児童精神科 杉山登志郎氏の著書に発達凸凹という言葉を目にしたとき、
なるほど!と、腑に落ちたところがあります。
診断・治療・療育・支援共有の有り様は、幼児期からの成長過程で子どもの変化に大きく関わります。
その過程で様々な思いに格闘する親の精神的な重圧は、「発達障害」という診断名のくくりで倍増されます。
社会に対しての壁、価値観の喪失、孤立感などが重くのしかかる。
強いこだわりや記憶力、思いがけない発想や行動力、几帳面であったり、衝動的であったり、
発達にデコボコ(偏り)があるのは紛れもない事実なのですが、そこを「障害」と言ってしまっていいものかどうか。
成長の過程でプラスに伸ばすことも、マイナスを補うこともできるのではないか。
実際、発達凸凹でも十分に能力を発揮し就労している当事者は少なくありません。
上手に支援サービスを活用し親から自立した生活をしている当事者も多くいます。
はっきりと知的や身体的なレベルでサポートが必要だと認識できる場合であっても、
親の心情として「障害」のある子どもを受け止めるまでには、やはりそれぞれに時間がかかるのです。
他の子どもたちのように同じクラスで一緒に遊んだり、学んだり、行事に参加することができないのは、親としてつらいもの。
「自閉」という言葉もどうなのか。
社会に対して自らを閉ざしている、といったイメージにとられてしまいます。
逆に、彼らは自らの世界(そこが安全な場所)に開いているんじゃないか。
そこさえ閉ざされてしまったら居場所が無くなってしまいます。
診断は大事です。でも診断名に一方的にとらわれすぎないようにしないといけません。
はなから、ああもう、~障害だから、自閉~だからと、決めつけないようにしないといけません。
「自分は誰かに(社会に)必要とされている存在なのか」
何よりも大切なのはそこなのかもしれません。
「あなたの世界はあなた自身であるためにも必要なもの。
あなた自身を大切にするためにも社会とのかかわりが必要なんだ。
その障壁となっているものをクリアにするための方略を、一緒に考えてみよう!」
「あなた」が「子ども」であったり、「私」であったりしても、一緒に考えて背中を押してくれるような社会であってほしいですね。