これまでもこれからもずっとついて回る「自分への疑問」。「どこまでいけるのか」「もう無理なのでは」という意識との戦い。これにまず勝たないと相手との戦いは成り立たない。この時はこの疑問との大きな戦いだったと思う。ABAのサンノゼスカイロケッツはその当時、UCLAでチェンバレンも教えたjohn woddenコーチの元でプレー経験もあるコーチで、俺はjohn Woddenのバスケ論に感銘は受けてたのでその人に評価してもらえるってのはかなり嬉しいことだった。とにかく結果が欲しかった。トライアウト当日。受験者の人数が少ない。40人くらい。認知度が低かったんだと思う。その人数でさえ喜べたもんね、その時の俺には「人数なんか関係ない」なんて強気で格好いいことは言えなかったよ。決してレベルが高いとは言えないレベル。まぁ、その時は受かるとかよりもしっかりプレーして自信をつけたかったし、評価書が気になってたって感じ。実際、それまでのトライアウトよりは全然身体が動いたしね。それでも今から見れば最悪だけど。結果、合格。人生で初めて人に認められた。評価書ではアジリティとバスケIQの評価がかなり良かった。これが俺には特に嬉しかったね。俺のバスケ理論はある程度のレベルを持ってるって事だからね。自信を得たというより、「きっかけ」になった。転機だった。親の反対押しのけて、3日後には会社辞めてた。会社勤めしながら半年で60万くらいのお金を貯められてたからアメリカに行くお金はあった。ただ、今まで自分に可能性を見れないような状況が、自分に可能性を見て良いってアメリカという本場のプロのコーチに評価されたということが、俺にとってはバスケをしていいっていう「許可」をもらえたような感覚。中学、高校、良い評価なんか大してもらえたわけではない、スカウトが来たわけではない。確かにアメリカ人の言う事かもしれない、ビジネスがついて回ってるだろう、それでもプロの世界の人間に認めてもらえたのは当時の俺にはでかかった。10月に渡米、結果は不合格。前日に腰を痛めて悔しい思いしたよ。自分のプレーが出来なかったけど。7点くらいとれた。一つはカウント。こんな小さな事が自信になるからアメリカはすごいって思う。地区リーグのトライアウトも受験。大したレベルではないけど、合格。もう少し滞在出来れば試合に出れたんだけどその前に帰国。悔しさと成長出来る自信を得た。何が足りないかよく分かった。それからは練習とバイトの日々。トライアウト前はバイトを休ませてもらってるけど。この挑戦始めて、やっぱり辛い時は辛い。上手くいかない、成長を感じられない、不安、孤独、恐怖、マイナスの気持ちが心を満たす時はある。それでもやってるのは俺にとってバスケだけでは負けたくないという気持ち。何日かで書いてて思った。俺の今までのバスケ人生が俺にバスケを好きにさせてしまったんだと思う。憎いものでもあるんだけどね。でも純粋に「俺はバスケだけでは負けたくない」って気持ちがあるのを再確認出来たのは大きいよ。そしてバスケ界からはじかれたという現実を払拭したい、もう一度スポットライトの下でバスケするという気持ちの存在。俺の挑戦ははじかれた人間(俺)の意地なんだ。現に体育会の出身の人間でも落ちてるトライアウトに俺が合格する。なれないプロに俺がなる。実績がないからって鼻にもかけてくれなかったバスケ界。プロになれないって言う一般論。「お前には無理だ」「夢みたいな話ばかりするな」「しっかりしろ」という一般論。俺はそれに今まで苦しめられてた。そしてきっとこれからも苦しみ、俺は一般論と戦う。俺には「意思」がある。その人の道を誰かが否定する権利はあるのか。答えは…NOだ。確かにたくさんの人がそれぞれの道で挫折し、それぞれの道を歩く事を止めることは多いことかもしれない。でもやりもしないで否定する世間は気にくわない。誰にも守られず何か追う経験てのは今後に生きると思ってる。素晴らしい経験だと思う。バスケのプロを目指し、断念した人も今は違う目標に向けて頑張ってるのを俺は知ってる。俺は「何かをやりたい」という「意思」を尊重出来るような大人になりたい。いろいろな人と出会いたい。いろいろな経験をしたい。人生的に男としてでかい器を持ちたい。この「意思」を強く持って、俺はまた成長したい。今は大好きなバスケを通してね…
強豪チームを辞めた俺は就職活動なんてのも適当にこなして内定とってバスケ三昧の生活だった。とにかくアウトサイドを必死に練習した。brotherだとダブルチームを組まれて潰されることもあったからアウトサイドはかなり効果的なオフェンスのオプションだった。まぁ理想はダブルチームされても抜くことだけど(笑)全然触れてなかったけど、大学に入ってからは本当にストリートでバスケしてた。中国の友達とかも出来たから、大久保の日本人学校なんかよく行ったし、大久保公園も行った。コズミックも良く行ってたよ。今では有名?なチームが練習してるっつーんでみんな知ってるかもだけど。俺もコズミックは「黒人とバスケが出来る所」って言うんで初め行った時は超楽しみにしてたね。初め行った時は誰もいなかったけど。まぁよく怪我させられたね。奴らはドライブして抜かれたと思うとすぐファールするからね。フリースローないからさ。勝ち残りだし。ある意味シビアな感じがあって良い経験だった。両足捻挫してやって勝った時は「マジざまぁみろ」って感じだったな~。まぁ小さい幸せです。話が少しずれたけど、4年になって初めての都大会。ユニフォームはないし、登録費は高いし、分からないこと多いし、超大変だったよ。プレー以前の問題が多すぎた。勝ちにこだわる人間を集めなきゃだったし。チームは最悪の状況。勝てる訳ないよね。しかも埼玉よりもレベルは高かった。現実の厳しさを知った。何回も何回も負けて、俺は自分に自信を持てなくなってきた。人のせいにするのは誰でも出来るからすべて自分に原因があるって考えると、少し見えていた希望がどんどん見えなくなってた。それでも自分個人での挑戦がしたいという気持ちは絶えずあってbjのトライアウトを受験。ところがジャンパーズニーなんてのになって受けられなくて、追加トライアウトを受けることに。まったくついてない。追加トライアウトはその次の年度の5月だった。仕事しながらの挑戦。社会人になってから練習は出来ないし、座りっぱなしの仕事で腰を痛めた。その前にも腰を痛めてたので最悪だったね。コンディションは悪くなる一方。受かるわけないって思ってた。それでも会社には嘘言って有給もらってトライアウトを受験。結果5on5も出来ないで不合格。「仕方ない」次の日の仕事を考えると落ち込む時間はなかった。仕事が始まって夜10時に帰宅、そこから走りに行ってた。「大学時代からやってればなぁ」なんて後悔も少ししながら毎日やってたよ。でも全然コンディションは上がらなかった。絶望的。。書き忘れたけど、4年の最後に俺は初めてアメリカに行った。もちろん俺の目的はバスケ。ベニスビーチだね!日によってレベルが違うみたいだけど、結構やれて勝った!自信にもなったね。アメリカ人はマジでいいプレーすると誉める。ゲームをやらせてくれる。楽しかったよ。でもその自信も完全に失ってきた。brotherの試合でも駄目な感じ。レベル低い相手でもね。ブロンコスのチームトライアウト受験。これまた最悪。落ちたのは言うまでもないが、内容が最悪。これが人生で一番へこんだ。バスケ辞めようかと思ったよ。すがるものもない、実力が出せない、もしかしたら実力がないだけなのでは?って思う所まできた。実力がなくたって練習すればいいってものではない。練習する時間がないんだから。スランプって奴だ。とにかくまず身体を看てもらおうってことでマッサージに行った。これが転機。前にも書いたけど、スランプの原因は疲労だった。まぁ、書いてる現在もかなり疲労はあるらしいが。。(休まなくては)バスケを一切やらなくなり治療に専念。そんな時ABAのトライアウトが日本で開催されることを知る。しかも評価書までくれるというのだ。今までそんな機会がなかった俺は食いついた。受かる受からないよりも自分がどのレベルか知りたかった。俺はプロを目指すのはありえないことなのか、それとも可能性はあるのか。俺が言ってるのはただのわがままなのか、それとも…。
「手も足も出ない」初めての経験だった。それまで完全に我流でポジション変更し、1on1しか頭にないような俺にとってもしかしたら初めての挫折だったのかもしれない。「足は俺の方が速いのに」「いつもは入るのに」初めは何故通用しないのか、どこが足らないのかがよく分からなかった。5on5をやってても「1on1をやらせてくれ」「ポストに構えないでくれ、俺にスペースをくれ」って事しか考えられないバカだった。自分でスペースを作る、自分でスペースを見つけてそこに動く。見方を動かして自分のスペースを確保する。何よりアウトサイドのシュートをおろそかにしすぎだったと思う。ほいほい教えてくれる人もいなかったから盗むしかなかった。自分がうまくいかなくて先輩にキレちゃって、困ったことにもなったし、試合出れなくてきつかった。当時は何よりそのチームで試合に行くのが嫌だった。「あんな下手くそなのになんでアイツあのチームに入れてるの?」って言われそうで嫌だった。過敏になってたね。でも少しずつ、少しずつ分かってくる。そのきっかけがそのチームでも別格だと思ってた人に教えてもらったこと。衝撃的だった。シュートフォームも変えた、1on1の意識が変わった。そしてなにより自信をもらえた。ここまで考えてやるのかってぐらい理論と哲学があった。足りなかったのは哲学。自分自身の哲学だった。まぁ、よく金魚のフンの如く付いて行ったよ!ずっと見てたしね。遊びにも連れて行ってもらったし、良い先輩だった。でもその先輩との関係で俺はそのチームを辞めることになる。そのチームに入って1年くらい経った頃、俺は練習では少し自分を出せるレベルになってた。メキメキ伸びてるのが自分で感じた時期。その時の俺はとにかくbrotherで腕を磨いて、そのチームで活躍出来るようになりたかった。まだ自分はチームメイトとして認めてもらえてないって感覚だったから、なんとかプレーで自分の居場所を求めた。この辺は周りが考えるよりも俺はなんでも深刻に考える性格だから、輪をかけて辛い思いしたよ。プレータイムが10分より40分出て練習した方が自分は伸びると思った。土曜日とかで重なるとbrotherを選んだ。それから少し時間がたって少しずつ上手くなってきて試合にも出してもらえるようになった時、brotherの試合で怪我をする。指の複雑骨折。今でも曲がってる。また進路に悩む時期でもあった。アメリカへの気持ちもあり、働いて金を貯めてアメリカに行くって考えてた。とにかくまだバスケをしたいという漠然な気持ちがあった。またbrotherを大学卒業しても残そうっていう話も出て都大会に出ようという事になる。どっちか選ばなければいけない。でもそのチームでは試合に出れない、brotherで頑張って上に行きたいって気持ちも出てきた頃、先輩との関係が悪化する。詳しくは書きたくない。ただ練習にあまり行けなかった時期でもあるし、怒られても仕方ないとも思えたけど、俺にとってはかなりショックだったし、誤解されてるとしか思えなかった。でもそれをきっかけに俺はチームを辞めることになった。もう居たくなかったし、覚えることは覚えたと思った。自分で上手くなれる自信はあった。現に周りの評価はここからの一年でかなり変わったと思う。辞めてから上手くなったって言われる。でも辞めた時は絶対見返してやるって気持ちだったよ。その気持ちが俺を上達させたと思う。後味の悪い、思い出だけど、確かに俺はそのチームで自分が上でやれるって希望みたいのが見えたんだ。バスケ界からはじかれた自分がもしかしたら…程度の希望だけどね。
なんだか大分短めに書いてるのに長くなってしまいますね。もう少し!でも書いてて少し自分が見えてきた。本当に自分を振り返るのは大事な事だと思う。。えっと、どこからだっけ、あぁ、とりあえず高校バスケを引退してから俺も大学受験だった。進路を決めるのも少し悩んだ。このころから「アメリカ」という国にひかれてた。自分は全国の強豪校出身の選手からくらべて練習量も経験も少ない、この差を埋めるのに手っ取り早いのはアメリカ留学だと思った。調べてみるとオクラホマ州立大学、ここがベストだった。州立大学だから授業料も安かったし、治安も良かいらしい、偏差値も足りてた。アメリカのバスケの事なんか全然知らなかったから考えられたけど、ここはNCAAディビジョン1の大学。実際行ったら話にならなかったかもしれない。後で知った話では俺がもし行ってれば俺が4年生の代では全米ベスト8にもなるチームだった。トライアウトに受かる確率は低かったろうな。それでも当時の俺は行きたかった。相談してみるとやはり親は反対。その時親父は「アメリカ行きたかったら日本で一番とってから行くのが筋だろ。県大会も制せない奴が行っても可能性が低すぎる」ごもっともだ。この時はそう思えた。今の俺だったら違うけどね。アメリカの方が合う選手もいると思う、それでも日本で成功した人間の方がやはりアメリカでも成功出来る可能性は高いだろう。まぁ、その辺は難しい話です。大学で全然出れてない人が向こうのマイナーで出れてるってケースも事実あるし、俺が成功するにしても一般論は敵である。向こうに夢見る気持ちはある。まぁ、でも当時の俺は奨学金を借りての大学進学だったし、いろいろあって日本の大学に進学せざるを得なかった。大学に進学しても、体育会に入れないかもしれない。金銭的な理由で。でもそれは考えずに「バスケをするためだけに」受験勉強に励み六大学に進学。やはり体育会には所属できなかった。あまりにも情報がなかった。バイトしなきゃやってけないために練習出来ない、休みがちになってうざがれるようなら体育会に入りたくないとも思い、入部を断念。その時から体育会の奴、一般的にエリートとされる選手には負けたくないと思い、常に気持ちでは比較してた。体育館でシューティングしてても体育会の選手が練習始める前に来るとやたら真面目にシューティングしたりしてね(笑)「俺はお前らに実力で負けてる訳じゃない」みたいな感じで。勝手な敵対心だね。まだまだガキやな。つか今でもあるか。チームはどこに所属したかというと一応サークルには顔出したんだけど、やっぱ軽いのが苦手なわけですよ。上手くないのにうるさい先輩とかに耐えられない訳です。意味の分からない金集めとかね。そんなんに嫌気さして作ったチームがあってそこに誘われて入ったかな。でも大学生活って人を堕落させるもんだよ。いろいろな感情をわすれさせてしまう。もちろん根本的な所は忘れてないけど、環境によっては自分を出せないんだ。勝ちにこだわっちゃいけない、楽しくやる。マジくそくらえだった。それでも悩ませる言葉がある…「大人になれよ」…黙るしかなかった。俺みたいな人間だけじゃない。バスケが好きだけでやってる人を否定する訳にいかない。それはそれでいいんだって初めて気付いたのがその頃だった。それでも俺は自分のバスケがしたくてチームを作る。「勝ちたい」って奴を集めて。いろいろあった。その中でも「温度差」というものは存在するもので、理解出来ないこともあったし、高校時代全国出場だ、中国で選抜だ、国体選抜だ、やたら個性が強く、自分達が今までやってきたバスケを捨てきれない選手が多かった。俺はただ上手くなりたかったし、勝ちたかった。高校時代を引き合いにだして話してる事に嫌気がさしてきた時だった。もちろん、チームの奴らとは超仲良い!でも少しバスケでは価値観が違ったのかもしれない。大学2年の夏。母校の合宿に参加してると埼玉県の強豪チームに入らないかって誘われた。一回断ったんだけど、つまらなくなって、試しに一回見に行った。埼玉県の決勝。みんなでかくて、シュートが上手いってイメージ。決勝なのに40点差で離れてた。インパクトはその時はなくて、何が強いのかが良く分からなかった。でもその疑問が興味をひいた。やってみようと思った。このチームでの事が俺の価値観を変えることになる。手も足も出ない。初めての経験だった。
俺はどうも周りから勘違いされやすい人間らしい。人相が悪いからか。。高校時代もそれで損した事は結構あると思う。とにかく俺はずっと勝利に飢えてる。きっと中学時代の経験からかもしれないが、負けるのが大嫌いだ。負けることの辛さを知ってる。負けることで失うものの大きさを知ってる。親が言うには昔から負けず嫌いだったらしいが。。この「勝利への飢え」が勘違いを起こすんだよね。もう少し楽しい高校生活、思い出が欲しかったんだけど。。まぁ、いろいろあった高校時代後編です………県北部から20数年ぶりに関東大会Aブロック出場という目の上のたんこぶ的な目標を作られてしまった自分の代だけど、それがまた先輩からは「谷間の世代」って言われるくらいレベルが低かった。マジ半端ないくらいね。10人くらいしかいなかったんじゃないかな、2人は高校からバスケ始めた子だしね。背も185あったのが俺だけ…俺はこの細腕でインサイドを任せられることに。まぁ前からだけど。でもこの頃くらいからポジションを変更したいって気持ちが大きくあったんだよね。関東出たことで自分の背でGやってる人間を見たからね。俺は太れない体質だから、その当時どう考えてもインサイドで成功する気がしなかった。だったら少しでもプレーの幅を広げたいって思った。今でもこの考えからポジションを変えようとしてる。PGにね。まぁ、話を戻してそんなレベルの子達が目標だけはでかくなってしまったって感じ。初めはひどいもんだったよ。とにかくパスが来ない。運べない。これが俺のポジション変更を加速させた気もするけど。簡単に勝ててたところが全然勝てない。終いには俺の代でスタメンが俺だけってことになった時もあったよ。アレはマジきつい!!自分の友達を応援したいのに、後輩が出て、でも自分の代の奴は大して練習しない日にはキレそうになった。いや、キレてたね。結局自分の代で試合に出れてた奴は俺ともう一人だった。試合で負ければマックでそいつと話してたよ。後輩ともそんなにうまくいかなくてさ、バスケが嫌になってきた。先生は先輩の時とは明らかに違う態度。ふざけるな!って感じだった。その頃から試合中、審判にも暴言を吐くようになっていった。すべてが上手くいかない。自分の好きなプレーが出来ない。つーか、バスケが分からない。今考えればただの下手くそなわがままな高校生だったよ、それでも一番勝ちたがってた奴は俺だった。現に、自分の代になって新人戦でなんとか県大会の出場切符を手にいれた後俺は2週間程バスケをしてない。「努力もしない、勝ちたくないのか?だったら俺はもうやらない。遊びでバスケはしたくない。」もううんざりしてた、俺だけに責任が擦り付けられてるような感じで、結局俺は逃げてたんだと思う。負けるのが嫌だった、でもその頃の俺には俺がなんとかしようなんて考えられる程大人じゃなかったね。部活さぼって2週間、先輩から電話があって、「どうした?体調でも悪いのか?」「いえ、元気ですよ」「じゃぁ、先生に代わる」「???」これにはビックリしたよ。今でも覚えてる。その後いろいろ話してバスケ部に戻った。審判への暴言なんかもこの頃には治ったね。我慢出来るようになったかもしれない。それは親父の一言、「スポーツマンがルール守れないようじゃスポーツする資格ない、審判はルールなんだ」なるほど~、納得。これはかなり納得出来たね。まぁ、今でも俺は審判にいちいち言うけど(笑)でも真面目にやってない審判にだけだけどね。いろんなことがきっかけになって少しずつ我慢出来るようになったかな。あぁ、でもまだあったな、春の大会、準決勝かな。あんま良く覚えてないんだけど、俺はとにかく勝ちたかった。いつもと同じ。でも周りに気合を感じられなかったから、一喝!すると先生が「なんだ、その態度は!?」てな感じでキレて俺は胸ぐらをつかまれ、開始5分経たずにベンチ。その試合もうコートに立つことなく、試合終了。1点差でチームは勝利。決勝前にチームメイトが先生に頭下げてくれて、なんとか決勝は出場したという…明らかに誤解されてたと思うけど。もうこんな感じで誤解されてばっかだった気がするね。結局最後の最後まで県大会では初戦敗退。それでも県大会も出れないんじゃないかって話が出るほどのチームがなんとか県大会に出れたのは普通に嬉しかったけどね。先輩が残したでかい目標がなけりゃもう少し喜べたのに。。だって周りからはあの代は特別て言われてお終いじゃん。まぁ、そんなこともあって引退しても泣けなかったね。それに頑張ってない奴が泣いてるのがむなしかった。ウチの高校は何気に進学校で、3年になるとやたら勉強しだす奴が多い。「おいおい、大会前だろ?練習しようぜ」「いや勉強あるから」「はあ!?」って感じの会話もあり、俺もあきれた。俺は身体中怪我しててボロボロ。この大会のときだけ、俺は諦めていたかもしれない。もう限界になってた。引退した後、悔しいもなく、悲しいもなく、もう一度上に行きたいって気持ちだけが大きくなってた。
中学校で引退と同時にバスケを辞めた俺だったけど、県立高校に進学。大会中にどっかの先生から誘いは受けたんだけど記憶は曖昧。。その県立高校はその当時地区では優勝してて、県ではベスト8くらいかなぁ。確か。。俺には「バスケをやれる」って自信をもらえた経験が二つある。その一つが高校時の事。高校進学後、俺はなんも趣味のない、せっかく共学の学校はいったんだから恋の一つでもって考えるような子。軽音部に入ってバンドやって~みたいなね。でもやっぱり肌に合わなかったんだよね。あの軽い感じがね。今でも軽いノリは苦手かな。少しは順応性が出てきたけどね(笑)まぁ適当な高校生活が続いて一学期が過ぎようとしたとき、球技大会なんてものがありました。バスケ以外なんも出来ないから、一応無難にバスケやった。実は何気に自信もあったんだけど、3年生に負けちゃったんだよね。しかも3年生は当時の2年生が上手くて、スタメンを取られて辞めてしまった人達。ということは2年生はもっと上手いわけだ。ずっと努力しても報われないとか、負けるのが嫌とか言ってたけど、ここで「負けなきゃいいんだ」って超簡単な事に気付いた。ずっとその時の顧問の先生には誘われてたんで、すんなり入部出来きた。バスケ部の子とも初めから仲良かったんで。そう考えるとやっぱり「未練」みたいのはあったんだろうな。ただ中学時代みたいな悔しい気持ちをしたくないって事で臆病になってたんだと思う。結局夏休みからバスケ部に参加。これが最悪でしたね。練習時間は長い、初めからAチームでプラスBチームかつ自分の代のチーム。3倍やらされてたんじゃないかな。先輩からは文句ばっか言われてたし。悔しいし、みじめだし。夏の終わりに公式戦があったんだけど、試合が嫌で仮病。。俺の公式戦デビューは地区予選の確か準決勝でした(笑)自慢ではなく、ただのバカです。まったく周りの人のことを考えられてない子でしたね。まぁ、そんな状況が続き練習も辛いし、先輩はうざいしで先生に「Bチームに落としてくれ」と直談判(汗)嫌で嫌で仕方なかったんかな。つか自分が死んでるのを感じたのは確かだけど。それは球技大会で証明したし(笑)まぁどうでもいいね。時間が経って、やっぱり慣れてくると試合にも出たくなる。もう一度直談判。試合に出て、少しずつ慣れていく。全然駄目な試合もあれば良い時もある。そうやって2年の春には埼玉県でウチは準優勝!まぁ俺は役に立ってない気もするけどね。でもこれがきっかけにはなった。県大会も出れなかった中学時代、「やれば出来るのかも」って思った。決勝はすごい点差で負けたけどね。相手は昌平高校。スゲームカついた。最後まで吠えてたよ。。何が?って?点差がついた時、ウチのコーチは諦めた。今でも忘れないよ。関東出場が決まってるからって関東用のフォーメーションを試したんだ。俺は最後まで戦ったよ、コートで這いずり回ってたかもしれないし、シュートも入らなかった。ふっ飛ばされたかもしれないけど、全力で走ってたのは覚えてるよ。その日ウチの高校では快挙だったから、生徒の早退をオーケーしたらしく、応援が一杯来てくれてた。俺が慕ってた先生が見に来てくれてた。先生から誉められたら本当に悔しくなった。もっと練習しようって思った。努力すればいいんだ、努力が足らなかった。って思った。俺は関東大会に出たけど、俺の力なんてあったってなかったって同じだったと思ってる。先輩に連れていってもらったって感じだった。まぁ現実的にその通りだと思うけど。でもこの経験はでかかった。上の人間と接する事が出来たから。それからは遠いとされてた人が身近に感じることが出来た気がする。結局関東大会は一回戦負け。このときも嫌~な事があったんだけど、ちょっと今は止めとこう。終わるとすぐにインターハイ予選だ。結果はベスト8。この試合の後、俺は初めて先輩に心から謝る事になる。俺のせいで負けたからだ。俺が穴になってた。俺のところで負けた。今の俺が3日教えれば改善できるような事を当時の俺は出来なかった。先輩は「もっと頑張れ」みたいな事を言ったのかな、あんま覚えてない。その先輩はその当時、俺が初めて選手として尊敬した選手。人としても格好良かった。キャプテンで国体にも選出された。高校時代の俺の目標。あの人が先輩にいたのは俺にとって大きかったと思う。その先輩が大きな目標を残して引退。「関東大会出場」これが大きなプレッシャーになるのは言わなくても分かるよね。腐ったり、立ち上がったりを繰り返す自分の代の話はまた明日。。
これからチラっと俺の事を書いてみます。
長いかもしれませんが、良ければお付き合いして頂ければ幸せです!
俺は東京生まれ埼玉育ちです。生まれてすぐに埼玉の川口市に移ったと聞いてる。それからは小学校5年生の初めまで川口市で引越して埼玉県の上里町に移った。小学校の時は勉強も普通、スポーツも普通?のどこにでもいる子かな。背が高いのを除けば。ソフトボールとかやってたけど全然駄目だし、ドッジボールとか流行ってたけど駄目だったなぁ。ゲームばっかやって、親に怒られてる記憶しかないすね。。転校してからも同じ。サッカーが流行ってたけど、全然駄目。背が高いからいじられてたし、喧嘩ばっかしてた。今考えれば最悪な学校生活か。よく曲がらなかったな(汗)でも転校した先にバスケがあった訳です。サッカーが流行ってたけど、俺含めて4人だけバスケがちょっと好きな子がいて、背が高いから少しは活躍出来る訳です。そりゃ面白いに決まってる。転校してからそこまで仲の良い友達ってのもいなかったし、唯一認めてもらえたのがバスケだったのかもなぁ。その流れで中学入ってもバスケ部に入部。スラムダンクが流行ってたしバスケ部員も多かったけど、やっぱり背が高いから有利だった。でも背が高いだけって言われるのはすごく嫌だった。足はその頃は遅かったからな。50m8秒とかかな。平均!!みたいな。悔しいから頑張って走りましたよ。速くなりたいって本当に思った。この辺に、俺の速さにこだわる気持ちが出来た原因があるかもしれない。でかいだけって言われたくなかった。でかいって言われるのも嫌だったな、高いは良いんだけどね。思春期だから敏感だったんだろな(笑)中学の時のバスケは本当に楽しかったのを覚えてる。OBの人が教えてくれて、練習出来ないと体育館自分達でとって練習して。一緒に遊んで、バスケの話して、尊敬するコーチが期待してくれて。何も分からないから、不満不平ないしね。むしろ勉強が辛かったな。親が勉強出来なきゃバスケやらせないって感じの教育方針だったからね。バスケするために勉強したよ。それはずっと今でもそんな感じで勉強するモチベになり続けてるけどね。中学時代は最後の夏、地区予選の2回戦で敗退かな。みんな泣いたよ。コーチの「よくやった」って言葉で涙が止まらなくなった。でもそれをきっかけに俺はバスケを辞めてしまうんだ。その敗退は俺には悲し過ぎるものだったから。期待されてたのに期待に応えられない情けなさ、純粋な悔しさ。いろいろな気持ちがグチャグチャになった。こんな報われない事はないって思った。だからバスケは辞めようって。ガキだったんだね。でも、今でも少しこの気持ちは分かるんだ。どんなに努力しても無理ってものが中学校くらいじゃスポーツくらいだから。スポーツって勝者と敗者が必ず生まれるものだから。非情な部分ってあると思う。その部分に触れて立ち上がれなくなったのがこの時期だった。受験が迫り、受験に逃げた。今思うとそんな感じだったと思う。
長いかもしれませんが、良ければお付き合いして頂ければ幸せです!
俺は東京生まれ埼玉育ちです。生まれてすぐに埼玉の川口市に移ったと聞いてる。それからは小学校5年生の初めまで川口市で引越して埼玉県の上里町に移った。小学校の時は勉強も普通、スポーツも普通?のどこにでもいる子かな。背が高いのを除けば。ソフトボールとかやってたけど全然駄目だし、ドッジボールとか流行ってたけど駄目だったなぁ。ゲームばっかやって、親に怒られてる記憶しかないすね。。転校してからも同じ。サッカーが流行ってたけど、全然駄目。背が高いからいじられてたし、喧嘩ばっかしてた。今考えれば最悪な学校生活か。よく曲がらなかったな(汗)でも転校した先にバスケがあった訳です。サッカーが流行ってたけど、俺含めて4人だけバスケがちょっと好きな子がいて、背が高いから少しは活躍出来る訳です。そりゃ面白いに決まってる。転校してからそこまで仲の良い友達ってのもいなかったし、唯一認めてもらえたのがバスケだったのかもなぁ。その流れで中学入ってもバスケ部に入部。スラムダンクが流行ってたしバスケ部員も多かったけど、やっぱり背が高いから有利だった。でも背が高いだけって言われるのはすごく嫌だった。足はその頃は遅かったからな。50m8秒とかかな。平均!!みたいな。悔しいから頑張って走りましたよ。速くなりたいって本当に思った。この辺に、俺の速さにこだわる気持ちが出来た原因があるかもしれない。でかいだけって言われたくなかった。でかいって言われるのも嫌だったな、高いは良いんだけどね。思春期だから敏感だったんだろな(笑)中学の時のバスケは本当に楽しかったのを覚えてる。OBの人が教えてくれて、練習出来ないと体育館自分達でとって練習して。一緒に遊んで、バスケの話して、尊敬するコーチが期待してくれて。何も分からないから、不満不平ないしね。むしろ勉強が辛かったな。親が勉強出来なきゃバスケやらせないって感じの教育方針だったからね。バスケするために勉強したよ。それはずっと今でもそんな感じで勉強するモチベになり続けてるけどね。中学時代は最後の夏、地区予選の2回戦で敗退かな。みんな泣いたよ。コーチの「よくやった」って言葉で涙が止まらなくなった。でもそれをきっかけに俺はバスケを辞めてしまうんだ。その敗退は俺には悲し過ぎるものだったから。期待されてたのに期待に応えられない情けなさ、純粋な悔しさ。いろいろな気持ちがグチャグチャになった。こんな報われない事はないって思った。だからバスケは辞めようって。ガキだったんだね。でも、今でも少しこの気持ちは分かるんだ。どんなに努力しても無理ってものが中学校くらいじゃスポーツくらいだから。スポーツって勝者と敗者が必ず生まれるものだから。非情な部分ってあると思う。その部分に触れて立ち上がれなくなったのがこの時期だった。受験が迫り、受験に逃げた。今思うとそんな感じだったと思う。