菅井滋円 作品集

絵を始めて半世紀以上の歳月が流れた 絵に向かう時何時も満たされないモノがある その場がここになりつつある。

作品 4

2016年06月24日 | 菅井滋円 作品集
作品 4
右京が開発され 双ケ丘の南の三ノ丘(さんのおか)が削られた。 花園駅の西は黒橋と云う地名だが 宇陀川に沿って南北に道路が繋がり 高尾や山越え 竜安寺からの交差点である福王子は 五差路になり南へ西京極への道路が貫通された。
花園から嵯峨へも亦幅の広い道路が通された。  「作品1」に掲げた絵はそのとき架けられた陸橋の様子を描いたものであった。
双ケ丘の西側にあった庭造りの人々が沢山住んでいた常盤(ときわ)と呼ばれる地域に 庭石や洒落た庭木を造っていた人々が何処かへ行ってしまったのだろうか・・・?
それに代わって新しい家が生(は)えきた まさしく生えてきたと云ったように見えた 畦道に代わりコンクリートの道路も出来あがった。
養豚場や養鶏場 そして造園業が失われ野壷(肥壺)も無い  茫々とトキは消えて行った。   それが何であったのか分からずにいた 否むしろ汚いモノが亡くなったくらいに思っていたのだが イマは何が亡くなったか わたしは若すぎた またまことに貧しかった わたしはあらゆるもの とりわけ脳味噌には経験が欠落していた・・・そのようなことをお構いなくトキは過ぎ去った そしてイマは昔となった。
うしなったものは川沿いの大きな桐の木であり また広隆寺への道筋にあった古木の欅であり また野壷でもあったが 何よりも長閑さが失われた いまはわたしの記憶の中にしかない  これも亦イマは昔となった。
懐かしい散歩道はこうして いまは脳味噌の中で ひとり常盤の畦道の散歩を悦しむのだ。

わたくしは光風会を卒業して 繊細なテンペラ画と彫塑の勉強を殆ど独学で始めていた。
アパートの部屋の有様は足の踏み場もない このページを開いて頂いた方々には想像できるだろう 六畳二間に所狭ましと絵と彫塑の粘土でイッパイになった部屋を。

そんな中で西陣にいた女房の母は他界した わたしは初めての喪主になった。

この頃二谷英明さんの二条城の前にあるビルで雇われ講師をしていた  夜晩く花園へと 鍵を開けその左側のスイッチを点けた 中に入ると わたしの目に入ってきたのは 粘土で半ば出来上がっていた若い男の彫塑である。

彫塑の背後は人の目には見えないが  見えない部分は確かに存在する しかし人の目に入ってくるのは平面である 背後はナイに等しいと云うことを直感した それは虚像である。

無駄なモノを削ぎ落せ 海岸に流木や貝殻には風砂により 無駄な部分を削ぎ落している 実にシャープに形状をなし 無駄のない形象を自然に削ぎ落していた。  海浜に機会がある度行き それらを拾い 追っかけ出していた。

「ものがたり」はわたしの絵から「かたり」部分が無くなった カタチ――形象は孤独になり出した。

花園春日町のアトリエを間もなく閉ざすことになった。