過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のTHE BEATLESだヨ(=^◇^=)

 

 ポール全公演中止が決定 体調回復せず
 2014(平成26)年05月20日(火) 10時0分配信 日刊スポーツ
 体調不良で東京・国立競技場公演を2日間とも中止したポール・マッカートニー(71)が
 2014(平成26)年05月21日(水)の日本武道館公演、
 2014(平成26)年05月24日(土)の大阪・ヤンマースタジアム長居公演を含めた全公演を中止することが
 2014(平成26)年05月20日(火)、決まった。
【写真】13年、幕内土俵入りを見つめるポール・マッカートニーとナンシー夫人
 2014(平成26)年05月17日(土)の公演延期の際に発表した「ウイルス性炎症」による体調不良が回復せず、
 2014(平成26)年05月19日(月)、引き続き静養に専念すべきとの医師の判断の結果を受けた。これを受けてアーティスト側、招へい元および日本公演主催各社で協議を重ね、ここで無理してステージに立つよりも、ポール本人の完全な体調回復を最優先すべきと判断した。今後は、ポール本人も希望している早期再来日公演の実現に向けて協議していく。チケットに関しては、
‡2014(平成26)年05月22日(木)午前10時から
 2014(平成26)年6月9日(月)まで、購入先で払い戻しをする。詳しくは公演公式サイト、テレドーム(自動音声案内)で案内する。
 公演公式サイト http://outthere-japantour.com/テレドーム(自動音声案内)0180・99・3335
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 井上陽水、ポールの回復願い熱唱 「早く良くなりますように」
 2014(平成26)年05月23日(金) 06時58分『デイリースポーツ』
 熱唱する井上陽水=東京・NHKホール 
 シンガー・ソングライターの井上陽水(65)が
‡2014(平成26)年05月22日(木)、東京・NHKホールで全国ツアーの東京公演を行った。ウイルス性炎症で日本公演を全て中止した元ザ・ビートルズのポール・マッカートニー(71)の回復を願い、ポールが作ったビートルズの楽曲「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」を熱唱した。陽水は終盤「中高生だったころビートルズをよく聴いていた。それが今でも影響を受けている」と語り、「コンサートが中止になって心配です。ポールさんにささげる!ではないですが、1曲歌ってみようと思います」と歌い上げた。今ツアーでポールの曲を歌うのは初。歌唱後は「どうか彼が早く良くなりますように」と祈った。今ツアーは1973年に発表、日本初のミリオンセラーLPとなった名盤『氷の世界』のデジタルリマスター盤
 2014(平成26)年05月21日(水)発売を引っさげてのもの。アルバムの全収録曲を含む26曲を披露した。 

 

                   1.W.&72 NY.NY.apt.72.
                    22nd june 1974.

  dear syn,

      this i s the answer to your letter. i dont have it with me
  no i cant REALLY answer it. as you can see, i learned to TYPE:
  any way Its getting near JULIANS,holiday,and i thought i,d ask you
  when i should send may over for him.how long etc etc.you could tell
  me on the phone i suppose,but i felt like typing..
      hope the new house is fun.say high to helen and ga ng.
  was it you told me jeff mohamed was dead?what happened to tony carricke
  r?
        thats all for now,i need to know the detailes so i can
  plan accordingly.
           lots of love
                to'you,JULIAN.
                     and LIL ●.

               your famous exhusband,

                        john.

                     JOHN ⇒ ジョンの手書き署名

 ジョン・レノンが先妻シンシアさんにあてた手紙。
 ロンドンの競売商クリスティーズでオークションに掛けられ、
 1万2000ポンド(約250万円)で落札された(ロンドン)
‡2006(平成18)年05月22日(月) AFP=時事
 1974(昭和49)年06月22日(土) ジョン・レノン筆跡
 http://www.jiji.com/jc/d4?d=d4_topics&p=joh100-jlp04450915


『COMPLETE DECCA AUDITION TAPES』
   型番 DAP-B001
 販売価格 3,500円(内税)
 ビートルズの歴史的記録として知られている62年デッカ・オーディション・テープ音源が過去最高クオリティの新音源ソースによるマスター・エディションとしてリリースです。 これまでにも音質向上やピッチ修正等の様々なバリエーションがありましたが今回のマスター・エディションでは最も未編集のオリジナル・ソースに近いマスター音源としてすでにコアな海外のビートルズ・コレクターでもベスト音源と話題になっているもので実際そのクリアな音質クオリティそしてテープ・スピードやレングス(曲の長さ)等のコンディションにおいて初めて陽の目を見た待望のマスター音源といえるでしょう。 後半ボーナス・トラックでは公式デビュー前のビートルズ・ドキュメントとしてトニー・シェリダン音源やEMIオーディションさらにキャバーン・クラブ・リハーサル音源等も収録されています。 結果的にオーディションを落としデッカとして歴史的痛恨を残した今となっては伝説の記録であるデッカ・オーディションの決定版となるマスター・エディションです! ビートルズ・コレクターにはすでにお馴染みのデッカ・オーディション音源ですがかつてアナログ時代にはデッカゴーン・シリーズとしてシングル盤が30年以上前に出回って以来数多くのLP盤がリリースされCD時代になると音質向上やピッチ修正等が謳われたタイトルもリリースされてきましたがいずれもマスタリングでリバーブ加工されたり一部の曲のエンディングがカットされたりしてオリジナル音源から劣化したものがほとんどで盤起こしではないテープ音源からのCDにおいても同様で結局デッカゴーン・シリーズのシングル盤が音質・内容共に一番良かったとも言われてきましたがこれまでこのアナログ・マスターの元となった音源を使ったリリースはなく今回リリースの音源はこのオリジナル・マスターからの初CD化となります。 実際に比較検証するとこれまで過去にリリースされた音源はオリジナルに近づける編集はなされていても今回のリリース音源と完全に一致するものはなく過去のコピー音源ではないことが分かります。 場合によって曲の時間がより長いものも見受けられますがピッチの違いによるものでこのオリジナル・マスターを超える内容のものはありませんでした。またオフィシャル「アンソロジー」に一部収録されたものと比較しても音質そのものもいっさいの加工や調整もない最もナチュラルでクリアなサウンドです。 また今回リリース音源でマスターから唯一補正されたのが「マネー」冒頭のテープヨレを本来の状態にした箇所のみでそれ以外はオリジナル・マスター通りの収録となっています。 
Tony Sheridan Recording Sessions At Friedrich Ebert Halle, Hamburg, Germany 
 22-24 june 1961&may 1962 
 17. My Bonnie 
 18. The Saints 
 19. Cry For A Shadow 
 20. Why (Can't You Love Me Again) 
 21. Nobody's Child
 22. Ain't She Sweet 
 23. If You Love Me Baby (Take Out Some Insurance On Me, Baby) 
 24. Sweet Georgia Brown 
 25. Sweet Georgia Brown (backing track) 
 26. My Bonnie (german intro) 
 http://strangelove-records.com/?pid=121366349

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 ┃ Out There! Japan Tour 2014 ┃■中止■
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 2014(平成26)年5月17日(土) ■中止■国立競技場
 2014(平成26)年5月18日(日) ■中止■国立競技場
 2014(平成26)年5月21日(水) ■中止■日本武道館 ※追加公演
 2014(平成26)年5月24日(土) ■中止■ヤンマースタジアム長居 
 ◎当初、2014(平成26)年5月17日(土)に国立競技場で行う予定だった公演においては、ステージが設営され、グッズ販売も実施されるなど準備が整えられていたが、同日の開場直前になって、ポール本人の急病により急遽中止となった。
 2014(平成26)年5月19日(月)に振替公演を行うとし、
 2014(平成26)年5月17日(土)のチケットはそのまま有効となると発表された(希望者にはチケットの払い戻しも実施)。この時点では、
翌2014(平成26)年5月18日(日)以降の公演は予定通り行うとされていた。しかし
 2014(平成26)年5月18日(日)も前日と同じく開場直前になって中止が発表され、延期で開催される予定であった
翌2014(平成26)年5月19日(月)の公演についても中止となった。この発表があった直後、招聘元であるキョードー東京は「延期」と表現していたが数時間後に「中止」と訂正した。ただし、チケットの払い戻しは一度停止されていたことから、事実上「日程未定の延期」となった。この時点では日本武道館公演とヤンマースタジアム長居公演は予定通り実施するとしていた。
 2014(平成26)年5月20日(火)になって、キョードー東京は「日本武道館公演、ヤンマースタジアム長居公演を含めた全公演を中止する」と発表された。
‡2014(平成26)年5月22日(木)から
 2014(平成26)年6月09日(月)までチケットの払い戻しに応じた[19]。
 ◎別項記述の通り、この再来日公演直後に予定されていた初の韓国公演(ソウルオリンピック主競技場)、6月に予定されていたアメリカでの7公演についても並行して中止が発表された。この後、アメリカの7公演については同年10月に振り返られ、後に開催された。国立競技場はすでに
 2014(平成26)年5月31日(土)で改築に伴う使用停止が決まっていたためこれ以上の延期ができず、「幻の国立競技場公演」となってしまった。
 ◎キョードー東京はポールの病名を「ウイルス性炎症」と発表。詳細については公表されなかった。
 2014(平成26)年5月23日(金)、ポール側は都内の病院で治療を受け順調に回復していることを明らかにするが[20]、その後も報道は過熱。日刊ゲンダイは、ポールが腸閉塞を発症し緊急手術を受けていたと報道[21]。また産経新聞は、腸捻転により緊急手術を受けていたと報じた[22]。招聘元関係者の一人である湯川れい子は、自身のTwitterで、これらの報道は公式発表ではなく、本人は回復して次のツアーに備えていることを強調。詳細については守秘義務のために公表できない状況であることを認めた[23]。
 ◎キョードー東京の発表によると、
 2014(平成26)年5月26日(月)にホテルをチェックアウトし、空港へ直行してチャーター機で離日した[19]。出国は極秘に行われ、渡航先も公表されなかったが、翌27日にロンドンでナンシー夫人と散歩している姿がパパラッチによって撮影され、イギリスに帰国していたことが判明した[24]。
 ◎キョードー東京は再来日公演が開催直前に中止となったことや、主催者発表の大幅な遅れ、情報が二転三転したことを謝罪した。この一連の動きの後、ポール本人も希望している早期の来日公演実現に向けて協議が行われ、翌年の再来日が実現している。
*********************** http://www.asahi-net.or.jp/~wa5y-knn/
 https://ja.wikipedia.org/wiki/ポール・マッカートニー#日本公演日程
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 『ザ・ビートルズ・LPレコード・コレクション』第18号 ┃ 180g
 ┃       『The Beatles / 1962-1966』       ┃VINYL
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 重量盤
 2018(平成30)年04月24日(火) 発売
‡2018(平成30)年05月22日(火) 発行   THE BEATLES 
     通常価格・・・本体2,759円+TAX(8%)=2,980円
      発行所・・・DeAGOSTINI JAPAN (デアゴスティーニ・ジャパン)
 映像◆隔週刊 ザ・ビートルズ・LPレコード・コレクション【デアゴスティーニTVCM】https://youtu.be/2nH7M9fnU48
 
************************* https://deagostini.jp/btr
 https://deagostini.jp/btr/backnumber.php?issue=18
 https://www.amazon.co.jp/dp/4813521819
 https://en.wikipedia.org/wiki/1962?1966
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 『ザ・ビートルズ・LPレコード・コレクション』第20号 ┃ 180g
 ┃      『The Beatles' Anthology 1』      ┃VINYL
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 重量盤
‡2018(平成30)年05月22日(火) 発売『ザ・ビートルズ・アンソロジー1』
 2018(平成30)年06月19日(火) 発行   THE BEATLES 
     通常価格・・・本体3,694円+TAX(8%)=3,990円 ※Wアルバム作品だヨ(=^◇^=)
      発行所・・・DeAGOSTINI JAPAN (デアゴスティーニ・ジャパン)
 映像◆隔週刊 ザ・ビートルズ・LPレコード・コレクション【デアゴスティーニTVCM】https://youtu.be/2nH7M9fnU48
 
************************* https://deagostini.jp/btr
 https://deagostini.jp/btr/backnumber.php?issue=20
 https://www.amazon.co.jp/dp/4813521835
 https://en.wikipedia.org/wiki/Anthology_1
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ THE BEATLES of 1963  ┃(wed)22 May
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 Concert: Gaumont Cinema, St Helen's Street, Ipswich, Suffolk
 "Early 60s. Love Me Do had just come out. Beatles were playing at Ipswich Gaumont and I had a ticket. I was dashing home from work to get changed and go to see them. It was raining. I saw 4 fellows standing looking in the window of Footmans department store.I realised that they were the Beatles. I wandered over and pretended to be looking in the window. There was nobody else in the whole street. Finally I said to Ringo who was nearest to me 'I'm coming to see you tonight' He said 'Hope you enjoy it' and the others all said something else to that effect. My strange recollection from that encounter was that I realised that I was taller than all of them except Paul. Later at the Gaumont I could hardly hear a thing because of the screaming girls. Happy days. 
 Male, 65 South East England "
 Source: http://www.magicalmemorytour.com/viewmemory.php?id=10473&cat=Gaumont,%20Ipswich
 "I went to see the Beatles at Ipswich Gaumont in 1963 as a schoolgirl - I booked tickets two weeks after the box office opened and amazingly got second row seats in the stalls! 
 Roy Orbison was great and Louise Cordet was very good; I remember she had a hit with a song called I'm Just a Baby. The Beatles were gorgeous. There was no hysteria and no huge crowds that I can remember. In fact, in contrast to the gig at the Odeon in Romford about a month later, it was pretty low-key. 
 A whole lot of us schoolgirls booked a coach from Colchester to Great Yarmouth to see the Beatles a few weeks later but they did not appear. Gerry and the Pacemakers topped the bill I think. A bit of a disappointment when it should have been the Beatles. Absolutely everyone at school was talking about the Beatles. 
 I had cousins behind the iron curtain and they were Beatles fans and wanted to know more about them. I was a member of their fan club, run by Bettina Rose in Liverpool in those days, and had that feeling that they were 'my' group. Round about this time I became conscious that they were a world-wide phenomenon..." 
 Source: http://www.beatlesbible.com/1963/05/22/live-gaumont-cinema-ipswich/ 
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 http://www.multiplusbooks.com/630522.html
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ ビートルズ詳解 The Beatles’Corpus ┃
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①1960(昭和35)年05月22日(日) オフ日
②1961(昭和36)年05月22日(月) ライヴ演奏:トップ・テン・クラブ/ハンブルグ (52日目)
 7月1日のもうひとつの(土)曜日まで92日間、毎日演奏良好だヨ(=^◇^=)
③1962(昭和37)年05月22日(火) ライヴ演奏:スター☆クラブ/ハンブルグ (39日目)
⑥1962(昭和37)年04月13日(金)~05月31日(木) ハンブルグ写真集(1)
 場所:スター・クラブ (Star-Club)
 撮影:ドリス・ケンプフェルト (Doris Laempfert)
 写真◆撮影日は未詳 ピアノを弾いているのはロイ・ヤング (Roy Young)
⑦1962(昭和37)年04月13日(金)~05月31日(木) ハンブルグ写真集(2)
 場所:スター・クラブ (Star-Club)
 撮影:マンフレッド・ヴァイスリーダー (Manfred Weissleder)
 写真◆1964(昭和39)年03月12日(木)~26日(木)発行FIRST BEATLES COLOURPICとタイトル付『MERSEY BEAT』にカラーで掲載(右)
 1964(昭和39)年03月12日(thu)~26日(thu) The photo to the right appeared in the March 12-26, 1964 issue of Mersey Beat with the caption, "First Beatles Colour Pic".
⑧1962(昭和37)年04月13日(金)~05月31日(木) ハンブルグ写真集(3)
 場所:スター・クラブ (Star-Club)
 撮影:マンフレッド・ヴァイスリーダー (Manfred Weissleder)
 写真◆ジーン・ヴィンセントとのスナップ
 写真◆クラブの経営者で親友のホルスト・ファッシャー
 写真◆"Ruth"と呼ばれる女性らしい
 写真◆手に持つのは精力剤として当時流行ったプレルディン
⑨1962(昭和37)年04月13日(金)~05月31日(木) ハンブルグ写真集(4)
 場所:スチュアート・サトクリフのアトリエ (キルヒャー家の屋根裏部屋)
 撮影:アストリッド・キルヒャー (Astrid Kirchherr)
 写真◆右はありし日のスチュアート
 写真◆ジョンはどうしても同じ場所に立つ写真を撮りたがったという
⑩1962(昭和37)年04月13日(金)~05月31日(木) ハンブルグ写真集(5)
 場所:ハンブルグとオッシー (Ostsee) の間の地
 撮影:不明
 写真◆ジェリー&ザ・ペースメーカーズ (Gerry & The Pacemakers) と外に出かけた時のスナップ。
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 ①https://gejirin.com/beatles/history/1960/19600523_live_fraserburgh_scotland.html
 ②https://gejirin.com/beatles/history/1961/19610401_live_top_ten_club.html
 ③https://gejirin.com/beatles/history/1962/19620413_live_StarClub.html
 ⑥https://gejirin.com/beatles/history/1962/19620413-531_Hanburg_photos1.html
 ⑦https://gejirin.com/beatles/history/1962/19620413-531_Hanburg_photos2.html
 ⑧https://gejirin.com/beatles/history/1962/19620413-531_Hanburg_photos3.html
 ⑨https://gejirin.com/beatles/history/1962/19620413-531_Hanburg_photos4.html
 ⑩https://gejirin.com/beatles/history/1962/19620413-531_Hanburg_photos5.html
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓┌─――――┐
 ┃ THE BEATLES HISTORY ┃|  May  22|142
 ┃    ザ・ビートルズの今日の出来事   ┃|5月22日|
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 1960(昭和35)年05月22日(日) シルヴァー・ビートルズ屈辱のスコットランド・ツアーのオフ日。ジョニー・ジェントルのバック・バンドとして同行したが、移動距離を考慮しない日程、交通事故で顔面を怪我したドラムのトミー・ムーア、劣悪で薄汚れた会場での演奏。お金に困ったシルヴァー・ビートルズのメンバーはホテルを無銭宿泊までしている。
 1961(昭和36)年05月22日(月) 2度の契約更新の後、2度目のハンブルグ巡業が4月1日より7月1日まで行われ、92日間、のべ503時間トップ・テン・クラブのステージに立つ。前回の最初のハンブルグ巡業と並んで、ビートルズのスタミナと実力を飛躍的に向上させた有意義な巡業となった。
 1962(昭和37)年05月22日(火) 3度目のハンブルグ巡業35日目。出演場所はオープンしたばかりのロック専門「スター・クラブ」。1時間演奏して1時間休憩というローテーションで3~4時間演奏した。今回は7週間の巡業で、そのうち2週間はジーン・ビンセントが競演した。
 1964(昭和39)年05月22日(金) ビートルズのメンバーが全員、海外長期休暇中であったが、ジョージ・マーティンはEMI第2スタジオで午前10時から1時間オーバーダビング・セッションを行う。「You Can't Do That」のテイク9にピアノをオーバーダビングしたが、ボツになる。
********** http://www.thebeatles.co.jp/contents/index2.htm
 http://www.beatlelinks.net/forums/showthread.php?t=17010
 http://beatlesdiary.web.fc2.com/day/005/0522.html
 http://www.beatlesagain.com/bhistory.html
 楽曲資料https://beatlesdata.info
 歌詞充実http://tsugu.cside.com/index.html
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ THE BEATLES Live 1961 ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡(mon)22 May 1961 Hamburg, Germany, The Top Ten Club ※27 March~2 July 1961
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 ┃ THE BEATLES Live 1962 ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡(tue)22 May 1962 Hamburg, Germany, Star-Club ※13 April~31 May
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
①┃ The Beatles/Roy Orbison Tour 1963 ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡No.04 (wed)22 May 1963     Ipswich City, England, Gaumont 
  1.♪Some Other Guy♪
  2.♪Do You Want to Know a Secret?♪
  3.♪Love Me Do♪ or ♪A Taste Of Honey♪
  4.♪From Me To You♪
  5.♪Please Please Me♪
  6.♪I Saw Her Standing There♪
  7.♪Twist and Shout or Long Tall Sally♪
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 ①https://en.wikipedia.org/wiki/Roy_Orbison/The_Beatles_Tour
 https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_the_Beatles%27_live_performances
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  ┛THE BEATLES 1964 Recording Sessions ┛Studio 2
 ┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛10:00-11:00am
 ┏━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ ♪You Can't Do That♪  ┃overdub take 10
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛シングル(キャント・バイ・ミー・ラヴのB面)としてリリースされた後の今日、ジョージ・マーティンがピアノをオーバーダビングした第10テイクが作られるが、リリースはされなかった
  Producer: George Martin
  Engineer: Norman Smith
  2nd Engineer: A. B. Lincoln/B. T
 ‡1964(昭和39)年5月22日(fri)
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 https://beatlesdata.info/3/12_youcantdothat.html
 https://en.wikipedia.org/wiki/You_Can%27t_Do_That
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 ┏━━━━━━━━━━━━━┓かみばやし さとる      朝日文庫
 ┃ 『この日のビートルズ』 ┃上林 格 P.288 本体680円+税 朝日新聞出版
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛  2013(平成25)年11月30日(土)第1刷発行
 No.10 P.062 1963年05月24日「前代未聞の大抜擢」◎初のレギュラーラジオ番組の第一回収録日◎
 ┏━━━━━━━━━━━━━┓ 
 ┃ 『この日のビートルズ』 ┃上林 格 P.288 714円(税込) 朝日新聞出版
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛2013(平成25)年11月7日(木) 朝日文庫発行
  人類がまだ月面着陸を夢見ていた1960年代、英国出身の4人の若者が世界を席巻した。
  ポピュラー音楽史の記録を次々と塗り替えただけではなく、
  文化、思想、生活スタイル、あらゆる分野に強烈な影響を与えた。
  語り継がれる20世紀最高のファブ・フォーの「この日」にこだわってみました。
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 |1963(昭和38)年 5月24日(金)|「BBC、ラジオで大抜擢」
‡|2009(平成21)年 5月22日(金)|甲虫日記更新日 No.049
 └─――――――――――――┘
 2009/05/22 05月24日甲虫日記 BBC、ラジオで大抜擢
デビュー間もないころのビートルズは宣伝媒体としてラジオを盛んに活用した。
当時、英国のラジオ放送はBBCによる三つの全国網チャンネルしかなく、ラジオ番組はいつも高い聴取率が約束されていた。毎週土曜日夜に放送された「サタデイ・クラブ」は、1千万人前後の聴取者がいた超人気番組だったという。
こうした状況に目をつけたマネジャーのブライアン・エプスタインは、精力的に売り込みをかけた。努力の甲斐あって、ビートルズは1962年3月、BBCの公開番組「ティーンエージャーズ・ターン/ヒア・ウイ・ゴー」で記念すべきラジオ初出演を果たす。続いて「サタデイ・クラブ」や「イージー・ビート」「フロム・アス・トウ・ユー」などに出演。65年6月までの3年3カ月にわたって、BBCの52のラジオ番組のために96曲のべ288回以上演奏している。
出演した番組のなかでも、とりわけ63年5月24日に1回目の収録がされた初のレギュラー番組「POP GO THE BEATLES」(全15回)の起用は、ビートルズの急激な人気上昇を象徴する出来事になった。
この時点で彼らのナンバーワン・レコードは、「Please Please Me」(2月)と「From Me To You」(4月)の2枚しかなかった。若者向けの番組に力を入れ始めたBBCの狙いもあったのだろうが、新人バンドがレギュラー番組を持つことは大抜擢(ばってき)といっていい。
当初は4回分の制作がされ、聴取者の反応をみてから3週間の休止期間をおいて追加の11回分が制作された。
番組は、毎週火曜日、ポップ番組のゴールデン・タイムだった午後5時から30分間放送された。レギュラー司会者がいて、毎回、BBCが選んだゲストが迎えられた。
番組タイトルのもとになった伝承曲「Pop Goes The Weasel」をロック風にアレンジした番組テーマ曲が、番組のオープニングとエンディングに流れた。番組はビートルズによる演奏とユーモア全開のトークで盛り上がった。
番組プロデューサーのテリー・ヘネベリーによると、4人はスタジオに入るとよくふざけていたという。床に寝そべってクスクス笑っていたり、スタジオを出てトイレに閉じこもったりしていた。ジョージ・マーティンが、親しみを込めて4人を「ボーイズ」と呼びつけていたころだ。スタジオはストレスを発散する最高の遊び場だったのだろう。
 ◎ラジオ番組で演奏した曲数は? 次のページへ
1回の番組でビートルズの演奏は5曲ぐらい放送された。演奏を事前に収録するのは、当時の英国にあったミュージシャンズ・ユニオンの規制があったためだ。ヒット曲のレコードを番組でかけることは、演奏家の雇用の機会を失うとして禁止されていた。
ビートルズにとっては、他人のヒット曲をラジオで演奏することで、自分たちのレパートリーを増やす絶好の機会となり、プラスに働いた。コンサートでは、レコーディング曲やヒット曲しか演奏できなかったが、ラジオではレギュラー番組の利点を生かして、過去に自分たちが影響を受けた曲や、最近のお気に入りを自由に演奏した。
コンサート活動中止後の「スタジオ時代」に彼らの音楽的多様性は見事に昇華するが、その下地はデビュー直後から約3年間の「ラジオ出演時代」に培われていたのだ。
また、番組を「市場調査」の場として利用していた形跡がある。
BBCに出演した52のラジオ番組で演奏した96曲のうち、レノン&マッカートニーのオリジナルは33曲、カバーは66曲にのぼる。そのうちレコードでの未発表曲はオリジナルの2曲を含む43曲あった。「POP GO THE BEATLES」に限ると、全15回の番組で56曲が演奏されたが、そのうち29曲はレコードで発表されることはなかった。
商品化されなかった未発表曲は、聴取者の反応がいまひとつだったのではないか。その一方で、「You Really Got Hold On Me」や「Money」などのカバー曲は、聴取者の反応がよかったため、コンサートで採り上げたり、レコードで発表したりすることになったのだろう。
半年間続いた「POP GO THE BEATLES」が9月24日に最後の放送を終えたころ、チャートのトップには60年代の英国で最も売れたシングル「She Loves You」が立っていた。
BBCには先見の明があった。大抜擢した新人バンドは3枚目のナンバーワン・シングルを記録したとき、英国を制覇する強力なポップ・グループに成長していた。
ビートルズは社会現象と化し、間もなく「ビートルマニア」という造語も誕生する。
 ◎『この日のビートルズ』の次回は6月5日です。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。
 ◎お知らせ「ザ・ビートルズ ライブ!!アット・ザ・BBC」は、1963~65年にBBCで行われたライブ・セッションから、オリジナル、カバーを問わず選りすぐった56曲を収録している。
  ザ・ビートルズ ライブ!!アット・ザ・BBC
  2001年06月08日 EMIミュージック・ジャパン 
***************** https://www.amazon.co.jp/dp/4022617802
 https://dot.asahi.com/1satsu/tyosya/2013110700049.html
 http://doraku.asahi.com/entertainment/beatles/090522.html
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 ┏━━━━━┓
 ┃ 船村徹 ┃ 1932(昭和七)年6月12日(日) 生誕
 ┗━━━━━┛ 2017(平成29)年2月16日(木) 逝去
 大瀧詠一との対談の中で、次のようなエピソードを話している。1959年の東映アニメ映画『少年猿飛佐助』の音楽を担当し、グランプリを受賞した際に招待されヨーロッパ滞在中ロンドンで、あるオーディションに立ち会う。その中にデビュー前のビートルズがおり、オーディションに参加した面々の中で唯一のバンドだった。「どの組がよいか?」と尋ねられた船村は「あの汚い4人組が一番面白いのでは」と答えたという[16]。それを聴いた大瀧は驚愕し、周りのスタッフに「凄いでしょう!船村先生は、ビートルズが誕生したオーディションに立ち合っているんですよ」と述べた
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E6%9D%91%E5%BE%B9
 ビートルズ研究の第一人者であるマーク・ルイソンに、ビートルズの才能に世界で初めて気が付いたのは、日本の作曲家の船村徹氏かもしれないとのメールを送りました。そして、それに対し大変貴重な情報と考えるとの返信があったことをお伝えしました
 http://abbeyroad0310.hatenadiary.jp/entry/2017/04/03/001809
 作曲家の船村徹氏はいつどこでビートルズと出会ったのか?
1. 船村氏はいつどこでビートルズと出会ったのか?
船村氏の語った内容、当時の状況等を総合して考慮すると、同氏が世界で初めての才能に気づいたという事実は揺るがないと思います。
ただ、はっきりしないのは「それがいつどこであったか」という具体的な状況です。私は、それがデビュー前にオーディションやコンテストを受けていた1961年頃ではなかったかと推測しました。しかし、彼らが1962年6月6日にEMIでセッションをやった時ではないかとの考え方もあります。そこで、この点について検討してみます。
2. 乏しい資料
まず2017年2月現在までのところ、イギリス国内でこのことに触れた資料は発見されていません。日本の資料では、前回ご紹介した船村氏と大瀧詠一氏との対談および
◆2002(平成14)年5月22日(水)◆に『日本経済新聞』に「私の履歴書」として掲載された船村氏のコラムが存在します(後に単行本として出版)。
これ以外の資料が未だ発見されていないため、この歴史的事実が起きた具体的な日時や場所が特定できないのです。
ですから、現存する資料と当時の状況から推理するよりほかありません。
3. 船村氏のヨーロッパ滞在
船村氏は、1961年3月から2年間ヨーロッパに滞在し、コペンハーゲンを拠点として各地を訪れました。その中にはイギリスも含まれています。問題を複雑にしているのは滞在期間の長さです。ビートルズのメジャー・デビューの時期がすっぽりとこの期間に入っているんですね。前回の記事では「遅くとも1960年から1961年」と推定していましたが、これは訂正させていただきます。もっと、短期間であれば特定しやすいのですが、長期間に亘っているためにピンポイントで特定することが困難になっています。
しかも、他の日本人は同行していませんでしたからなおさらですね。
 https://www.studiorag.com/blog/fushimiten/the-beatles-funamura
4. . 決め手は「あの汚い4人組」という発言
それでも、何とかアプローチを試みてみましょう。その際、決め手となるのは、船村氏が彼らを見た際の「あの汚い4人組」との発言です。これが彼らの見た目のことを指しているのは明らかです。彼らは、1962年3月からイタリア製のスタイリッシュなベノドーンスーツを着用していました。それまでは黒の革ジャンでしたが、これでは当時も「不良」のイメージが強く、実際、地元やハンブルクでも一般の人からはあまり良い印象は持たれていませんでした。
船村氏がこの頃に彼らと出会っていたなら、まさに「あの汚い4人組」と言われても仕方なかったといえます。
5. ヘアスタイルのことだったのか?
一方、彼らは、ドラマーのピート・ベスト以外は、ヘアスタイルを当時としては奇抜な「モップトップ」、すなわちマッシュルーム・カットにしていました。
当時、男性は、頭髪をさっぱりと整髪するのが常識で、彼らのヘアスタイルは非常識なものだったのです。船村氏がこの点を指して発言したとすれば説明はつきます。
6. それでもなお残る疑問
仮に船村氏がEMIで出会ったとすると、それでも多くの疑問がわいてきます。
 1. 船村氏はVIPだった
 船村氏は、EMIから国際映画祭のグランプリ受賞者として招待されたのですから、それほど仰々しいものではないフランクな訪問であったとしても、丁重な待遇を受けたはずです。
ですから、公式記録に何らかの記載が残っているでしょうし、記念写真くらいは撮影されたはずです。しかしながら、公式記録はおろか、当時の関係者からも全くそのような証言は得られていないのです。例えば、船村氏にどのミュージシャンが良いと尋ねたのは、当時EMIの社員だったロン・リチャーズだとされていますが、これほどのトピックを彼が一切語らなかったのは不可解としか言いようがありません。
 https://www.studiorag.com/blog/fushimiten/the-beatles-funamura/2#a4
6. それでもなお残る疑問
 2. オーディションではなくレコーディングだった
 ビートルズ研究の第一人者であるマーク・ルイソンが2016年11月に出版した「ザ・ビートルズ史」の日本語版で、この日のセッションについて詳細ははっきりしないとしながらも、あくまで彼らのファースト・シングルを制作するためのセッションであり、オーディションではなかったと断言しているのです。
しかし、それがもし1962年6月6日にEMIでセッションした日であれば、すでにスーツを着用していましたからこういう発言は出なかったのではないかと推察されます。
なぜなら、プロデューサーのジョージ・マーティンは、彼らの演奏をテープで聴いた時点ですでにパーロフォンとの契約を結んでいたからです。
仮にそれが正式な契約ではなく仮契約だったとしても、この日は、本格的なレコーディングのために機材がセッティングされていました。
そして、彼らは、確かにEMIスタジオを使用しましたが、それはあくまでパーロフォンがEMIの子会社であるという関係だったからです。
つまり、船村氏がEMIに招待されたからといって、それが出会いと直結するわけではなかったのです。
となると、船村氏が審査員として参加することはあり得なかったと言わざるを得ません。
 3. 他のミュージシャンはいなかった
また、船村氏は、3~4組のミュージシャンがオーディションを受けたと語っていますが、この日、このスタジオでレコーディングしたのはビートルズだけです。
これらの事実を総合して考えると、船村氏が彼らと出会ったのはこの日ではなかった可能性が高いと思います。
 https://www.studiorag.com/blog/fushimiten/the-beatles-funamura/3#a6-3
7. では、いつどこでだったのか?
ここからは私の推理ですが、船村氏が彼らと出会ったのはEMIではなく、同氏がヨーロッパに移住した1961年3月からビートルズがスーツを着用するようになった1962年の3月までの間で、イギリス国内で開催されたオーディションまたはコンテストだったのではないかと思います。
この当時の彼らは黒の革ジャンでしたから、この外見は、正に船村氏の「あの汚い4人組」という発言にピタリと当てはまります。
また、イギリス国内で開催されたオーディションやコンテストにはさまざまなものがあったでしょうが、少なくともプロミュージシャンを発掘するための審査員ともなれば、それなりの実績の持ち主でなければなれなかったはずです。
その点、船村氏ならその資格は十分だったと考えられます。当時、日本人の海外渡航は制限されていましたから、なおさら「はるばる日本から来た超一流の音楽プロ」として注目を浴びたでしょう。
以上の理由から私は、船村氏が彼らと出会ったのはEMI本社ではなく、それ以前にイギリス国内で開催されたオーディションまたはコンテストだったのではないかと推察します。
何の裏付けもない単なる推理に過ぎませんので、その点はご承知おきください。
8. 余談
私は、ルイソンに2017(平29)年2月21日(火)にメールを送信し、船村氏が世界で初めて彼らの才能に気づいた可能性があると記しました。
すると、翌日に貴重な情報だと思う、提供してくれたことに感謝する、追加の情報を求めるかもしれないとの趣旨の返信がありました。
彼がこの情報に関心を示したのは、その価値の高さと彼にとっても初耳だったからでしょう。船村氏は、パリのパテ・マルコーニから招待され、その時、あるギリシャ人の新人歌手を教育してほしいと依頼されました。
そして、船村氏は、その新人に音楽面での指導をし、彼は船村氏のことを「東洋の師匠」と呼んで敬愛しました。
彼は、やがてプロのミュージシャンとして反戦歌を歌うようになり、1969年、「Le Meteque」(邦題:異国の人)という曲を大ヒットさせ、一躍スターとなりました。
彼は、シンガーソングライターとして有名なジョルジュ・ムスタキです。そうです。船村氏は、ビートルズの才能に気づいただけでなく、海外の一流歌手まで育てたのです。
 https://www.studiorag.com/blog/fushimiten/the-beatles-funamura/4#a7

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