金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

縄文時代の豊かな文化

新石器時代とは粘土から土器が造られた時代である

図 文明の比較年表 土器は草創期の始から造られていた

縄文時代は土器の特性を生かして、初めからその歴史記録が残された、それが縄文土器と呼ばれるものである
土器とは、・想念通りに造形できるもの、・造形したものが永遠に残せるもの、・それは情報伝達のメディアである。縄文時代10000年間に造られていた火焔土器、突起付き土器、マメ類練り込み土器などはその典型的姿を示している。縄文模様を持つ土器は新石器時代の始まりを示すものである。

図 弓の弦の開発からの始まり
土器には弓の弦の開発から、鏃の開発、魚釣り漁の開始、網による漁撈の開始などの一連の生業開発の画期的歴史が記録されていた。

図 マメ類の栽培化の記録
縄文時代草創期のマメ類の採取を始め、栽培開始、前期半ばの栽培種の成立が記録されていた
これは本格的農耕が開始されたことを明確に示しているものと考える。

図 突起付き土器の製作
何処の文明でも造られていない突起付き土器の製作により、文字のない世界での造形による数字概念の記録
この数字は太陽暦の起源を示している
縄文時代には何処の文明にもない石棒も造られていて、石棒は太陽直接観測のための道具から始まったものである。金生遺跡はその事を明確に示していた。
文明とは何かという時、太陽暦の開発こそが、過去現在から未来を予測するという、精神的働きが始まることから、これこそが文明開始と云って良いものではないかと考える。

図 太陽暦の開発経緯
突起土器は縄文時代早期に造られ始めていて、太陽暦と太陰暦が開発されたことが分る。
中期には二十四節気の暦が開発され、太陰暦とシンクロさせて、海辺と内陸の交流が容易とされた。この時期に 3という数字が様々な土器や石器にも造形されて残されいることから、社会的に大変な盛り上がりを見せていたものと考える。

図 金生遺跡の太陽暦観測施設
八節の暦を明確に示す観測施設であり、その観測結果は4500年前から太陽の出る地理的位置は変化していないことを示している。


これらの観測点は立春と立秋を示していることから、立秋点は月の暦とのシンクロを計るためであると考える。

 

図 縄文時代のカレンダーの推測 2024年立春を1月1日と読み替えた

このような縄文時代の文化レベルは、縄文学協会が言っている---縄文時代の女性は色あざやかなイヤリングをし、素敵な腕輪をし、ファッショナブルな麻の衣装をまとっていたオシャレな人々であった。---という豊かな文化の存在に一致するものである。

図はお借りしました

引用します----ーーーーーーーーーーーー

■ 特定非営利活動法人 国際縄文学協会 概要
 かつて、縄文時代は、遅れた原始的な時代のイメージで理解されてきた。縄文時代の人々は、毛皮を着ており、遅れた文化を体現した姿で表現されてきた。
 しかし、実際は発掘されたものによって判明した事実が示すとおり、特に縄文時代の女性は色あざやかなイヤリングをし、素敵な腕輪をし、ファッショナブルな麻の衣装をまとっていたオシャレな人々であった。

 また、日本の歴史をひもとくと、戦争がなかった素晴らしい時代があったことに気づく。1万2000年以上前から1万年続いた縄文時代と呼ばれる時代の事だ。なんとこの時代の人々は、強大な政治権力を生み出さず、人殺しの武器も作らなかった。だからこそ戦争がなかったのだ。

 それだけではない。1万2000年以上前に、当時世界にない薄さ5ミリの土器を作るハイテク技術が存在しており、しかも、ハイテク縄文文化人は、生命を生み出す母性を敬い、老人・子供を大切にし、自然の恵みに感謝し、大自然と融合したエコロジカルで、ロハスな生活を行う人々であった。

 さらにいえば、縄文時代の人々は、世界に先駆けて定住生活を始め、家族を作り、和やかでスピリチュアルな生活をしていた。また、個性と共同性のバランスがとれた風通しのよい生活をおくっていたのだ。 縄文文化は、縄文末期の同時代人である孔子ですら熱き憧憬を注いだ、世界に誇りうるハイブランドであった。


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ころんちゃん
縄文びと
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