金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

桜ヶ丘組石遺跡 祭祀場

埼玉県深谷の桜ヶ丘遺跡は石礫が並んだだけの縄文後期の遺跡とされていたようだが、
組石遺跡の地点から、夏至冬至日没線を描いたのが次の図だという。

 


深谷の桜ヶ丘遺跡は、ここから冬至の日没線を引くと、その線は深谷の仙元山に当たるという。
この山は低い山では有るものの、深谷の平野部が広がる中の単独の小山(高さ98m)だけに目立っていたようだ。
この場所で冬至と夏至の夕刻太陽が沈む日に、賑やかな祭りを行ったとの想像が出来るようだ。
このように、遺跡の立地は、冬至や夏至の日没が目立つ山のピークなど何らかの目標を望めるなどの場所にある様だから、配石や組石遺構は、暦に合わせて、太陽の運行を見る祭の場として、適切な場所に作られていたことは間違いないようである。

図はお借りしました

引用ーーーーーー

1-2-1 石礫が並んだだけの遺跡

 深谷はネギの名産地であるが、それは高崎線の北側で利根川やその西の支流までの低地で取れる。高崎線の南はすぐ丘陵地になってネギの耕作には適さない。長らく雑木林であった。ここを畑とすべく土を掘り起こしていた農民が地下に多量の石礫があることを発見し、深谷商高の先生に相談したことから始まった。知らせを受けた教育委員会はチームをつくって3日間の発掘を行なった。しかし結果は石礫の配列だけしか発見されず、土器などの期待されたものは何もなく「誠に興味のないことであった。」測量して埋め戻して調査は終わった。

 幸いなことは埋め戻した平らな約400㎡の土地は大部分遺跡に指定されて、そのままにされたことである。今見えるものは1箇所、数個の礫が三角状にかたまって露出させたものが見えるようにしてあるだけだ。

 この報告書は「本遺跡は明快な結論を出すことを得なかったことは著しく物足りない感があるが、…今後の解決をまつよりほかはなかろう。今後の調査研究のため何らかの保存の途を講ずるよう希望する」と結んでいる。少なくともその保存の希望はかなったわけだ。

1-2-2 場所の特徴

 報告書にある地図をここに示した。中央に「ふかや」と書かれた高崎線深谷駅があり、その上のハッチ部分が深谷の町でここは江戸時代中山道の宿場町であった。だから街の中心線は中山道だ。その中山道が市街地を抜けると鉄道に接近し触れそうなところで方向を東北に曲げて、かつそこがT字路になる。この点はこの地図には何も書いてないが、この遺跡の謎解きのための重要なポイントの滝宮神社がある。それは後に触れる。

遺跡のあるところは×印である。ここから先のT字路点付近までぐるりと急な崖となって斜面が続いていることがわかる。ここから縄文の頃は一望が見渡せたはずだ。

1-2-3 石礫の並べ方

 発見された石礫の配列集合は8つ。この図の内D8は住宅地に埋まっていて今は見ることはできない。ABC1~7までが埋め戻されて平地になっている。3が露出している。右の道路にそって説明板が立っているだけの殺風景なものだ。組石は全部河原石でこの遺跡のある丘陵地のものではなく、少なくとも北に数km離れた大きな川から選びとって運んできたものだ。

 A1と4~8の組石は方向を示したように長方形に並んでいるが、同じ方向ではない。2、3、7は方向を示しているようには見えない丸い配置だ。多くの縄文遺跡の例に見られるサークルをなすでもなく、雑多な配置をしているのだ。これでは発掘にあたった人が首をかしげ、わからないと投げ出したのも無理はない。

1-2-4 ここは祭祀跡だった

まずこれは特別な祭祀跡と直感する。その理由は次の3点である。

①ここには縄文人の生活の匂いがない。この付近の深谷や熊谷利根川を挟んだ群馬県新田などには縄文遺跡はたくさん発掘されて見事な火炎式縄文土器なども見つかっている。縄文人村落があちこちにあって結構な人口はあったとおもわれる。しかしこの組石遺跡からは期待された出土物品はなかったし、住居跡も近くで発見されていない。

②わざわざ平地にしてそこに遠い河原から100個を越える石礫を運び上げて来て人工的な配置をしている。大勢の村人をある目的で集めて共同作業をした結果である。それは何らかの祭祀しかない。

③高台のはずれにあって後背は山地で、前方北東から西にむかって展望できる地を選んでいる。その方向は暴れ川である利根川流域になり、縄文人の狩猟採取の恵みを与える森林は後背地であった。集落も森林側にあったのではないだろうか。

この特別な祭祀の場所が選ばれた謎が解ければ祭祀の意味もわかる。

1-2-5 何の祭祀?私の仮説

深谷滝宮神社
 
 深谷滞在中の朝、深谷駅近くを散歩していて駅裏に大きな神社があることに気がついた。滝宮神社という。巨木に囲まれた境内だが、湧き水があり用水路に流れ込んでいた。縄文時代の泉の出口を示し御神木となる巨木に囲まれている。この滝宮神社と桜ヶ丘組石遺跡と関係があるに違いないと直感した。それは同じような発見を過去にしたことがあるからだ。

テキスト ボックス: 勝坂有鹿神社  私は2008年、神奈川県の勝坂縄文遺跡を訪ねたことがある。相模原市西部の丘陵地域の縄文時代中期前半頃の大集落跡だった。有鹿神社は座間にある有名な神社だが、その由来書にこの神社の元社が北5Kmのところにあるとあったので、それを見たかったのである。それが勝坂遺跡の高台の崖下にあったのだ。この石祠の崖づたいの隣には湧水があり、小さな鳥居がかぶせるようにおいてあった。神奈川県の最も古い神社というのは、縄文時代にさかのぼるということを知った。縄文人たちが「泉」が生活の基本であり、聖地として大切にしたことは容易に想像がつく。

 さて組石遺跡の地点から、夏至冬至日没線を描いたのが次の図だ。

 なるほど滝宮神社は夏至の日没線上にあるではないか。先の三内丸山遺跡は冬至日没線が岩木山を指していた。深谷の桜ヶ丘遺跡は夏至で泉を指した。対照的だが北国が春への転機をのぞみ、内陸の暑い深谷では冷たい泉の恵みに向かって夏の転機の夏至に祈りを捧げたのは自然だ。 

 神聖な場としてここに選ばれたのは、滝宮神社のご神木に夏至の日没するのを観測できる丘陵地はここしかないのだ。ここから先は崖に落ちる丘陵の端の地が選ばれている。一方ここから冬至日没線を引くと、その線は深谷の仙元山に当たる。深谷の平野部が広がる中の単独の小山(高さ98m)だけに、古代から地方の霊山として神聖視された。頂上には創立年代不詳の浅間神社がある。

 縄文部落民は、この部分の地を10m四方を平たく整地し、河原から手ごろに揃った石をたくさん集めて運んできた。この場所で冬至と夏至の夕刻太陽が沈む日、賑やかな祭りを行ったのだ。

 この遺跡は意味不明ということで放置されたままになっているが、幸い空地となって一部保存されている。再び脚光を浴びて大切にされる時がくることを願う。


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