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過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のTHE BEATLESだヨ(=^◇^=)


【1965年9月19日】この日の放送にビートルズは出演しませんが、エドサリバンが次回の放送からカラー放送になるという説明を行なう、そのエンディングでビートルズの「ヘルプ」の演奏が流れました。これも本編の演奏とはテイクが異なるリハーサルでの演奏です。
  DISC TWO
  SEPTEMBER 19, 1965 rehearsal
  10. Introduction #1
  11. Help! rehearsal #1
  12. Introduction #2
  13. Help! rehearsal #2

  DVD DISC TWO
  SEPTEMBER 19, 1965
  REHEARSAL
  15. Help!
  16. Help!
 http://www.teenagedream-record-3rd.net/?pid=93387208

人生のすべてをビートルズに捧げたマネージャー、ブライアン・エプスタインの憂鬱
2016年09月19日 執筆者:藤本国彦
「新鮮で純粋だった。何と言っても存在感があった」
『レット・イット・ビー』以来46年ぶりとなるアップル公認のライヴ・ドキュメンタリー映画『ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK ‐ The Touring Years』(9月22日から全国公開)には、ビートルズのマネージャー、ブライアン・エプスタインのそんな発言が出てくる。1961年11月9日、リヴァプールのキャヴァーン・クラブで演奏する4人を初めて見た時のコメントだ。決して大袈裟ではなく、その瞬間、彼は人生のすべてをボーイズ(エプスタインは彼らをそう呼んだ)に捧げたと言ってもいいだろう。
ブライアン・エプスタインは1934年9月19日、家具店を営む裕福な家庭に生まれた。父親のハリー・エプスタインが大きな家具店(North End Music Store)を経営していたため、経済的には何の不自由もなく育ったものの、勉強嫌いで学校を7回も変わるという落第生だったらしい。その後デザイナーになろうとしたが、父親の反対で家業を継ぐも長続きせず、元来の芝居好きが高じて俳優になろうと決心しロンドンへと向かう。22歳の時のことだ。だが、“他人に興味がなく敗北を異常に恐れる”俳優たちを目の当たりにして失望し、再びリヴァプールに舞い戻り、58年からNEMSの経営者として家具店のレコード売り場を切り盛りすることになった。
売れたレコードと在庫の確認を日々怠らず、客の注文がきたら即座に対応できる態勢をとる。“NEMSに行けばどんなレコードでも手に入る”――彼のそんなプロ意識をぐらつかせたのはビートルズだった。61年10月にレイモンド・ジョーンズという10代の若者が「マイ・ボニー」のシングルを探しに店に来たが、エプスタインはそのシングルのことを知らなかったという(エプスタインは、ビル・ハリーが創刊したリヴァプールの音楽情報誌『マージー・ビート』のレコード評を担当するなど、地元の音楽シーンに強い関心を持っていたので、それ以前に“ビートルズ”の名前を目にしていた可能性もある)。エプスタインがビートルズに興味を持つ最初のきっかけはそうして生まれた。そして、キャヴァーン・クラブでのステージを見てビートルズに惚れこんだ彼は、61年12月21日に、キャヴァーン・クラブのDJボブ・ウーラーの仲介でマネージャーとして契約を結ぶ(正式契約62年1月24日)。
多くの人が望むものを、時期を逃さずに提供すること――NEMSのレコード売り場での経験は、そのままビートルズの売り出しにも生かされた。清潔なイメージ戦略もそうだし、64年のフランス市場拡大や66年の日本を含むアジア戦略もそうだ。ライヴを軸にビートルズの魅力を世界的に広げていったエプスタインの頂点は、前述の映画と同時上映されるシェイ・スタジアム公演(65年8月15日)だろう。その映像には、5万5600人の観客を見渡しながら、ステージ横でビートルズの演奏を恍惚とした表情で見守るエプスタインの姿が映し出されている。デビュー後3年足らずでビートルズを世界一のライヴ・バンドに育てたエプスタインに対し、ポールはビートルズにMBE勲章が授与されることが決まった時に「MBEは“Mr.Brian Epstein”の略だ」と感謝の意を表した。
しかし、ビートルズのライヴ活動の終焉(66年8月)は、「4人がよく見えるように」と常に気にかけてきたエプスタインとボーイズとの別離を表わしてもいた。ビートルズがマハリシ・マへシ・ヨギの講義を受けるためにウェールズに滞在中だった67年8月27日、エプスタインはドラッグの服用過多により32歳の若さでこの世を去ってしまう。生き甲斐だったビートルズが“ファンのいない場所”へとどんどん遠ざかっていくことに耐え切れなかったのだろう。もしエプスタインが生きていたら、69年1月30日のアップル・ビル屋上での“再結成ライヴ”をどんな思いで見つめたのだろうか。 
ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK ‐ The Touring Years>
cApple Corps Limited. All Rights Reserved.
9/22(木・祝)より 角川シネマ有楽町ほか全国公開
配給:KADOKAWA
http://music-calendar.jp/2016091901

 Vol.20  LondonにBeatlesの足跡を訪ねて…(1)
 カミさんとの新婚旅行でロンドンへ行った際、ほぼ1日をロンドン市内の「BEATLESの足跡巡り」に費やしました。
 これから何度かに分けて(飛び飛びになるかも知れませんが…)、彼らゆかりのロンドン市内のスポットをご紹介します。
 まずは…鉄道ファンの僕ゆえ、このページから2回に亘り、彼らの初の主演映画“A HARD DAY’S NIGHT”のオープニングの舞台となった、Marylebone駅の様子をご覧頂きましょう。こちらのページも参考にどうぞ…。
‡(写真はいずれも2002-9-19撮影)
 ロンドン市街の中心からやや北西に行った所に、Marylebone駅があります。
 1899年に、グレートセントラル鉄道(GCR)の始発駅として建設・開業したこの駅ですが、隣接するPaddington駅が長距離列車やヒースロー空港への直通列車で賑っているのに比べると、ロンドン近郊への通勤列車の発着が中心のこの駅は閑散とした感じがします。地下には地下鉄Bakerloo Lineの駅も併設されており、Oxford Circus,Piccadilly Circusといったロンドンの都心部へ直結しています。
 重厚で華麗なレンガ造りの駅舎は、開業当時からの建築ということです。
 1964(昭和39)年04月05日と12日の両日、この駅で『A HARD DAY'S NIGHT』の撮影が行われ、オープニングのシーンとロンドンに到着するシーンの双方が撮影されました。ファンと共に駅構内へなだれ込んで行くシーンを撮影したのが、写真の奥側に写っている車寄せです。一方、手前側の入口ではファンを巻いた(?)後に4人が乗り込んだ自動車が、ファンに囲まれながら駅を出て来る時のシーンが撮影されています。
 駅舎の正面にある車寄せです。映画のオープニングシーンでJohn,George,Ringoの3人はファンに追い掛けられながら、ここから駅構内へ駆け込んで行ったのでした。
 現在は改装工事が行われ、駅のメインの入口は上の写真の手前側の入口となっています。この入口から入ると、駅舎の中に出店しているイギリスの大手スーパー(?)“MARKS & SPENCER”に入ることになります。
 駅舎の入口の門扉には、この駅を開業したグレートセントラル鉄道(GCR)のマークが残されていました。
 その後、GCRは1923年にロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道(LNER)に合併され、さらに1948年の国有化によりイギリス国鉄(British Railways=BR)に引き継がれて、その後再び1994年から順次民営化されて行ったのです。
 このマークは100年以上に亘って、駅の移り変わりを眺めていたのでしょう。もちろん、映画ロケ当日の喧騒ぶりも。
 Marylebone駅の正面入口から、ホームを望んだところです。
 Paddington,Euston,Waterlooといったロンドンの大ターミナルでは通常は改札がなく、自由にホームへ出入りできるのですが(イイのかどうか判らないけれど…)、この駅は近郊区間の列車の発着が中心のためか、しっかりと自動改札機が設けられていました。映画の撮影当時はもちろん自動改札もなく、構内まで自動車が乗り入れることも出来たようです。彼らが列車から乗り換えた自動車はちょうどこの写真の正面から走って来て、立っている場所の後方にある入口から駅の外へ出たのです。
 構内で写真を撮影しようとして、改札傍にいた駅員(?)にいろいろ話したのですが、「いったん正面入口の駅事務室まで行ってくれ」とのご託宣。やむなく事務室で傍らに抱えていた「ビートルズの歩き方」の本を広げ、「この写真を撮りたい」とお願いして、やっと中へ入れてもらえました。
 「あぁ、BEATLESの写真ね!」…と、その駅員が言っていましたので、ひょっとするとこういう同類(?)が多いのでしょうか?
 正面の車寄せから対になる場所に、壁から斜めに張り出した事務室跡のようなスペースがありました。恐らく、これがかつての出札室だったのではないかと思います。
 オープニングシーンでJohn,George,Ringoの3人が電話ボックスに入ってファンをやり過ごすショットがありましたが、その電話ボックスのスペースがこの出札室のそばでした。先に述べた通り、この場所には現在“MARKS & SPENCER”が出店している(左側が駅構内からの入口)のですが、電話ボックスの場所は店内の陳列棚の裏側に隠れ、確認できなくなってしまったとのことです。
 …ということで、駅構内の様子は次回へ続きます。こちらへどうぞ…。
 http://moving.la.coocan.jp/yabunirami20.htm

 Vol.21  LondonにBeatlesの足跡を訪ねて…(2)
 2002- 9-30記、2002-12- 2加筆訂正
 前回に引き続き、映画『A HARD DAY'S NIGHT』のオープニングの舞台となったMarylebone駅構内の様子を紹介しましょう。
 (写真はいずれも2002-9-19撮影)
 駅構内の隅の方に、Johnが逃げ込んだ写真ボックスのあった場所が残っていました。「ビートルズの歩き方」にも、この写真と同じアングルが紹介されています。
 駅舎からホームにかけてのコンコースにも大屋根が掛かっており、日本の駅ではなかなか味わえない開放的な雰囲気が味わえます。
 旧出札室(?…前回参照)から通路を挟んだ向かい側には、小規模な売店が並んでいます。
 Paulがじいさんと並んでベンチに座っていたシーンは、ちょうどこの辺りで撮影されていたとのことですが…。現状では残念ながら、はっきりした場所は判りませんでした。
 そういえば、荷物用のカートにPaulを除く3人が乗せられて運ばれて行くシーンがありましたね。ということは、撮影当時はこの駅に発着する荷物輸送があったのではないかと思われますが、現在の構内を見渡した限りでは荷物扱いをしている様子はありませんでした。どの辺りにあったのでしょうか…?
 Marylebone駅の1番ホームです。このホームをJohn,George,Ringoの3人はファンに追い掛けられながら全力で(?)駆け抜けて無事にPaulと合流し、動き出した列車に飛び乗ったのでした。また、列車の到着シーンもアングルを変えて、このホームで撮影されています。
 ご覧のとおり、近郊列車の発着が主となった現在でも往時の面影を留めており、ホームにたたずんでいるとあのシーンが目に浮かんで来るような感じがします。ただ、構内は当時に比較すると縮小されており、現在2~3番線の線路が敷かれているスペースには撮影当時レールがなくホームの一部となっていて、彼らを乗せることになる自動車(おとりも含めて)がここに乗り入れていたのでした。
 大屋根の掛かったホームは意外と長く、優に300m以上の長さがあります。屋根が掛かった部分だけでも200m近くありますから、撮影のためにダッシュした彼らもファンも大変だったことでしょう。
 Marylebone駅のホームを望んだところです。
 ホーム2面に着発線4線と、留置線が数本。ロンドンのターミナル駅の中ではいちばん小規模ということですが、大屋根は2組架設されています。上の写真の説明でも書きましたが、映画の撮影当時は写真手前側の2~3番線は無くホームとなっていたようで、写真の右側に大屋根がもう1組架設されており、こちらにもホームが展開していました。もしかすると、ホームが広かったのは荷物輸送のためだったのでしょうか?
 1994年から実施されたBR(イギリス国鉄)分割民営化に伴い、この駅に発着する列車は全て“Chiltern Railways”という会社が運行しています。コベントリー・バーミンガム方面への列車が主体のようで、日中は1時間に4~5本の運行となっています。構内には架線も張られておらず、全て気動車列車での運行となっています。
 Marylebone駅の東側に、『A HARD DAY'S NIGHT』のいちばん最初のシーンが撮影されたBoston Placeがあります。この写真の左側のレンガ壁が、Marylebone駅のホームの大屋根を支える壁になっています。
 ご覧のとおり、撮影から38年経った現在も当時の面影を存分に残しており、今にも向こう側からメンバーとファンがドーッと走って来そうな感じがします。ちなみに僕も走ってみたのですが…写真にならないので、ヤメにしました(^^;)。
 ということで、2回に亘りMarylebone駅の現在の様子を紹介しました。
 次回以降も、ボチボチとロンドン市内のBeatlesの足跡を紹介しようと思います。お楽しみに!
 参考文献…ビートルズの歩き方(マーク・ルイソン他著)…プロデュースセンター(1995)
 http://moving.la.coocan.jp/yabunirami21.htm

 Vol.22  LondonにBeatlesの足跡を訪ねて…(3)
 (2002-11-30記)
 しばらく間が空きましたが、懲りずにカミさんと行ったロンドン編です(^^;)。
 今回と次回は、ロンドン市内のビートルズゆかりのスポットについて紹介して行きます。あまり「一般的」でない所もありますが、よろしければお付き合い下さいませ。
 なお、街歩きのテキストとして「ビートルズの歩き方」(マーク・ルイソン他著・1995・プロデュース・センター)と、日本航空発行のロンドン市街図を参考にしました。
‡(写真は特記以外、いずれも2002-9-19撮影)
 1. 旧アップル・スタジオ他(Savile Row 3番地)
 Regent Street(「リーゼント・カット」の語源になった)の1本西側に、Savile Rowという細長い通りがあります。
 仕立屋が多く並んでいて、日本語の「背広」の語源になったと言われています。
 この通りに、Appleのオフィスのあったビルが残っていました。1968年から1972年にかけてAppleの本社がこのビルに入居しており、有名な1969年1月30日の「抜き打ちライブ」も、このビルの屋上で行われています。オフィス移転後も、地下のスタジオは1975年まで存続していました。
 現在、このビルは内部がすっかり改装され、上層階も増築されたそうですが、このアングルから見ると比較的かつての雰囲気が残されています。映画“Let It Be”でJohnが降りて行った地下のスタジオへの階段は柵で塞がれましたが、別の場所から地下に降りる階段は残っていました。
 それにしても、ここはPiccadilly Circusにもほど近い、文字通りLondonのど真ん中。こんな所の屋上からバンドの音が響いて来たら、そりゃあみんな(ファンでなくとも)ビックリするでしょうね…。
 2002-9-17撮影
 2. 4人が共同生活していた家(Green Street 57番地)
 地下鉄Marble Arch駅の近く、Oxford Streetの1本南側の通りにある北向きの建物です。
 1963年から1964年にかけての一時期、4人はこのフラットの57番地(手前から2つ目の入口)の5階で、共同生活を送っていました。
 ちなみに、この建物内でフォトセッション等も行われていたそうです。
 3. 旧HMV (Oxford Street 363番地)⇒ 地下鉄Bond Street駅近くのOxford Street北向きに、もとHMVショップだった建物があります。 1962年2月のある日、このビルの2階のスタジオをBrian Epsteinが訪れ、BEATLESのデモ・テープからアセテート盤をカッティングしてもらったのです。彼はこれを手に、数日後にEMI本社を訪れ、George Martinに彼らのオーディションを依頼したのでした。いわば、4人がEMIからメジャーデビューを果たすきっかけとなったのが、この建物ということになります。 2000年4月にHMVは通りの向かい側のビルに移転し、現在は“Foot Locker”というスポーツシューズの専門店になっています。 建物の一角に、写真のような店の由来とBEATLESとの関わりについて紹介したプレートが取り付けられています。このプレートは
 2000年4月26日に、George Martinによって除幕されたとのことです。
 HMVが1921年に1号店としてオープンした店が、ここの店舗なのです。ちなみにこの「ニッパー犬」のマーク、アメリカや日本では「ビクター」ブランドでお馴染みですね。
 4. Apple Boutique跡(Baker Street 94番地)⇒ 1967~68年にかけて、この建物の手前側の角に“Apple Boutique”が店を構えていました。当時はサイケデリックなイラストが壁面全体に描かれていたそうですが、今は綺麗に剥離され、外観上はさほど目立たなくなっています。。 ちなみにこの場所のやや北側の交差点近くに、マダム・タッソーのろう人形館があります。また、“Baker Street”といえば、シャーロック・ホームズを思い出す人も多いのではないでしょうか?…ということで、この続きはこちらへどうぞ。
 参考文献 … ビートルズの歩き方(マーク・ルイソン他著)…プロデュースセンター(1995)
 http://moving.la.coocan.jp/yabunirami22.htm

 Vol.23  LondonにBeatlesの足跡を訪ねて…(4)
 前回に引き続き、ロンドン市内のビートルズゆかりのスポットを、写真と共にご紹介しましょう。
‡(写真はいずれも2002-9-19撮影)
 5. Abbey Road Studioと「横断歩道」(Abbey Road 3番地)
 今や「聖地」ともなったこの場所です。地下鉄Jubilee線のSt.John’s Wood駅から徒歩で行くのが一般的ですが、ロンドン市内(Picadilly Circus,Oxford Circus付近)からバス139系統に乗れば、スタジオ前までダイレクトに行くことができます。
 ここをBeatlesの4人が使っていた頃は“EMI Studio”という名称でしたが、現在は正式に“Abbey Road Studio”と呼ばれるようになり、軒先のEMIマークも無くなっています。
 スタジオ前の門柱には、例によって落書きがゾロゾロ。日本語で書かれたものも何点か見掛けました。
 こちらもお馴染み、スタジオ前の横断歩道です。
 “Abbey Road”のジャケット撮影当時と比較すると、センターラインが減速を促す波状の引き方に変えられており、サイドラインも追加されています。写真後方に写っている白い建物が、Abbey Road Studioです。
 本来なら、Iジャケット写真と同じポイントに立ちたいところなのですが、この場所はかなり交通量の激しい交差点なのです。ゆえに、「定点撮影」をしようとすると突っ込んで来るクルマに跳ね飛ばされるか、交通渋滞を引き起こす原因になります(^^;)。
 ちなみに、ジャケットのアウトテイクとなった写真には2階建てのロンドンバスが写っていたそうですが、このスタジオまで乗って来た139系統のバスをオペレートしている会社には2階建てバスが在籍していないようで、我々が乗ったバスも「平屋」の車両でした。
 6. EMIハウス跡(Manchester Square 20番地)
 かつて、EMIレーベルの本社があったのがここ。「EMIハウス」と通称されていたこのビルの吹き抜けで、彼らのデビューアルバム“Please Please Me”のジャケットが撮影され、この時のアウトテイクが後に“Get Back”用に撮影された写真と共に、「赤盤」「青盤」に使用されました。
 1994年にEMI本社が移転した後にビルは解体され、訪れてみると別な会社のオフィスが建てられていました。
 とはいえ、新築されたビルもいささかクラシックな装いで、周囲の環境に配慮したあとが伺える…のが、ロンドンらしいということでしょうか?。
 7. “HELP!”の1シーンに出て来る「インド料理屋」 (Blandford Street 4~6番地)
 映画「HELP!」(1965年公開)をご覧になった方なら、Ringoがハメられた「指輪」の秘密を探りに、4人がインド料理屋に入るシーンを記憶されているかと思います。
 そのシーンの舞台となったのが、ロンドンの街中の何ということのないこの一角でした。左側手前の黄色いテントの場所が「インド料理屋」という設定になっており(料理屋の内部はスタジオセット)、映画製作から37年を経た現在も、当時の面影を留めたままの景観が残されています。
 面白いことに、この場所は現在でもちゃんとしたレストランとして使用されています。
 8. Prince Of Wales Theatre (Coventry Street 31番地)
 1963年11月4日に「The Royal Command Variety Performance」が開催されたのが、この劇場でした。Beatlesの4人もこのショーで曲を披露し、ラストナンバーの“Twist And Shout”の前にMCを担当したJohnが「安い席の皆さんは拍手を…そしてそれ以外の皆さんは、宝石をジャラジャラ鳴らしてください」とぶち上げたのは、有名なエピソードになっています。
 現在、この劇場ではミュージカルが主に上演されているようです。訪問時には、エロティックなシーンの存在で物議をかもした“The Full Monty”が上演されていました。Covent GardenからLeicester Square,Piccadilly Circusにかけての周辺には劇場が多く並んでおり、「オペラ座の怪人」「ママ・ミア!」といった話題作も、この界隈で上演されていました。
 おまけ…
 Piccadilly Circus交差点の近くで、“Imagine”の一節が記された横断幕が掲げられているのを見掛けました。
 訪れた時期がちょうど「9・11」から1周年の直後でしたので、恐らくはオノ・ヨーコさんの発案で掲げられていたのではないでしょうか…。
 (この写真は2002- 9-17撮影)
 ひとまず、ロンドンのビートルズ・スポット編はこれにて一段落です。
 カミさんのサイトでも、ロンドン訪問時の様子などを紹介しておりますので、こちらもあわせてご覧下さいませ。
 http://moving.la.coocan.jp/yabunirami23.htm


《 Single"Love me Do"から"Please Please Me"へ  》
 1962(昭和37)年10月02日(火)に発表された「Love me Do」は、ブライアン・エプスタインにとって、そしてビートルズにとっては絶対にヒットさせなければならない曲で、彼はその為にあらゆることを考え、熱心に曲を紹介ます。彼の謙虚なところは「ビートルズはあくまでも自然な勢いで世間に知られて欲しい。この曲も同様で売り込むつもりは無い!」と明言し、「激しい売り込み」を否定する発言です。「Love Me Do」は大企業のロンドンのEMI社から発売されたと云うだけあり、全国に注目を浴びることとなります。「Love Me Do」と云う曲は、世間のイメージでは「かなり風変わりな曲」と言われることが多い中、発売当初のイギリスのヒットチャートでの記録は最高17位まで達しますが、大ヒットと云う訳には行きません。
 1962(昭和37)年10月24日(水)の全国チャートでは48位となり少しずつ人々に浸透して行きます。ビルボード(Billboard)誌では、
 1964(昭和39)年05月30日(土)に週間ランキング第1位を獲得、ビルボード誌1964年年間ランキングでは第14位、「キャッシュボックス」誌でも最高位第1位を獲得し、1964年度年間ランキングでは13位、アメリカでは100万枚以上のセールスを記録します。イギリスでは、デビュー20周年を記念して1982年に再発された時は最高位第4位となり最終的にはトータルで30万枚以上のセールスを記録することになります。このシングルはオリジナル盤・リイシュー盤ともに、パーロフォンの赤ラベルと黒ラベルが存在しており、オリジナル盤の方はいずれも希少価値の高いレコードで、特に黒ラベルは入手困難であり、ビートルズコレクターの間では人気アイテムとなります。しかし、ブライアンの回りは彼への心配が募り、忠告される日々を迎えます。「あんな若者たちと関わり続けると大変なことになる!」「音楽業界の連中など信じるな!」彼の両親に至っては「ビートルズがエルヴィス・プレスリーよりもビッグになるなんて信じられない!」と告げ、彼の将来を案じます。これらは、至極当たり前の接し方には違いありません。ジョージ・マーティンにもまた別の「やらなければならないこと」が存在し、それは、「マーティン自らが評価し、契約したリバプールの若者達が、間違いなく素晴らしかったと云うことの証明」です。それは言いかえれば、デビュー曲「Love Me Do」で注目を浴びたからには、次は彼らに大ヒット曲を与えなければならないと云う使命です。ビートルズにとって、「ジョージ・マーティンとの出会い」は必然ではあるものの「幸運」と云う言葉が適切でしょう。何も考えずに行動している者同士では、「普通」こうは行かないはずです。そして、ジョージ・マーティンは、ファースト・スングル「Love me Do」に続き、セカンド・シングルの候補を挙げます。マーティンは、一度封印した「How Do You Do It」を提案しますが、ビートルズはマーティンが用意したこの曲にまたも難色を示し、対抗曲として「Please Please Me」と云うオリジナル曲を提案します。今ならば多くの人が「なるほどあの曲ならば、ヒット間違いなしだ!」と納得されるでしょうが、ジョンが作ったこの曲はこの時まったくと云って使い物にならない作品で、マーティンはこの曲に違和感を覚えます。ジョージ・マーティンは語ります、「ビング・クロスビーの「Please」と云う古い曲からタイトルを引用した云う『Please Please me』を初めて聴いた時、ジョンはロイ・オービソン風のファルセット唱法で歌った。スローで、もても悲しげで、全く売れそうもなかったと感じた」。しかし、ジョージ・マーティン・マジックここから始ります。マーティンは「このままの曲調では使えないが、リズムをアレンジし、テンポを上げればヒットする可能性はある」と提案し、彼らも受け入れます。「Please Please me」はこうした経緯により、今私たちの前に現れることになります。
 1962(昭和37)年11月26日(月)、ビートルズはEMIスタジオ(通称:アビーロード第2スタジオ)で「Please Please Me / Ask Me Why」を録音をすることになるのですが、その前にこの曲の注目すべき点を少し書かせて頂きます。この曲をモニターヘッドホンなどで聴いて頂くとよく分かるとは思いますが、ベースとヴォーカルそしてコーラスが結構複雑な構成で仕上げられています。演奏全体の印象としてジョンの素晴らしいハーモニカが目立ち、ギターの音が聴き取りにくい感じに仕上がっています。ここで注目べきはポールのベースとジョージのギターで、「Come on」のコードA ⇒ F#m ⇒ C#m ⇒ A のところでは、ジョージが意図的に「Come on」に合わせ BとC#を弾き、ポールのベースが3回目のC#mのところでは、主音と5度の音をひっくり返し G# ⇒ C# と弾いていることです。これはビートルズの音創りが当たり前でない証拠で、簡単ではありますが、工夫を凝らしています。エンディングの E ⇒ G ⇒ C ⇒ B ⇒ E と云うコードも曲の終わりを意識させる音創りの奥深さが感じられます。そしてボーカルでは、曲の冒頭の「Last night I said these words to my girl」と云う個所のメロをポールはEの音だけで歌い、ジョンはそのEの音から D# ⇒ C# ⇒ B と移って行き、ポールの少し揺れながらの声とジョンの安定した声がマッチし、素晴らしいハーモニーを作り出しています。また、3部にコーラスになる部分でもジョンとポールの高低音パートが入れ替わり、その下をジョージがコーラスをつけています。このように3人同時に歌う個所では互いが意識してトーンを近づけている感が強く、完全に一つの固まりでスピーカー(ヘッドホン)から飛び出てきます。デュエットになるエンディング「Please please me, who, yeah, like I please you…」の部分も「please」と「you」の高低音がジョンとポールで入れ替わります。この複雑な入れ替わりハーモニーと3部コーラスは、ビートルズの大きな特徴で、後に発表される「From me To You」や「I Wont Horld Your Hand」などでも多用されることとなります。サビのところのジョンのボーカルの合間に「In my heart」とバックが入りますが、これもこの曲で重要な雰囲気作りの個所で、マーティンのアイデアかもしれません。(ビートルズ大研究から引用)
 1962(昭和37)年11月26日(月)、ビートルズはロンドンのセント・ジョンズ・ウッド・アビー・ロード3番にあるEMIスタジオ(通称:アビーロード第2スタジオ)での3時間のレコーディング・セッションを行い、セカンド・シングル「Please Please Me / Ask Me Why」の録音を開始します。1時間のリハーサルが用意されていたため、ビートルズは午後6時にスタジオに姿を現します。そして、午後7時、「Please Please Me」のレコーディングが開始されます。まずは、あの印象的なハーモニカ抜きで録音されます。それは、この曲は歌いながらハーモニカを吹くことができる構成ではないからで、そのパートはその日オ-バーダブされます。ハーモニカの編集用を含め『Pleas Pleas me』は18テイク録音されます。レコーディングが終了すると、ジョージ・マーティンはトーク・バックを使いこう叫びます、「初のナンバー1ヒット曲、間違いなしだ!」。「Please Please Me」収録後、ビートルズはB面「Ask Me Why」のレコーディングに開始します。この曲は、6テイクを録り、これにてこの2曲は完成に至ります。マーティンは放った「初のナンバー1ヒット曲、間違いなしだ!」と云う言葉の奥には、マーティンの想いと予感が多分にあったのでしょう。
 1962(昭和37)年10月30日(火)、「Please Please me / Ask Me Why」のリミックス作業は行われます。この日はまず「Please Please Me」がミックス・ダウンされ、そのモノラルミックスはシングル盤とアルバム「Please Please Me」の両方に収録、その後「Ask Me Why」の第6テイクがモノラルにミックス・ダウンされます。この作業の開始・終了時間は記録に無く、またビートルズは、昼はキャバーン・クラブのランチタイムショーに出演し、夜はニュートン=ル=ウィローズのタウン・ホールに出演していたため、この場にはおらず、リミックス作業に参加するようになるのは、ずっと後の話になります。このシングルは
 1963(昭和38)年01月11日(金)に英国で発売されますが、メロディ・メーカー紙、NME紙、ディスク紙では確かに発売6週間でNo.1を獲得します。しかし、、ニュー・レコード・ミラー紙 (New Record Mirror) が指標としていたレコード小売店チャートでは2位どまりとなり、正真正銘のNo.1をビートルズが獲得するのは「From Me To You」以降となります。ジョージ・マーティンは語ります、
「自分が高く評価したビートルズは、E.M.I.では評価されなかった。ビートルズとEMIの契約に関しては、トップも批判的で、保守的な考え方の持ち主である宣伝部長も『マーティンは「今まで見たことのない可能性を秘めているグループ」だと言うが、ビートルズには何の将来性も見い出せない!』と言う始末だった。」。ビートルズのデビュー曲「Love Me Do」は、E.M.I.としてヒットさせようという努力がなされず、放置とも云える状態になります。いつの世も、グループやレコードをヒットさせるためには、当然、大変な企業努力が必要であり、全国的に宣伝するには、かなりの出費を覚悟せねばなりません。当時の宣伝部長はあまりにも保守的過ぎて、その決断ができなかったと云うことです。「Love Me Do」がごく限定されたラジオでのオン・エアしかされなかったのは、このような背景があったせいだと推測されます。ブライアン・エプスタインは、ほとんど宣伝しようともしないE.M.I.に失望し、マーティンに相談します、
「ビートルズの次の曲は出版社に話を持ちかけて、そこで宣伝してもらうようにしたい」。E.M.I.の宣伝部門が殆ど動いていなことの知ってたマーティンは、冷静かつ積極的にアドバイスします、「ブライアン、僕はアメリカの会社よりもイギリスの会社の方がいいと思うよ。出来れば、とてもハングリーな人間がベストだ。ビートルズや君のために一生懸命やってくれる会社を探すんだよ。」。エプスタインはマーティンに告げます、
「僕はエルヴス・プレスリーの曲を出版している“ヒル&レンジ社”との契約を考えいる。あなたはどう思いますか?」、それを聞いたマーティンは、「ヒル&レンジは、君達がいなくても全然困らない。彼らにはエルヴィス・プレスリーがいるから、君達はきっと重要視されないと思うよ」とブライアンに再びアドバイスします。エプスタインは、ヒル&レンジ社の他にこれと云う会社に心当たりが無く、ここでもジョージ・マーティン相談するとことになります。エプスタインは語ります、
「これまで事あるごとに僕たちに幸運をもたらしてくれたジョージ・マーティンに話しを聞いてもらうしかなかった。彼はアメリカの出版社の人間とイギリスの出版社二人、計三人を紹介してくれた。」。そして、マーティンの紹介で、イギリス資本の出版社を経営する“ディック・ジェイム”に話を持ちかけることとなります。ディック・ジェイムズは、マーティンととても親しい間柄で、ビートルズのデビューにふさわしい曲をマーティンが探している時、「How Do You Do It」を提供してくれた人物であり、マーティンのプロデュースの下、歌手活動の経験も積んだ人物で、テレビドラマの主題歌をヒットさせことも多々あり、二人は強い信頼関係で結ばれていたのです。ディック・ジェイムズは語ります、
「ジョージ・マーティン氏がその依頼で僕に電話してきた。尊敬する彼が選んだグループなので、素晴らしいことは間違いないはず、使用できたよ。」。この時、エプスタインも独自で動いており、EMI傘下の子会社の出版社の幹部と会う約束を取り付けますが、約束の時間にその会社を訪れた彼を、担当者は30分近く待たせます。エプスタインは語ります、
「約束を守れない人間ではダメだと判断し、その会社の秘書にその旨を伝え、その足でディック・ジェイムズの会社に向かった」。
★マーティンとブライアンの間に居るのが「ディック・ジェイムズ」です。ディック・ジェイムズの会社に向かったブライアンは、彼のオフィスに、約束の時間より随分早く着いてしまいます。ブライアンは受付の女性に、
「ここで待たせて頂けますか」と告げると、彼女はジェイムズに連絡し、ジェイムズは待っていましたとばかりにオフィスから現われ、ブライアンを笑顔で迎えます。ディック・ジェイムズは、マーティンの云うところの「まさにハングリーな心情で、ブライアン、そしてビートルズのために全力を注いでくれる存在」だったようで、歌手としてそれなりのヒット曲も出した過去もあり、曲を作り上げる仕事にも係わりそこでもヒット曲を生み出し、約1年前に現役を引退し、出版社として独立したばかりの44歳の彼へのオファーはチャンスとも云える出来事だったのです。ディック・ジェームズは語ります、
「あの時、すぐに、出来たばかりのシングルレコード『Please Pleas me』を聴かせてくれとブラインに告げたんだよ、聴き終えた僕は感動したね。これは行けると思ったよ。」。彼もまた、ヒット曲を見い出す才能に長けた男だったと云うことです。この時、ジェイムズは思いがけない行動をとります。エプスタインが長期契約の話を持ちかけた時、「please please Me」が間違いなくナンバーワンになると信じたジェイムズはその場で歌手だった頃の友人関係や各方面に電話をかけ始めます。エプスタインはじっと見守ります。ジェイムズはフィリップ・ジョーンズと云うテレビ番組のプロデューサーに電話し、頼みごとをします、「リバプール出身の素晴らしいグループがいる。彼らを土曜のショーに出演させてくれないか」。しかし、一流のプロデューサーであるジョーンズはこう返答します、
「如何に友人と云えど、自分で彼らの実力を確認するまでは、予定を変更してまで特別に出演させるわけにはいかない」。しかし、それで引き下がるジェイムズではありません。彼は、「Please Please Me」を電話を通して聴かせると云う行動に出ます。これは、如何に彼が「Please Please Me」に感激したかを物語ります。曲を聴き終えた友人ジョーンズは即答します、
「とても素晴らしいサウンドだ。合格だよ!今週の土曜のショーに出演させよう!」電話を終えたジェイムズはブライアンに伝えます、
「彼らの土曜の予定はどうなっている?空いているか確認して欲しい。テレビに出られるんだ!」そしてビートルズにジョーンズが担当する全国ネット人気番組「サンク・ユア・ラッキー・スターズ」の
 1963(昭和38)年01月13日(日)の出演予約が入ることとなります。そして、周りの人を巻き込む奇跡がとうとう起こり始めます。
 1963(昭和38)年01月13日(日)の人気TV音楽番組『サンク・ユア・ラッキー・スターズ』への出演は、ビートルズにとってこれまででもっとも重要なことだと云えるしょう。『サンク・ユア・ラッキー・スターズ』とは、ABCテレビがTVネットワークのために制作し、ミッドランドと北イングランドのエリアで放送され、撮影収録にはABCとATVの共同所有のバーミンガム・アストンにある「アルファ・スタジオを使い、ミッドランドでは平日に、ロンドンでは週末に放映される番組です。この日ビートルズはその「アルファ・テレビジョン・スタジオ」で演奏、収録します。当時の『サンク・ユア・ラッキー・スターズでは、通常出演者はスタジオの観衆を前にレコードに合わせてリップシンク (くちパク)するのが恒例で、1961年4月から出演している多くのミュージシャン同様、7組の出演者リストの最後の出演リストに書かれたビートルズも「Please Please Me」をリップシンクし、この時の収録は6日後の
 1963(昭和38)年01月19日(土)にオンエアされます。番組での彼らの登場部分は前半最後で、CMの直前と云う記録が残っています。当時『サンク・ユア・ラッキー・スターズ』は非常に人気の高い番組で、前述通りビートルズが出演できたことは、大事件とも云え、また、彼らの出演を演出したディック・ジェームスは、ビートルズの曲を管理するようになってから巨万の富を蓄積することとなり、彼にとっても一大事件だと云うでしょう。そして、このTV出演が起爆剤となりビートルズの快進撃は始まります。下記写真は、
 1962(昭和37)年09月下旬の水曜日、
‡1962(昭和37)年09月19日(水)、
 1962(昭和37)年09月26日(水)、リヴァプール埠頭周辺の倉庫にて、写真家レス・チャドウィックによって撮影されたものです。そしてついに、
 1963(昭和38)年02月07日(木)、ビートルズは待望のセカンド・シングル「Please Please Me / Ask me Why」をリリースします。この曲の販売権のオファーを受けていたE.M.I.のアメリカ・レーベルである「Capitpl Record」は突然その権利を辞退することをE.M.I.に申し出ます。その後販売権は、国外のマスターをアメリカのレコード・レーベルに移すことを業務にしているE.M.I.系列子会社「Transglobal」に委託され、「Transglobal」は、「Atlantic」にオファーをするも受けてもらえず、最終的に「Vee-Jay」がアメリカでの販売を引き受けることになります。これが、アメリカでのデビュー・シングルとなり、イギリスでは
 1963(昭和38)年02月25日(月)、日本では
 1963(昭和38)年03月04日(月)のリリースとなります。面白いことに、最初のプレスでは「The Beattles」と記載されます。このシングルはイギリスのレコード・リテイラー、ミュージック・ウィークでは最高2位、メロディー・メイカーで2週連続1位、ニュー・ミュージカル・エクスプレスで3週第2位、イギリスでは35万枚のセールス記録、アメリカのビルボード(Billborad)誌では、
 1964(昭和39)年03月14日(木)に、週間ランキング最高位の第3位を獲得し、ビルボード誌1964年年間ランキングでは第36位、『キャッシュボックス』誌でも最高3位を記録し、年間ランキング37位を獲得します。尚、B面には、イギリスでは3枚目のシングルとなった「フロム・ミー・トゥ・ユー」が収録され、アメリカでは100万枚以上のセールスを記録ます。イギリス本国でのシングル盤はオリジナル盤・リイシュー盤ともに、パーロフォンの赤ラベルと黒ラベルが存在しており、オリジナル盤はいずれも希少価値の高く、特に赤ラベルのほうが入手困難であり、ビートルズ・コレクターの間では人気アイテムとなります。作曲クレジットは前作のLennon-McCartneyからMcCartney-Lennonに変更された。この表記はアルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』を挟み次作シングル「フロム・ミー・トゥ・ユー」まで使用されることとなります。
<ポールが語る" Lennon=McCartney"の曲作りについて>ビートルズのオリジナル曲の8割は作曲者が「レノン=マッカートニー(Lennon=McCartney)」とクレジット(Credit)されています。ジョンとポールが作曲を始めたのはまだ学生だった10代の頃で、二人は良く学校をさぼりポールに家に行き、曲のアイデアを次々とノートに書き留めて行きます。
「レノン=マッカートニー(Lennon=McCartney)」と題されたそのノートは、現在ポールが所有しています。アメリカのソングライターチーム、「ゴフィン=キング(Goffin=King)(ジェリー・ゴフィン=キャロル・キング)」に憧れた二人は、純粋に二人で共作した曲も、片方がメインでもう片方が手伝った曲も、どちらか一方が書いた曲も、全て「レノン=マッカートニー(Lennon=McCartney)」で発表しようと約束します。この取り決めは1970年のビートルズ解散まで貫かれ、1969年のジョンのソロ「平和を我等に(Give Peace a Chance)」にまで適用されます。興味深いことに、デビュー直前の一時期に限って「マッカートニー=レノン(McCartney=Lennon)」と云うクレジットが使われており、確かな理由や経緯は明らかにされていませんが、1963年7月のシングル「シー・ラヴズ・ユー(She Loves You)」以降は順序が決められ、ジョンの名前が先に来るようになります。ポールは語ります、
「僕とジョンは学校をさぼって、良く僕の家でギターを掻き鳴らしていた。父は働きに出ていたからここが一番いい場所なんだ。パイプに紅茶を詰め込んで吸ったこともある。味は良くなかったけど、大人の気分を味わっていたんだ。二人でアコースティック・ギターを持って、向かい合って吸った。曲を作ろうと自分の心を見つめる代わりに、目の前でプレイするジョンを見ている。まるで自分自身を映す鏡を見てるかのような、最高の時間だった。僕らは一緒に曲を作った。僕がノートに書きつけたタイトルはいつも『アナザー・レノン=マッカートニー・オリジナル(ANOTHER LENNON = MCCARTNEY ORIGINAL)』だった。次のページも『アナザー・レノン=マッカートニー・オリジナル』なんだ。ノートには歌詞とコード・ネームをメモしてるだけだ。カセットテープなんかまだなかったし、グランディグ社のテープレコーダーなんか買う金もなかった。だからメロディは頭に入れておかなければならない。バック・コーラスのところには"oh-"と云う印を付けた。他に書き方を知らなかったんだ。テープレコーダーを持っている友達がいたけど、僕らは録音することはほとんどなかった。まだ僕らが自分たちの曲に入れ込んでなかったせいもあるけど、ジョンと僕の間に、自分たちが覚えられないような曲を他の人が聴いて覚えられるわけがないと云う暗黙の了解があったからなんだ。」。(書籍『Beatles Gear』抜粋参照)
 https://beatles-in-ashtray.jimdofree.com/1962-%E5%BE%8C%E5%8D%8A-08-16-11-26/

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