自由自律(日本国&仙台&東京)・千葉 潤(jchiba)(東京都所属)のきょうのひとこと

「他人事」のようにコメントしていた元総理大臣やマスコミとは別の視点で政治関連の動きをコメント。

「悪影響は…」(2024/3/31)

2024-03-31 23:55:51 | 政治・時事

「悪影響は…」(2024/3/31)

『世襲』でも 『個人商店』 などならば 悪影響は 小さいのだが…」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。どうやら世の中には、いわゆる「世襲」などと呼ばれるべきことをあえてしようとする人たちも、またいわゆる「世襲」などと呼ばれるべきことを容認しようとする人たちも多くいるようです。そもそもいわゆる「世襲」などと呼ばれるべきことを容認したり容認されたりする人たちは自分たち以外の人たちの存在を意識しているのでしょうか? 

いわゆる「世襲」が問題になるのは、社会の中の多くの人たちに対して非常に大きな影響を与える可能性が高い「大きな組織」であることが多いように思われます。例えば、地球上に無数に存在する「個人商店」や「零細企業」のような「非常に小さな組織」の場合には、いわゆる「世襲」が問題になることはほとんどないのだろうと思います。「個人商店」や「零細企業」のような「非常に小さな組織」の場合には、一般的に社会に与える影響が非常に小さいのでそこに所属している人たちがいわゆる「世襲」でもいいと思うのならばそれでもいいということに基本的にはなるのだろうと思います。しかし、社会の中の多くの人たちに対して非常に大きな影響を与える可能性が高い「大きな組織」の場合には、その「大きな組織」に所属している人たちの大多数がいわゆる「世襲」を容認したとしてもそれで問題なしということにはならないのではないかと思います。「大きな組織」の場合には、いわゆる「世襲」が容認されると同時に社会の中のその「組織」に所属していない多くの人たちに対しても非常に大きな影響を与える可能性が高くなるのです。あえて言い換えるのならば、社会の中のいわゆる「世襲」を容認していない人たちもいわゆる「世襲」の悪影響から逃れることができなくなるのです。そもそもいわゆる「世襲」などと呼ばれるべきことを容認したり容認されたりする人たちは自分たち以外の人たちの存在を意識しているのでしょうか? もしも社会の中のその「組織」とは無関係の多くの人たちに対して非常に大きな影響を与える可能性が高い「大きな組織」でいわゆる「世襲」が容認されるのならば、社会の中のいわゆる「世襲」を容認していない人たちもいわゆる「世襲」の悪影響から逃れることができなくなるのです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「滅びてしまう?」(2024/3/30)

2024-03-30 00:46:47 | 政治・時事

きょうは2024/3/30()です。

「滅びてしまう?」(2024/3/30)

『ご先祖』が 築いた『資産』 食い潰し やがて『組織』は 滅びてしまう?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。どうやら世の中には想像以上に「世襲」などと呼ぶべきものが多いようです。そもそもいわゆる「世襲」は本当に悪いことなのでしょうか? そしていわゆる「世襲」の人間たちには本当に「先代」から「資産」として受け継いだ「高い位置」に見合った十分な実力があるのでしょうか? 

多少の誤解を恐れずにあえて単純化して率直に言わせてもらうのならば、いわゆる「世襲」の人間たちは自分たちがいかに恵まれた環境の中にいるのかということを十分に理解していないことが多いのです。いわゆる「世襲」の人間たちが今現在当たり前のように務めている「仕事」の多くはいわゆる「世襲」ではない人たちにとっては一生努力しても務めることができない種類のものであるということも少なくはないのです。そしていわゆる「世襲」の人間たちが今現在当たり前のように親しく接しさせてもらっている人たちは、いわゆる「世襲」ではない人たちにとっては会ってもらうことさえも非常に難しい人たちばかりであるということも少なくはないのです。別の言い方をすれば、もしも「先代」から受け継いだ「資産」がなかったのならばいわゆる「世襲」の人間たちはそのような恵まれた環境の中にいることができなかった可能性が非常に高いのです。もちろん「世襲」であっても「世襲」ではなくてもその「仕事」に見合った十分な能力があるかどうかが重要であることは言うまでもないことです。しかし、それでもやはり、いわゆる「世襲」の人間たちは自分たちがいかに恵まれた環境の中にいるのかということを十分に理解していないことが多いのです。いわゆる「世襲」の人間たちは本当に「先代」から「資産」を受け継いだだけで自分も急に「先代」のような「偉くてすごい人」になることができたと思い込んでいるのでしょうか? 残念ながら世の中には勘違いしたいわゆる「世襲」の人間たちがとても多いようです。もしもこのまま勘違いし続けるのであれば「先代」から引き継いだ「ご先祖」が築いた「資産」を食い潰してその「組織」は滅びてしまうことになるのではないかと思います。くどいようですが、いわゆる「世襲」の人間たちには本当に「先代」の「資産」を受け継いだ「高い位置」に見合った十分な実力があるのでしょうか? きょうのところはあえてそれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「偉くてすごい人に?」(2024/3/29)

2024-03-29 00:48:48 | 政治・時事

「偉くてすごい人に?」(2024/3/29)

『先代』が 築いた『資産』 受け継いだ だけで偉くて すごい人に?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。どうやら世の中には想像以上に「世襲」などと呼ぶべきものが多いようです。そもそもいわゆる「世襲」は本当に悪いことなのでしょうか? 

多少の誤解を恐れずにあえて単純化して率直に言わせてもらうのならば、いわゆる「世襲」というものには必ずしも「血縁関係」は必要ないのです。「先代」が築いた「資産」を受け継ぐような場合には、「実の親」から「実の子」であったとしても、「義理の親」から「義理の子」であったとしても、「師匠」から「弟子」であったとしても、「上司」から「部下」であったとしても、あるいは、「先輩」から「後輩」であったとしても、「世襲」と呼ぶべきではないかと考えているのです。「血縁関係」があってもなくても、いわゆる「創業者」のように「ゼロ」からのスタートではなく、「先代」から「資産」を受け継いだ「高い位置」からスタートすることができるということには何の変りもないわけです。問題になるのは、「先代」から「資産」を受け継いだ「高い位置」からスタートしたときに、その「高い位置」に見合った十分な実力があるのかどうかということのはずなのです。まさか「先代」から「資産」を受け継いだだけで自分も急に「先代」のような「偉くてすごい人」になることができるとでも本気で思っているのでしょうか? 残念ながら世の中には勘違いしたいわゆる「世襲」の人間たちがとても多いようです。繰り返しになりますが、そもそもいわゆる「世襲」は本当に悪いことなのでしょうか? そしていわゆる「世襲」の人間たちには本当に「先代」の「資産」を受け継いだ「高い位置」に見合った十分な実力があるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「なぜ一括で返済しない?」(2024/3/28)

2024-03-28 23:53:34 | 政治・時事

「なぜ一括で返済しない?」(2024/3/28)

『借金』を 肩代わりする? それならば… なぜ一括で 返済しない?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には「借金」で首が回らなくなってしまう人たちが少なくないのです。そして世の中には「借金」で首が回らなくなってしまった人たちをいろいろと助けてくれる人たちもいるわけです。さらにその中には「借金」で首が回らなくなってしまう人たちの「借金」を肩代わりしてくれるような人たちもいるのだろうと思います。 

あくまでも一般論ですが、他人の「借金」を肩代わりするときには即座に一括で返済するようなことも少なくないのではないかと思います。映画やドラマでは他人の「借金」をその場で「貸金業者」に一括で返済して借用証書などを破り捨てたり燃やしたりするような場面がよく出てくるわけですが…。何にしても他人の「借金」をわざわざ肩代わりしようとするときにはその「借金」を一括で返済しようと考える方が自然なのではないかと思います。もっともごく一部の大資産家を除けば、「借金」があまりにも巨額である場合には、さすがに一括で返済するというようなことは難しくなるのだろうと思います。そして「借金」を一括で返済するわけでもなく、しかもその事情をよく知らないにもかかわらず、あえて他人の「借金」を肩代わりしようと思う場合には、「貸金業者」に「借金」の一部の金額をその他人に代わって返済するのではなく、普通は「借金」の返済のために必要なカネの一部をその他人に貸すようなことを選ぶのではないかと思います。もしかすると自分ではなく他人の「借金」の一部を返済するためにあえて「貸金業者」に一部の金額を返済するということには何か「特別な意味」があるのではないのでしょうか? どんなに少なくともごく自然なことではないように思います。自分が自分自身の「借金」の一部を返済するために「貸金業者」に一部の金額を返済するというのは、当たり前すぎるくらい当たり前の行為なのですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『世襲』?」(2024/3/27)

2024-03-27 00:42:09 | 政治・時事

きょうは2024/3/27()です。

「『世襲』?」(2024/3/27)

『組織』での 評判悪く ないときは 『後継指名』 されたり『世襲』?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。どうやら世の中には想像以上に「世襲」などと呼ぶべきものが多いようです。なぜいわゆる「世襲」はあちこちで見られるのでしょうか? またいわゆる「世襲」は悪いことなのでしょうか? 

あくまでも一般論ですが、いわゆる「世襲」というものは、その「組織」が存在することによって何らかの利益を受けている人たちがこれからもその利益を受け続けようとすればするほど、増える傾向が強まるのかもしれないと思います。言い換えれば、いわゆる「世襲」というものは、その「組織」とその「組織」が存在することによって何らかの利益を受けている人たちの現状を維持するための手段の1つなのです。さらに言い換えれば、いわゆる「世襲」というものは、その「組織」をバラバラにしないための手段の1つなのです。ですから、その「組織」の内部での評判が悪くない「後継者候補」と見られている人物が「後継指名」されたり「世襲」することになったりすることが多いのだろうと思います。そしてそれなりの長い歴史があって変化がそれほど大きくない社会では結果的に「世襲」というものが多くなるのかもしれないと思います。ところで、いわゆる「世襲」は悪いことなのでしょうか? もちろんその「組織」とその「組織」が存在することによって何らかの利益を受けている人たちにとっては悪いことではないのだろうと思います。しかし、その「組織」に所属していない人たちにとってはいわゆる「世襲」は必ずしも良いことではないのだろうと思います。そして変化の激しい時代には、その「組織」とその「組織」が存在することによって何らかの利益を受けている人たちにとってもいわゆる「世襲」は必ずしも良いことではなくなるのだろうと思います。どうやら世の中には想像以上に「世襲」などと呼ぶべきものが多いようですが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「なぜ『借金』ができるのか?」(2024/3/26)

2024-03-26 00:39:41 | 政治・時事

「なぜ『借金』ができるのか?」(2024/3/26)

なぜ貸すか? なぜ『借金』が できるのか? 本人以外 から『回収』か?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には「借金」で首が回らなくなってしまう人たちが少なくないのです。そもそもなぜそんなに多くの「借金」をしてしまったのでしょうか? あえて逆の言い方をすれば、なぜそんなに多くの「借金」をすることが許されてしまったのでしょうか? 

あえて個別具体的な事例や固有名詞には触れませんが、なぜギャンブルなどで何億円などという巨額の「借金」をすることができてしまうのでしょうか? ごく普通の多くの人たちにとっては、ギャンブルであったとしてもそれ以外の何かであったとしても何億円などという巨額の「借金」を積み重ねてしまうなどということはなかなか想像することもできないのではないかと思います。どこの世の中にも、カネを貸しても返してもらうことができない可能性が極めて高いことを知っているのにもかかわらず、あえて何億円などという巨額のカネを他人に貸すような人間はなかなかいないと思います。それにもかかわらず、なぜ何億円などという巨額の「借金」をすることができてしまったのでしょうか? 多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、おそらく何億円などという巨額の「借金」であっても比較的簡単に「回収」することができる可能性が十分にあると「貸した側」が考えたからではないかと思います。あくまでも一般論ですが、マフィアなどを含めたいわゆる「反社会的勢力」はたとえ相手がどれだけ支払い能力がなかったとしても「資産家」や「有名人」の家族などの場合にはすぐにいくらでもカネを貸すような事例が過去にはいくつもあったように思います。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきますが…。

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「返す必要はある?」(2024/3/25)

2024-03-25 23:39:19 | 政治・時事

「返す必要はある?」(2024/3/25)

本当に その金額を 借りたのか? そもそも返す 必要はある?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。世の中には「借金」で首が回らなくなってしまう人たちが少なくないのです。そもそもなぜそんなに多くの「借金」をしてしまったのでしょうか? あえて逆の言い方をすれば、なぜそんなに多くの「借金」をすることが許されてしまったのでしょうか? 

そもそもその巨額の「借金」をしてしまった人たちは本当にその巨額な金額を借りたのでしょうか? 毎回実際に現金を受け取って「借金」を繰り返していた人たちは巨額の「借金」をしたという実感はあるのかもしれないと思います。もっともたとえ毎回実際に現金を受け取って「借金」を繰り返していたような場合であっても、高金利のために「借金」が想像以上に大きく膨れ上がってしまったので巨額の「借金」をしたという実感は乏しいという人たちもいるのだろうと思います。あるいは、例えば、「酒類が提供される特殊な飲食サービス業」などで非常に高額な料金を請求されたような場合にもその実感は乏しいのだろうと思います。繰り返しになりますが、そもそも巨額の「借金」をしてしまった人たちは本当にその巨額の金額を借りたのでしょうか? 過剰に法外な料金を請求されていたり全く身に覚えのない法外な料金を請求されていたりするということはないのでしょうか? そもそも本当に「違法行為」の「対価」として法外な料金を支払う必要はあるのでしょうか? 多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、「違法行為」の「対価」として積み上がった巨額の「借金」を本当に返す必要があるのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『痕跡』」(2024/3/24)

2024-03-24 00:39:14 | 政治・時事

きょうは2024/3/24()です。

「『痕跡』」(2024/3/24)

『テロリスト』 『工作員』や 『スパイ』だと 示す『痕跡』 すべて消すはず!」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ある日唐突に「不祥事」や「疑惑」とは全く無縁だと思える人たちやその周辺から驚くような「不祥事」や「疑惑」が明らかになることがあります。「不祥事」や「疑惑」は本当に「寝耳に水」だったのでしょうか? もちろん後から考えてみれば「そう言えばあのとき…」などということはあるのだろうとは思いますが…。

 

多少の誤解と批判を恐れずにあえて率直に言わせてもらうのならば、ごく普通の多くの人たちにとっては、たとえ「テロリスト」や「工作員」や「スパイ」などと毎日長い時間ずっと一緒にいたとしても「テロリスト」や「工作員」や「スパイ」などであるということを示す「兆候」などに全く気づかないということはよくあることなのだろうと思います。当たり前と言えば当たり前の話ですが、「テロリスト」や「工作員」や「スパイ」などという人間たちは、自分たちが「テロリスト」や「工作員」や「スパイ」などであると絶対に気づかれることのないようにその「痕跡」をできるだけ隠したり消そうとしたりしているわけです。ところで、もしもその人が身近に接している誰かが「テロリスト」や「工作員」や「スパイ」などであったとしたら、その人には社会的責任や道義的責任などが問われることになるのでしょうか? もちろんその人が「テロリスト」や「工作員」や「スパイ」などであることを知って見て見ぬ振りをしながら身近に接していた場合には、社会的責任や道義的責任だけではなく、刑事的な責任も問われることもあるのだろうと思います。あくまでも念のために言っておきますが、たとえ「テロリスト」や「工作員」や「スパイ」などでなかったとしても、他人に知られては困ることをしている人間はその「兆候」や「痕跡」を隠そうとしているのだろうと思います。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『異変』に気づく?」(2024/3/23)

2024-03-23 23:39:06 | 政治・時事

「『異変』に気づく?」(2024/3/23)

『兆候』や 『異変』に気づく ことできる? その『不祥事』は 寝耳に水か?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。ある日唐突に「不祥事」や「疑惑」とは全く無縁だと思える人たちやその周辺から驚くような「不祥事」や「疑惑」が明らかになることがあります。「不祥事」や「疑惑」は本当に「寝耳に水」だったのでしょうか? もちろん後から考えてみれば「そう言えばあのとき…」などということはあるのだろうとは思いますが…。

あえて個別具体的な事例や固有名詞を取り上げることは避けますが、例えば、「薬物中毒」や「アルコール中毒」のような「不祥事」や「疑惑」の場合には、周囲の人たちは比較的にすぐにその「兆候」や「異変」に気付くことができるのではないかと思います。「薬物中毒」や「アルコール中毒」のようなものの場合には素人でもすぐに気づくことができそうな「兆候」や「異変」がいくつも現れるのではないかと想像することができるのです。一方、「痴漢」や「盗撮」のような「不祥事」や「疑惑」の場合には、「薬物中毒」や「アルコール中毒」よりもずっと「兆候」や「異変」に気付きにくいのだろうと想像することができます。たとえその人と毎日長い時間ずっと一緒にいても「痴漢」や「盗撮」の「兆候」などに全く気づかないことはとても多いのだろうと思います。もちろんもしも誰かのスマートフォンの画像データやメールなどをこっそり自由に確認することができる人がいるのならば、「痴漢」や「盗撮」などの「兆候」や「異変」にすぐに気づくことができるのかもしれないとは思いますが…。その上で、あえてひとこと付け加えるのならば、仕事中でもパソコンやスマートフォンを短時間操作するだけで簡単にできてしまう「銀行口座振込」や「ギャンブル」などの場合にはパソコンやスマートフォンのアクセス記録や履歴などを分析しなければなかなか「不祥事」や「疑惑」が発覚することはないのかもしれないと思います。繰り返しになりますが、「不祥事」や「疑惑」は本当に「寝耳に水」だったのでしょうか? もちろん後から考えてみれば「そう言えばあのとき…」などということはあるのだろうとは思いますが…。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「自白強要?」(2024/3/22)

2024-03-22 00:37:21 | 政治・時事

きょうは2024/3/22()です。

「自白強要?」(2024/3/22)

『説明』で ますます疑惑 深まるか? 自白強要 してもいいのか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。何かの「疑惑」や「不祥事」などについて「説明」をさせるだけ「説明」をさせておいて結局はその「説明」には納得しない…。もしかすると「説明」する前から「結論」は決まっていたのではないのでしょうか? もしかすると世の中の多くの人たちから「嫌われている人」は「疑惑」を晴らすことができないのではないのでしょうか? 

あくまでも一般論ですが、もしもどこかの誰かが何らかの「犯罪行為」を行ったという「疑惑」を持たれた場合には、いったいどうしたらその「疑惑」を晴らすことができるのでしょうか? 何かの公開された場所で「説明」や「釈明」などをすればその「疑惑」を晴らすことができるのでしょうか? そして「私は本当にやっていません。信じてください」などという程度の「説明」や「釈明」などをすると「疑惑はますます深まった」などということになってしまうのでしょうか? さらに言えば、もしかすると多くの人たちから「嫌われている人」の場合には「私は本当にやっていません。信じてください」などという程度の「説明」や「釈明」などをすると「疑惑はますます深まった」などということにされてしまう危険性が高くなるけれども、「人気者」の場合には「私は本当にやっていません。信じてください」などという程度の「説明」や「釈明」などをしただけでも多くの人たちからすぐに信じてもらえるのでしょうか? そしてひとたび「疑惑はますます深まった」などということにされてしまうと今度は「嘘を言うと犯罪になる場所」で「説明」や「釈明」などをしなければならなくなるのでしょうか? もしもこんなことが許されるのならば極端な場合には警察などで容疑者に「自白」の強要をすることも認められるようになってしまうかもしれないのです。政治倫理審査会で疑惑が払しょくされなかったから次は証人喚問? どうやら「疑惑」の真偽だけではなく「疑惑を追及している人間たち」の「能力」や「人間性」も同時に問われているようです。きょうのところはあえてこのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「『嫌われた人』は…」(2024/3/21)

2024-03-21 23:40:56 | 政治・時事

「『嫌われた人』は…」(2024/3/21)

『嫌われた 人』は『疑惑』を 晴らせない? 『説明』させて 納得しない!」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。言葉や理屈が全く通じない相手とはいったいどのように向き合っていくべきなのでしょうか? 言葉や理屈が全く通じない相手が許しがたい行動を繰り返しているのを止めるには「力」でねじ伏せる以外の方法はないのでしょうか? 

たとえ言葉や理屈が全く通じない相手の許しがたい行動を止める方法が「力」でねじ伏せる以外にはなかったとしても、だからと言って罪のない無関係な多くの人たちを巻き添えにするようなことが許されるわけではないのです。例えば、「大昔」の戦争ならば、敵が集落に逃げ込んだときにその集落ごと焼き尽くしたり、敵に「人質」を取られた場合であってもその「人質」もろとも敵を皆殺しにしたりするなどということはそれほど珍しいことではなかったのかもしれないと思います。しかし、今現在は21世紀なのです。「人質」を取って自分たちの「縄張り」の地域に逃げ込んでいる「無法者」たちをねじ伏せるために、その「縄張り」の地域を「完全封鎖」して中にいる無関係な罪のない人たちを含めたすべての人たちを「人質」にするようなことが許されるはずがないのです。くどいようですが、言葉や理屈が全く通じない相手とはいったいどのように向き合っていくべきなのでしょうか? 言葉や理屈が全く通じない相手が許しがたい行動を繰り返しているのを止めるには「力」でねじ伏せる以外の方法はないのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「今現在は…」(2024/3/20)

2024-03-20 00:51:08 | 政治・時事

きょうは2024/3/20()です。

「今現在は…」(2024/3/20)

『大昔』 の戦争では 珍しく ないのだろうが 今現在は…」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。言葉や理屈が全く通じない相手とはいったいどのように向き合っていくべきなのでしょうか? 言葉や理屈が全く通じない相手が許しがたい行動を繰り返しているのを止めるには「力」でねじ伏せる以外の方法はないのでしょうか? 

たとえ言葉や理屈が全く通じない相手の許しがたい行動を止める方法が「力」でねじ伏せる以外にはなかったとしても、だからと言って罪のない無関係な多くの人たちを巻き添えにするようなことが許されるわけではないのです。例えば、「大昔」の戦争ならば、敵が集落に逃げ込んだときにその集落ごと焼き尽くしたり、敵に「人質」を取られた場合であってもその「人質」もろとも敵を皆殺しにしたりするなどということはそれほど珍しいことではなかったのかもしれないと思います。しかし、今現在は21世紀なのです。「人質」を取って自分たちの「縄張り」の地域に逃げ込んでいる「無法者」たちをねじ伏せるために、その「縄張り」の地域を「完全封鎖」して中にいる無関係な罪のない人たちを含めたすべての人たちを「人質」にするようなことが許されるはずがないのです。くどいようですが、言葉や理屈が全く通じない相手とはいったいどのように向き合っていくべきなのでしょうか? 言葉や理屈が全く通じない相手が許しがたい行動を繰り返しているのを止めるには「力」でねじ伏せる以外の方法はないのでしょうか? きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調するだけにとどめることにしておきます。

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「対抗?」(2024/3/19)

2024-03-19 23:39:08 | 政治・時事

「対抗?」(2024/3/19)

『人質』を 取られたときは 対抗し 『人質』を取り 解決図る?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。言葉や理屈が全く通じない相手とはいったいどのように向き合っていくべきなのでしょうか? 言葉や理屈が全く通じない相手が許しがたい行動を繰り返しているのを止めるには「力」でねじ伏せる以外の方法はないのでしょうか? 

あくまでも空想上の話ですが、「無法者」たちが罪のない人たちを殺傷したり「人質」として連れ去ったりした後に自分たちの「縄張り」の地域に逃げ込んでいる場合には、その「縄張り」の地域を完全に包囲した上で「人質」の解放を求めるようなことを第三者が非難することは基本的にはないのだろうと思います。そしてもしも「人質」が監禁されている具体的な場所の情報が得られた場合には「人質救出作戦」が実行されることもあるわけです。そしてそのときに「人質救出作戦」の実行そのものを非難する人間たちはそれほど多くはないのだろうと思います。しかし、それでもやはり、罪のない人たちを殺傷したり「人質」として連れ去ったりした「無法者」が逃げ込んでいる「縄張り」の地域を「完全封鎖」して「縄張り」の地域の中にいる罪のない多くの人たちを含めたすべての人たちをまとめて「人質」にして「人質」の解放交渉などを促進させようとしたり「人質救出作戦」を有利に進めようとしたりするようなことは許されることではないのです。いくら言葉や理屈が全く通じない相手だったとしても「人質」を取られたときにはこちらも対抗して「人質」を取って解決を図るようなことはどんなに少なくとも褒められることではないはずなのです。繰り返しになりますが、言葉や理屈が全く通じない相手とはいったいどのように向き合っていくべきなのでしょうか? 言葉や理屈が全く通じない相手が許しがたい行動を繰り返しているのを止めるには「力」でねじ伏せる以外の方法はないのでしょうか? きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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「『新党』?」(2024/3/18)

2024-03-18 00:39:06 | 政治・時事

きょうは2024/3/18()です。

「『新党』?」(2024/3/18)

『違う人』 内閣総理 大臣に したいのならば 『新党』つくる?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。そもそも今現在支持率が低くて不支持率が高い岸田文雄首相を内閣総理大臣に選んだのはいったいどこの誰なのでしょうか? そもそも衆議院議員選挙もせずに支持率が低い内閣総理大臣を交代させるようなことは本当に許されることなのでしょうか? 

何度か繰り返していますが、現行の小選挙区比例代表並立制という衆議院議員選挙の選挙制度においては、小選挙区にはそれぞれの政党は1人しか候補者がいないのです。ですから政党から公認・推薦されて小選挙区で当選した候補者は少なくとも当選直後の内閣総理大臣指名選挙では自分自身を公認・推薦した政党の党首に投票するということになるわけです。そのように考えるのならば、現行の小選挙区比例代表並立制という衆議院議員選挙の選挙制度においては、有権者は小選挙区での投票によって事実上内閣総理大臣を選ぶということになるわけです。同じ選挙区に同じ政党の候補者が複数存在するのが当たり前だったかつての中選挙区制度のような選挙制度とは違って、ある政党を支持しているがその政党の党首を内閣総理大臣にはしたくないなどと思っている有権者にとっては小選挙区での投票では「究極の選択」を迫られることになるのです。自分が支持する政党を政権与党にすることを選ぶのか、それとも自分が支持しない人物を内閣総理大臣にしないことを選ぶのか…。現行の小選挙区比例代表並立制でもしも自分が支持している政党の党首とは「違う人」を内閣総理大臣にしたいと本気で考えるときにはいったいどうしたらいいのでしょうか? 結論としては、政党内に「派閥」をつくるのではなく「新党」をつくるべきということになるわけです。きょうのところはあえてそのことを指摘した上で強調することにしておきます。

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「無責任!」(2024/3/17)

2024-03-17 23:39:41 | 政治・時事

「無責任!」(2024/3/17)

無責任! 総理・総裁 決めたはず! 選挙で決めた はずではないか?」-

きょうもごく普通の多くの人たちが日ごろから疑問に思っていてもなかなか現実味を持って考えることができない「素朴な疑問」について、あえてありがちな物の見方とは少し違った角度から物事を考えてみることにしようと思います。そもそも今現在支持率が低くて不支持率が高い岸田文雄首相を内閣総理大臣に選んだのはいったいどこの誰なのでしょうか? そもそも衆議院議員選挙もせずに支持率が低い内閣総理大臣を交代させるようなことは本当に許されることなのでしょうか? 

今現在支持率が低くて不支持率が高い岸田文雄首相を内閣総理大臣に選んだのは自民党の国会議員ではないのでしょうか? もちろんその通りです。それではその自民党の国会議員、その中でも内閣総理大臣を選ぶことにより大きな責任のある衆議院議員を選んだのはいったいどこの誰なのでしょうか? 言うまでもなく有権者のはずなのです。もちろん前回の衆議院議員選挙(2021/10/31投開票)で自民党公認・推薦の候補者に投票した有権者により大きな責任があることは間違いないと思います。しかし、自民党公認・推薦の候補者に投票しなかった有権者にもそれなりの責任があるということを忘れてはならないのです。もしも有権者がそのことを忘れてしまうのならば、一部のマスメディアで好んで使われている「もしトラ」のような言葉が表す深刻な状況が日本社会でも起こり得るということになってしまう危険性が高くなるのです。自民党の衆議院議員を含めた与党とその支持者は、岸田文雄首相を自民党総裁・内閣総理大臣候補として決めて前回の衆議院議員選挙に臨んだはずではないのでしょうか? そして小選挙区比例代表並立制という選挙制度の下では、有権者は、前回の衆議院議員選挙で岸田文雄首相を日本国の内閣総理大臣として事実上選んだということになるのです。くどいようですが、自民党公認・推薦の候補者に投票しなかった有権者にもそれなりの責任があるのです。もしも衆議院議員選挙もせずに内閣総理大臣を変えようなどと思っているのならば、それはあまりにも無責任ではないかと思います。だからこそ次期衆議院議員選挙では有権者は今よりももっとずっと真剣に自分自身の投票行動を考えなければならないのです。きょうのところはあえてこれ以上のことは言わないことにしておきます。

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