸稲は直播で栽培されますが、ダイズやアズキは移植で栽培されることもあるので、生育速度の違いを利用して混植できます3。

参考文献・リンク

1: [北海道 における ダイズシストセンチュウ による アズキ の減収 ...](https://www.jstage.jst.go.jp/article/kitanihon/2014/65/2014_139/_pdf/-char/ja)
2: [ダイズ・アズキ不耕起播種栽培におけるモリブデン付加播種が ...](https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcr/62/0/62_7/_pdf/-char/ja)
3: [コンパニオンプランツの組み合わせと効果 | やまむファーム](https://ymmfarm.com/cultivation/basis/companion-plants)

ソース: Bing との会話 2023/7/2
(1) コンパニオンプランツの組み合わせと効果 | やまむファーム. https://ymmfarm.com/cultivation/basis/companion-plants.
(2) 北海道 における ダイズシストセンチュウ による アズキ の減収 .... https://www.jstage.jst.go.jp/article/kitanihon/2014/65/2014_139/_pdf/-char/ja.
(3) ダイズ・アズキ不耕起播種栽培におけるモリブデン付加播種が .... https://www.jstage.jst.go.jp/article/jcr/62/0/62_7/_pdf/-char/ja.

 

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生物的窒素固定を行う特定の微生物は、自然界で窒素固定を可能にするための阻害回避機構をもつか、酸素のない条件下(嫌気環境など)で窒素固定を行います。藤田祐一著『作物が窒素固定する時代に向けて 酵素のエベレストに挑戦』で取り扱われている微生物の一種シアノバクテリアは、窒素固定生物の中で唯一、窒素固定と光合成を両立させています。

非共生窒素固定細菌であるアゾトバクター属細菌は酸素のある条件下で窒素固定能があります。前田勇『微生物共培養による窒素固定能の発現 微生物共生体における窒素からアンモニアへの変換』(化学と生物?Vol. 55, No. 2, 2017)には“アゾトバクター属細菌は呼吸保護と呼ばれる、細胞内酸素濃度を低く維持するための酸素消費速度の調節機構を有する”とあります。

また、ニトロゲナーゼが酸素に弱いため、酸素を効率的に取り除くための遺伝子を導入したり、ニトロゲナーゼの量が少ない可能性を考え、ニトロゲナーゼ自体の量を増やすための研究が行われています。

『Exploiting Biological Nitrogen Fixation: A Route Towards a Sustainable Agriculture』では、世界中で行われた科学的努力のおかげで、ニトロゲナーゼ遺伝子の塩基配列が決定され、2012年にデータベースが作成されたこと、非マメ科作物に窒素固定能を導入するための戦略を定義づけられたこと、窒素固定に必要な遺伝子カセットを特定してすでに遺伝子組み換え酵母で実験が行われていることなどを挙げ、これらの成果は植物にニトロゲナーゼを導入する目標に近づくものであると記しています。

窒素固定作物が実現化するのはもう少し先の話になるかもしれません。しかし、作物自身が窒素固定を行い、肥料を必要としない日が来れば、窒素肥料を化学的に製造する量が減り、それは自然環境の保護、持続可能な農業の実現につながるでしょう。今後の研究に期待が高まります。

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縄文後期後半の西北九州では、熊本県菊池市泗水町(しすい)の三万田遺跡(みまんだ)や同熊本市の上南部遺跡(かみなべ)など熊本県下の40遺跡から、土偶が約300点も出土しており、その内、阿蘇外輪山の麓の肥後台地で約半数を占めている。
土偶は縄文中期になると東日本全域で活発になるが、西日本一円では低調であった。
それが後期になると九州から近畿に分布圏が拡大する。困窮する東日本から、西日本への移住が根底にあったのだろうか。

 次第に縄文的世界が破綻していく最中、朝鮮半島から新しい集団が異質の文化を伴い流入し、西北九州でも交易情報に疎い多くのムラ人が大いに社会的動揺をきたしていた。当時の縄文人は土偶と祭場を中心にした宗教的な世界観を共有し、集団内の精神的一体感を覚醒させようとした。しかし土偶の製作は晩期には途絶した。新文化の流入を阻むことができなかった。

 福岡市早良区四箇田団地一帯の四箇遺跡(しか)は、標高22mの微高地にあり、縄文時代後期から古墳時代にまで継続している。この遺跡の縄文後期の層からヒョウタンとマメのほか、ごく少量のハダカムギとアズキの炭化粒が出土した。さらに焼畑が想定され、その周辺に生育する雑草や樹木類の炭化種子が数多く検出された。花粉帯Ⅰの古い地層から、この地域が、その時代、鬱蒼とした照葉樹森帯であったことが、その数多い花粉の分析により証明できた。縄文時代後期の層、地下深度120~135㎝における花粉帯Ⅱになると、アカガシ亜属やシイノキ属は一割にまで減少し、エノキ、ムクノキ属は殆ど出現しなくなる。すなわち、森林の存在を示す花粉が激減し、土中からは炭化した木片などが急増する。人為的に森林が伐採され、焼き払われたことを証明する。

 この花粉分析の結果と、ハダカムギとアズキなどの焼畑雑草の種子が多数検出されたという事実から、縄文時代後期、この四箇遺跡周囲で焼畑が行われていた事が明らかになった。四箇遺跡からさらに30数km西方の、唐津市の菜畑遺跡(なばたけ)は、菜畑字松円寺(しようえんじ)にある衣干山(きぬぼしやま)の東麓に展開する丘陵の先端部に営まれていた、縄文晩期の水田を伴う集落遺跡であった。

ここでは縄文晩期、日本における最初期の水田稲作跡が発見された。実は水田稲作が営まれる前に、ある種の畑作農耕、イネ(陸稲)・アワ・アズキ・ヒョウタン・ゴボウ・シソなどが栽培されていた。しかも縄文晩期の土器の胎土の中や、遺跡の土壌の中からイネのプラントオパールが多数発見されている。
 こうした雑穀の農耕跡を残す遺跡のひとつに、熊本県上南部遺跡がある。この遺跡は白川流域にあるが、河岸段丘の上に立地しており、水田には向かない土地であった。かつて、この周辺地域では、イネが栽培されていたとしても、陸稲を想定する方が自然な地形であるとみられている。畑に育つ陸稲は、干魃にはきわめて弱い。収穫量は降雨量に左右され、水稲に比べると収量は半分以下程度で、しかも年毎の収量の変動が激しく不安定であった。

 九州で姿を消した土偶が、古くから西日本を代表する縄文晩期の遺跡として知られる奈良県橿原遺跡(かしはら)から、200点近く出土している。しかも在地の土器以外に、東北地方を中心に分布する大洞式系土器(おおぼら)が多量に共伴している。環境悪化が進む東日本から移住してきた人々が、この地で弥生文化と衝突し、遂に奈良盆地で弥生文化に屈服したと推測される。
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中期 5,500年前~4,500年前 ・最も過ごしやすかった時代で、関東甲信越ではとくに派手な装飾の土器が造られる(関東甲信の勝坂式土器や信濃川流域の火焔土器が有名)

後期 4,500年前~3,500年前 ・寒冷化へ向かい、北東北や北海道では大きなムラが消える(三内丸山遺跡も消滅)
・その後再び気温が上昇し、縄文後期海進が起きる
・呪術的に見える道具が多く出現し、ストーンサークルが盛行

晩期 3,500年前~2,900年前(紀元前10世紀) ・現在より2℃低くなる
・津軽発祥の亀ヶ岡文化が西日本にまで波及
・これまでは東西の人口比(遺跡比)が極端に東日本に高かったのが、西日本の比率が急に高まる
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後期前葉の土器型式は、地域的伝統を基盤としつつも、地域を越えた広域性が発揮される点に大きな特徴がある。
後期初頭に東西を広く覆って成立した中津式と称名寺式の広域圏は、両型式が次第に地域色を強めていく中で再編されていくが、「関沢型称名寺類型」と関西系土器との間に認められる類似性、同調性は、両地域の土器型式が異なる方向へ分化を遂げる中においても、一定の交流が維持され続けていたことを物語っている(第4章)。後期前葉の東西の土器型式に見られる広域的な類似性は、こうした「関沢型称名寺類型」と関西系土器との交流の延長上に位置づけられるものである。

一方、後期前葉の西日本における縁帯文土器の広域圏は、中津式以降、西日本各地に分立した多様な地域的土器群が統合されることによって成立したものである(第3章)。
とりわけ、この間の変化を主導したのは、瀬戸内から関西にかけて限定的な分布を示す福田K2式の系統であったと目される。福田K2式末期の土器群は、同じく中津式から派生した山陰の島式や南四国の宿毛式に影響を与え、急激な形制上の変化をもたらしたばかりでなく、中津式と阿高式系の接触によって生み出された九州の諸型式にも色濃い影響を及ぼしている。かつての中津式分布圏を越えて、西日本一帯に類似の形制を有する土器型式が成立する背景には、このような福田K2式末期に見られる土器型式の緊密な地域間交流が深く関わっている。

この時期の土器型式の広域性は、それぞれの地域型式が、緊密な情報の交流を背景として、積極的に新来の情報を自身の伝統の中に取り入れようとする中で生み出されたものであった。このような土器群の動態は、先述した前期後葉の土器様相とは大きな隔たりがあり、第3部で述べるように、縄文後期の西日本における、地域社会の充実と発展を基盤としたものであったと考えられる。
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三内丸山遺跡の衰退は寒冷化が原因

2010.01.04

 縄文文化の常識を覆したことで知られる三内丸山遺跡を当時の縄文人が放棄せざるを得なかった理由は、寒冷化による植生の変化であることが東京大学の研究者たちによって突き止められた。

 川幡穂高・東京大学大学院新領域創成科学研究科教授(同大学海洋研究所教授)らは、日本最大級の縄文集落跡、三内丸山遺跡(青森市)の当時の気候を調べるため、遺跡から20キロ離れた青森県・陸奥湾の堆積物(水深61メートル)を採取した。海底の堆積物は環境の変化を連続的に記録していることから、正確な年代や水温決定ができるためだ。

 この結果、三内丸山遺跡が栄えた約5,000年前は、遺跡付近の海水温は今より2.0℃ほど温かったが、4,200年前に突然寒冷化したことが分かった。2.0℃の水温差は、当時の遺跡付近の気温・海水温が230キロ南、今の仙台あるいは酒田付近の気温・水温だったことを意味する。現在、大きな実のなるクリ林は、山形県あるいは宮城県南部以南に限られるが、当時は三内丸山遺跡付近でも大きなクリが採れたことを裏付けるこれまでの遺跡発掘調査結果とも符合する。

 川幡教授らは、三内丸山の集落が成立したと言われている約5,900年前に陸の気温が急に上昇し、特にドングリやクリなどが繁茂したほか海産物も豊富に採れるようになったことが三内丸山のような大集落を可能にした、と見ている。

 日本全体の人口は縄文時代最初期(12,000年前)の約2万人から三内丸山遺跡が存在した縄文時代中期にはピーク(約26万人)に達した後、晩期には再び減少(約8万人)している。これは三内丸山遺跡の盛衰と合う。さらに三内丸山遺跡付近が急に寒冷化したのとほぼ同時期(4,000-4,300年前)には、中国の長江周辺や西アジアのメソポタミアなどの文明も衰退しており、アジアの中緯度域でほぼ同時に見られたこれらの現象は、寒冷化あるいは乾燥化などの影響が原因かもしれない、と同教授らは言っている。

 現在、地球温暖化対策では世界の平均気温上昇を約2.0℃以内に収めることが大きな目標とされているが、年平均気温での2.0℃という気温変化、しかも速いスピードでの変化は特に一次産業などが主体の共同体に大きな衝撃をもたらすことが懸念される、と川幡教授らは指摘している。

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石器群構成の変遷について、草創期、早期では尖頭器や石鏃など狩猟具が主体を占める一方、
後晩期には磨石類や台石類の比率が増加するとともに、打製石斧が新たに加わるという大局的な傾向は従来から指摘されてきた事実である。

筆者が南四国の縄文石器について行った集成からも、この変遷過程を跡づけることができた(第5章)。南四国では、石鏃、石匙、石斧、磨石、台石といった縄文的な石器群構成が完成する早期段階にひとつの画期があり、質、量とも充実する後期段階にもうひとつの画期がある。
後期中葉に出現する打製石斧は、渡辺誠氏の言う「東日本的文化複合体」の西漸や、いわゆる縄文農耕の問題に関連して、近年再びクローズアップされつつあるが、南四国の状況を見る限り、打製石斧の出現は従来の石器群構成を根幹から突き崩すようなものではなく、生業の多角化として理解される程度のものであったとみられる。
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石材の流通プロセスに注目すると、前中期の彦崎貝塚では、小型の板状石材から石匙や削器といった大型石器が活発に製作されていたと考えられるが、後期には広島県洗谷貝塚に代表されるように、沿岸部遺跡において厚みのある大型石材が多数集積された状態で検出される事例が少なからず知られており、沿岸部集団による石器原材の大量獲得と再分配が想定されている。
前中期の石材流通が、相対的に小規模でなりゆき的なものであったと考えられるのに対して、後期の石材流通は、大規模かつ経済的なものであったと言えよう。

 瀬戸内後期に見られるような、沿岸部集団による大量の石材獲得と再分配を基調とした石材流通のあり方は、北部九州後晩期の腰岳系黒曜石の流通においても指摘されている。筆者は佐賀県大門遺跡の資料に基づいて、この問題を検討してみた(第7章)。
大門遺跡から出土した黒曜石の総重量は約10kg(28%)、安山岩(サヌカイト)の総重量は約26kg(72%)で、単純に両者を合わせた総量は、板状石材32点、45.3kg分のサヌカイトが出土した洗谷貝塚にも匹敵する。大門の周辺には、近接して大門西や金立8区など小規模な衛星的遺跡が分布しており、大門のような拠点的遺跡の住人が、当該地域における石器石材流通を主導していた可能性が考えられる。

また、後期後葉から晩期にかけて、腰岳系黒曜石が南四国や南西諸島など遠隔地にまで流通する背景には、この時期の九州における人口の増加と黒曜石流通量の増大が関連していることを想定した。このように、石器群構成や剥片石器石材流通の側面から見ても、縄文後期の段階は大きな画期に相当している。
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第3部では、遺跡群の通時的分析から人間集団と社会のあり方について考えてみた。その中で筆者は、
瀬戸内と佐賀平野の事例の比較分析に基づいて、土器型式の地域色の単位となるような大遺跡群が、より小さな単位である小地域遺跡群によって支えられていること、小地域遺跡群の背後には、一定の地理的範囲に対して定着性を強めた人間集団の存在が想定されることを論じ、縄文時代における地域組織の重層性を指摘した(第8章、第9章)。
一方、遺跡分布のあり方について見ると、瀬戸内と佐賀平野では基本的な差異も認められ、遺跡群相互の有機的関係を具体的に復元するためには、地域の実態に即した考察が必要である。

さらに通時的に見た場合、瀬戸内後期では遺跡数の増加に伴って、前中期段階の遺跡分布の空白域が新たに出現した遺跡群によって割拠され、人間活動が多様な生態環境域へ拡大するという現象が認められる。
また、佐賀平野では、後期後葉の黒色磨研期に小地域遺跡群程度の地理的範囲が、拠点的遺跡を核とする小規模な遺跡群(核遺跡群)によって割拠される現象が認められる。

こうした現象は、後期における人口増加と地域社会の充実を反映した現象と考えられ、第1部で述べた土器型式のあり方や、第2部で述べた石器石材流通システムの時期的変化とも深く関わっているものと思われる。
一方、このように地域社会の安定性が高まったと考えられる後期段階においても、地域社会を越えるような規模での長距離の移動が行われていたことを、筆者は異系統土器の長距離移動の問題から論じた(第10章)。
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打製石斧は、日本各地の縄文時代の遺跡から出土しますが、九州では縄文時
代の後期頃(縄文時代は古い順に草創期、早期、前期、中期、後期、晩期に分
かれます。)に急に数が増えるようです。この時期は、磨消
すりけし
縄文という文様のある土器、土偶
どぐう
、住居に付属する特別な炉、装飾品など、元々東日本を中心に使われていた様々な物が、九州にも広がってきました。打製石斧も東から伝わってきた新しい文化の中での食料確保のための土掘り具として、地中の植物の
根や実を手に入れるため、新しく生活に取り入れられたと考えられます。
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