今年はクリスマス礼拝の中で、中学3年生の女子が受洗の恵みに与りました。

洗礼式の中で読まれた救いの証しです。
「救いの証」 H.O. 2022.12.25.
私が教会に初めて行った頃、私はまだ赤ちゃんで、母に連れられて教会に来ていました。物心がついて礼拝堂で説教を聞くようになりました。はじめは難しくてわかりませんでしたがCSで学ぶようになってから、だんだんと意味も分かるようになってきました。
その過程の中、私の心を大きく動かす出来事がありました。私が小学2年生の時、教会学校の先生が突然天に召されました。当時の私にとって、死というものを知った瞬間でした。その頃から死というものが怖くて仕方がなくなりました。幼い時の私は祈ることも聖書を開くこともできず、ただ布団に潜り込んでいました。そんなことが続いたある日、礼拝でとある御言葉に出会いました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネの福音書11章25節)。この御言葉にどれだけ救われたことでしょう。当時の私にただ一つ道が開かれたのです。イエス様を信じよう。神様を信じよう。そう思えました。そうして牧師先生に信仰告白がしたいと告げました。最初は自分が罪人であると言おうとすると涙が出ました。小さい頃だったので自分もなぜ涙が出たのかわかりませんでしたが、2015/8/23に信仰告白をすることができました。しかし、その時の私には罪というものがまだぼんやりとしていたのです。
その後すぐに自分を守りたいがために罪を犯しました。ある日学校に、上履きを持っていくのを忘れてしまい、先生に怒られるのが怖かった私は友達の上履きを盗んでしまい、先生に呼び出されました。「本当にあなたがやったんだね。」と聞かれた際、私はすぐに答えられませんでした。母や先生に怒られたくなかったのです。友達には謝り、赦してもらえたのですが、自分でしたことへのモヤモヤが抜けず、家で激しく泣きました。そして、母から自分がしてしまったことがどれだけのことか話を聞きました。私は信仰告白をしたのにもかかわらず、大きな失敗をしてしまったと後悔をしました。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私達をすべての不義からきよめてくださいます。」(ヨハネの手紙第一1章9節)。母がお祈りをしてくれた後、私も「神様ごめんなさい。」とお祈りしました。2016年12月の事です。
すると、心の中のモヤモヤが薄れていくような感覚がありました。私はこの経験から罪を知り、イエス様は私の為に身代わりになって死んでくださり、それによって、神様は罪を赦してくださるということを知りました。
それから月日が経ち、CSや礼拝で聖書のお話がさらによく分かるようになってくると、神様に応答したいという気持ちが強くなっていきました。「神様に従っていきたい。」「私のできるご奉仕をしたい。」牧師先生に受洗希望を申し出ました。
そして現在、私はどんな時でも神様にお委ねすることができるようになりました。神様が私のそばにずっといてくださると確信しているからです。今でも、死の恐怖に襲われることはあります。とても後悔するような罪を犯してしまうことがあります。その様な時は、怖さや不安、自分の罪から目をそらしたくても、神様から目をそらさず罪を悔い改めて、神様にお祈りして、神様の御声を聞くようにしています。そんな風に神様とともに生活できる今は、とても平安で心の底から幸せです。