招き猫の銀河鉄道

「新世界」創造を夢みて

突然のこと

2010-08-31 22:42:32 | 日記
あれ程共鳴した人と袂を分かつのは、
辛いものがある。
悲しいものがある。
虚しいものがある。
一つのドアが閉まるのは、新しいもう一つのドアが開くこと。
そのように意味を見出して、
前に進むことにしよう。

小沢一郎と菅直人

2010-08-26 22:30:54 | 評論
今日、小沢一郎元幹事長が民主党代表選の出馬の意向を表明した。

年二回の首相交代は国際的にみて見苦しいという判断で、消極的に続投を支持されている菅首相。
一方、剛腕と言われながらも、政治とカネの問題で何度もレッドカードを突きつけられている小沢一郎。
会って欲しいと切望する菅首相に、意地でも会わない小沢一郎。
先の代表選に勝ち抜いた直後に、「しばらく小沢さんは静かにしておいて欲しい」と口を滑べらす菅直人。
どっちもどっちだという感じがする。大人気ない。

菅直人には、ビジョンがない。小沢一郎には、人徳がない。
薬害エイズの時の菅厚生相は、ルックスもよく低音の声も魅力的で、颯爽としていた。
清廉潔白だが力のない海部首相を操っていた自民党時代の小沢幹事長は、顔も政治手腕も強面だった。

民主主義、選挙の時代とは言え、
やはり政治は「権力闘争」の面が濃厚にあることを再認識させられる出来事だ。
菅首相続投であれば、ブレインをどうにかしなければ、官僚主導は自民党時代より強くなりそうだ。
もしもの小沢首相が誕生すれば、「ねじれ突破」の為に、またまた大連立でも画策するのだろうか?
小沢一郎、菅直人にとって正念場の、2010年9月14日であります。

でも、2007年からの日本の首相は、
安倍晋三、福田康夫、麻生太郎、鳩山由紀夫、菅直人と、
この4年の間に5人という、異常事態に突入しています。
もしかすると、日本の政界は、世界で一番「時間の加速」が激化しているところかもしれません。

「~べき」と「そのまんまでいいんだよ」

2010-08-25 20:53:57 | 思索
「何々べきである!」という主張がある。古の中国での教えでは、孔子さまの教え。
「そのまんまでいいんだよ」という考えがある。古の中国の教えでは、老子さまの教えに近い、かも。
で、どちらが正しいのだろうか?という野暮な質問はやめよう。
どちらも正しいのだ。
人の個性により、同じ人でも、その人の時期により、どちらも大事なことになると思う。
車で言えば、アクセルとブレーキみたいなものだ。どちらも必要なのだ。
 (ちゃんとした例えになっていないような気もするが、まぁいいだろう。)
この世の中は、なかなか奥深いものだから、
どちらの「測り」も知って、うまく活用すればいいのだろうと思う。
だから、孔子さまも老子さまも、ずーっと長い間忘れもされず伝わっているのだろう。

推測

2010-08-25 19:34:28 | 直観
原子には「中心」となる「原子核」が存在する。
細胞には「中心」となる「細胞核」が存在する。
人体には「中心」となる「脳」が存在する。
スポーツチームには「中心」となるべき「監督」が存在する。
オーケストラには「中心」となるべき「指揮者」が存在する。
企業には「中心」となるべき「社長」が存在する。
国家には「中心」となるべき「元首」が存在する。
太陽系には「中心」となる「太陽」が存在する。
銀河系には「中心」となる「銀河の中心」が存在する。
であるならば、
この宇宙には、中心となるべき何かが存在する可能性がある。
であるならば、
この地球社会にも、中心となるべき何かが存在する必要があるかもしれない。

ブログを見て思うこと

2010-08-24 20:00:43 | 日記
様々なブログを見てみると、すべての人々がそれぞれに「中心点」なんだな、とつくづく実感させられる。「中心点」であり、それぞれが、ひとつの「世界」を創っている。そんな感じを受けます。

こんなファクターと、あんなファクターとが、この人の視点においては別物ではなく、一つに見えてるんだな、って思うことがよくあります。私個人の中では到底繋がらないことが、他の人のブログを見てみると、見事に繋がっている。そのあたりが非常に面白いです。

そんな「中心点」である、それぞれの「意識の世界」が、蜘蛛の巣のように繋がっているという事実は凄いことなんだなと思います。人間の脳の一つ一つのシナプスが繋がって、巨大な知的空間(=脳)を創っているように、一人の人間が一つの脳細胞のような役割を果たして、ネットで繋がることで、巨大な人類脳が誕生しているように思えます。ちょっと楽観的な発想かもしれませんが、そう感じます。

「和」と「礼」の精神について

2010-08-24 19:07:23 | 思索
人は皆ONLY-ONEで「個別性」を自覚しながらも、根源的なところで「共通性(普遍性)」、「一体感」を希求するように創られているような気がする。それは、心の奥において、形而上において、実際に繋がっており、一つの生命体であることに起因するからではないだろうか。その繋がっている究極の「中心点」に、無限なる「大いなるすべて」が存在するのかもしれない。その「中心場」においては、絶対時空は実在し、究極的価値も実在するのでは。

そして「和」の精神とは、それぞれの人々の関係において、この中心場的な「共通場」を創っていく精神的行為ではないか、と思う。心を空しくして、自分と相手の神性を尊重していく態度が「礼」の精神だと思う。この「礼」の精神によって「和」の精神は育まれる。また「礼」の無さは、えてして「傲慢」と「不協和音」を生む原因となりやすい。

「礼」という言葉は、儒教から来たもので、現代社会においては堅苦しく感じられ敬遠されやすい。しかし、もともとこの「礼」の精神の本質は、お互いを敬うことにある。互いを互いに尊重するがゆえに、関係がスムーズとなる。例えば、武道においては、「礼」の精神が尊重される。特に格闘技的な武道は、基本的に「闘い」である。互いに互いを打ち合う行為である。極端にいえば、自己がより剛くなるために、相手を死する行為である。それ故にこそ、相手を尊重する「礼」の精神が、無秩序になり易い格闘技に秩序を与えているのだと思う。

岩までしみ入る蝉の声

2010-08-21 08:32:03 | 日記
今、熊蝉が鳴いている。暑苦しさが倍増する。(笑)
そして最近ツクツクボウシが鳴き出した。
子供の頃ツクツクボウシが鳴き出すと、
楽しい夏休みの終わりを実感して、なぜか切ない気持ちになったものだ。懐かしいな。
そして山に行けば、ヒグラシが鳴いている。あの鳴き声は情緒があって癒されます。

ヨーロッパには蝉はいないという。(南欧にはいるらしいが)
だから日本の映画で「蝉の声」が吹き込まれているシーンがあると、その鳴き声は除去されるという。
蝉の鳴き声は、変な騒音、ノイズにしか聞こえないらしい。「所変われば品変わる」のいい例だと思う。

日本では、蝉の声は、夏の風物詩だ。うるさいけど欠かせない。(笑)
長年地中にいた幼虫時代のウップンを晴らすかの如く、羽化登仙した蝉たちは、命のかぎり鳴き尽くす。
その姿に、日本人は命の尊さを愛でるのだ。

悲しみと苦しみ

2010-08-20 21:01:35 | 直観
悲しみは、何ゆえにあるのだろうか?
苦しみは、何ゆえにあるのだろうか?

できれば、
人は、悲しみたくないし、
できれば、
人は、苦しみたくもない。

それでも敢て、
悲しみの意味を問おう。
苦しみの意味を問おう。

たぶん、
「悲しみは、人を優しくする」ためにあるのだろう。
たぶん、
「苦しみは、人を強くする」ためにあるのだろう。

でも、
悲しみの中に浸りすぎると、そこから脱けられなくなることがある。
でも、
苦しみの中であえぎ過ぎると、喜びさえ忘れてしまうことがある。

だから、
何かを掴んだならば、
早々と、
悲しみから脱け出す努力をしよう。
早々と、
苦しみから離れる努力をしよう。