二人のユダ

その日⸺⸻
神よ、神よ、なぜ私を見捨てられたのか!?と、その人の声がとどろいて、灰色の空に無数の罅(ひび)を入れた。

第8章 Qは再びマリヤに神の在否を質問する。

2018年05月26日 | 日記
「この間、せっかく『神の在否』を教えて貰ったんですけど、自分は頭が悪いから良く解らなくて・・・・・・。それで頭が悪いなりに考えたんですけど、自分は先生を“神の子”と信じ、それを通じて神の存在も信じようと思うんですが・・・・・・」
「頭が悪いからじゃなくて、考えるのが面倒だからなんでしょ? きちんと考えれば誰でも理解できることよ」
「いえ、本当に自分は・・・・・・」
「どちらにしても、それじゃ駄目よ」
「だ、駄目なんですか?」
「そうよ。それは“信じる”じゃなくて“依存してる”だけだから」
「依存?」
「“依存”は何も生み出さないわ」
「“依存”と“信じる”とはどう違うんですか?」
「そうねえ~“信じる”というのは先生と一緒に歩くことで、“依存”というのは先生の背中におぶさることかな?」
「・・・・・・良く解らないんですけど・・・・・・」
「そうね。自分で言ってても解らないわ」
マリヤはぺろりと舌を出した。
それがすごく可愛くて。
「具体的にいえばオウム真理教かな?」
「オウム?」
「そう。オウム真理教の信者たちは、教祖を絶対的に信じるとして善悪の判断も教祖に委ねちゃったでしょ? そして大勢の人を殺した。あれこそ“依存”で、私たちはそうであってはいけないのよ」
「で、でも、あんな豚みたいな教祖と自分たちの先生は全然違うじゃないですか!?」
「先生がどうこうじゃなくて、大切なのは私たち受け手の側なの」
「受け手?」
「噛めと命令されて噛む犬になってはいけないということ。泥棒に噛みつくのも子供に噛みつくのも、理由は同じ『噛め!』と命令されたから。それじゃ警察犬も狂犬も何も変わらないでしょ?」
「・・・・・・」
「自分で考えることを放棄して、先生に依存し、先生の後をついて行くだけなら、私たちもオウム真理教の信者と何も変わらなくなってしまうということよ」
「・・・・・・」
「解って貰えたかな?」
「・・・・・・あとでゆっくり考えてみます」
「そうね、それがいいわ」
マリヤはほがらかに笑った。

マリヤの後ろ姿を見えなくなるまで見送って、Qは長い溜め息をついた。
すっかり当てが外れてしまったのである。
何も問答がしたかったのではない。
さらに言えば『神の在否』をもっと詳しく知りたかったのでもない。
Qはマリヤに褒めて貰いたかったのだ。
「イエスを信じられるから神の存在も信じられる」
Qのそんな信仰告白に「それはとても素晴らしいことだわ」とマリヤに褒めて貰えると、てっきり思い込んでいた。
だからわざわざマリヤに質問したのに、まさか「それはただの“依存”よ」なんて叱られるとは思ってもみなかったのだった。
それにしても・・・・・・。
頭のいい人はものを難しく考えたがるものだな~とQはまた溜め息をついた。
理屈を突き詰めればマリヤの言う通りなのかもしれないけれど、あんなオウムの豚教祖と自分たちのイエスキリストが全く違うのは自明過ぎるほど自明のことなのに、何を小難しく・・・・・・。




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第8章 横顔  Qはヨハネの“視える”力が羨ましい。その2

2018年05月18日 | 日記
「これは生まれつきですからね~」
布教の旅を続ける道すがら、Qはふいに声をかけられた。
声の主はヨハネ。
(自分にもヨハネさんのように先生のオーラが視えたら、もう迷ったりしなくなるのにな~)
と、Qが思った時のことだった。
繰り返すが、思っただけで、声に出してはいない。
しかしQは「やっぱり駄目なんですかね~」と、いつの間にか隣を歩いていたヨハネに普通に返答していた。
もう慣れたというか、諦めていた。
ヨハネの円い顔は宗教家特有の善意丸出しの笑顔に満ち満ちていて「心を読むのは止めてください」などといちいち抗議する気を失くさせるものだったから。
とくにQとは波長が合い、耳に入ったのが“心の声”か“肉声”か区別がつかないらしく、また、その“声”がどちらであるにしても、ヨハネはQが知られたくない類いのことは決して他所で口にするような人柄ではなかった。
(俺がマリヤさんに憧れていることなんか、みんな知られてるんだよな~)
そう思い至れば、無抵抗状態にならざるを得ないということもある。
むしろ、誰にも言わないでくれてありがとうございますと感謝する気にさえなってしまうのだった。
「子供の頃からオーラを見ることはできました」
「特別な能力ですよね。ほんとに羨ましいです」
「・・・・・・」
「?」
「・・・・・・いいことばかりではなかったですけどね・・・・・・」
ヨハネの口調が唐突に重くなり、見ると、あの笑顔が消えていた。
もしかしたらとQは思った。
ヨハネの“力”はヨハネを幸せにはしなかったのかもしれない。
人の心を覗く子供だと気味悪がられたのかもしれないし、知らない方がいい人間の悪意にずっと晒されてきたのかもしれない。
少なくとも、Qが軽々しく「羨ましい」と口にするようなものではなかったことが、初めて見るヨハネの無表情から感じ取ることができた。
「で、でも、ほら、先生の黄金のオーラが視えるから、ヨハネさんは先生を信じて迷うことがなかったんでしょう?」
「ええ、それはもう・・・・・・。黄金の太陽が歩いてるんですからね。先生と巡り合ってから、迷うということはありませんでしたね」
「それはやっぱり凄いことですよ。自分は駄目ですね。こうしてお仲間に加えて貰っても、自分に理解できないことがあると、すぐに迷ってしまうから」
「それでいいんですよ」
「え?」
「先生は私におっしゃったことがあります。人間は迷うから強くなれるんだと」
「迷うから・・・・・・」
そしてヨハネは言った。
「私はね、思うんですよ。きっと私なんかより、迷い抜いて強くなったQさんの方がずっと先生のお力になれるんだろうなあって」
「それはないです」
Qはきっぱりと否定した。




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第8章 横顔  Qはヨハネの“視える”力が羨ましい。その1

2018年05月06日 | 日記
私が来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。
私は平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
なぜなら私は人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たからです。
さらに、家族の者がその人の敵となります。
私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしい者ではありません。
             マタイ伝 第10章


隣人愛を説かれたと思えば、すぐにこんなことを説かれ、Qの信仰心はまたも躓(つまず)いてしまう。
地には平和を⸺⸻
単純かもしれないが、それがQの考えるメシヤの地上に降り立つ理由だった。
それが逆に剣をもたらすためだという。
なぜそんなことを・・・・・・?
Qはイエスを信じたかった。
イエスと初めて逢った日、Qはイエスを“神の子”と信じた。
“神の子”といつもでも一緒にいたいと思い、どこまでも一緒に行きたいと思った。
「貧しき者は幸いなり」などと説かれて鼻白むこともあったが、イエスやその弟子たちと月日を過ごすうちに、その思いは次第に強くなっていたのである。
かつかつとした窮乏生活の中で、ただ生きて行くだけだったQの人生に、イエスとの出逢いは初めて生まれた希望であり、初めて感じた生き甲斐だと言ってもよかった。
だからこそQは、イエスに疑問など持ちたくはなかったのだが・・・・・・
「まあ、わしらは今のユダヤ教を否定してるからな~」
と話してくれたのはペテロだった。
「親父もお袋も嫁も兄弟も、家族はみんなユダヤ教だ。なのにわしらが新しい神に仕えてしまったら、そりゃあ家族は反対するし、争いごとは避けられないだろうさ」
「はあ・・・・・・」
「先生はその心構えを説いておられるのだよ」
「はあ、やっぱりそうですよね・・・・・・」
ペテロの言うことは理解できる。
しかしQには、なんの根拠もないけれど、それだけでは済まないものものしさがイエスの口振りから感じられてならないのだった。
それこそ舌の上に剣が乗っているような・・・・・・。


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第8章 横顔  ペテロは神の子に質問をする。その3

2018年05月04日 | 日記
「先生も死んでしまうんですか!?」
ペテロは思わず尋ねた。
イエスが自分の死後のことを話し始めたからである。
「もちろんだ」
「・・・・・・」
「おそらく私はあなた方より早く死ぬだろう」
「・・・・・・なんと・・・・・・」
ペテロは首を振った。
「・・・・・・先生は決して死ぬことなく、いつまでも私たちを指導して下さるものだとばかり思っていました」
「それは出来ないことなのだよ」
「父なる神に頼んで、先生の命を永遠にして貰うわけにはいかないのでしょうか?」
「ペテロよ、もしも神が私に永遠の命を授けられたとしても、私はそれを返上するだろう」
「・・・・・・」

まことに、まことに、あなた方に告げます。
一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。
しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。
自分の命を愛する者はそれを失い、この世でその命を捨てる者は永遠の命に至るのです。
私に仕えるというのなら、その人は私についてきなさい。
               ヨハネ伝 第12章


西暦67年⸺⸻
迫害下のローマへ伝道の旅に出たペテロは、皇帝ネロの兵士に捕縛され、逆さ十字架刑によって落命した。
これは「私を主なるイエスと同じ刑罰にしてはならない」とするペテロ自身の望みによるものであったという。


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第8章 横顔  ペテロは神の子に質問をする。その2

2018年05月03日 | 日記
別の日、ペテロはまたイエスに質問をした。
「先生はいつメシヤ(救世主)になられたのか?」と。
ペテロはヨハネのように“視える”質(たち)ではなく、その黄金に輝くオーラとやらは視えなかったが、それでもイエスが尋常な方でないのは良くわかっていた。
たとえ“熱”は目に視えなくても、焚火に手をかざせば“熱”を感じ取ることができるようなものだが、イエスのそれは誰もが驚いて振り返ってしまうほどのものだったのである。
顔かたちが解らない遠目からでも・・・・・・。何をするでもなく、イエスがただ一人佇んでいるだけでも・・・・・・。
それをヨハネは“メシヤのオーラ”と呼んでいたが、もちろん生まれつきイエスにそんなものが備わっていたはずがない。
いや、能力的なことを言っているのではなく、そんな“メシヤのオーラ”を放つ人間と生活を共にするのは普通の人間には不可能なのだ。
譬えは著しく悪いが、ゴリラと人間とでは同じ空間では生活できないように。
大工の息子に生まれたからといって、黄金に輝く方に金槌を渡して「柱に釘を打て」などと実の親でも命じられるものではないのである。
三十歳まで家族と一緒に大工仕事で口を糊していたイエスが、故郷を旅立ち、“荒縄を腰にする預言者”ヨハネの洗礼を受けて立ち去るまでの間に、その劇的変化は訪れたと予想できるのだが・・・・・・。
「ナザレを旅立たれた、その途上のことでしょうか?」
ペテロは尋ねたがイエスは何もお答えにならなかった。
食事を終えたテーブルに頬杖をつかれたまま、静かな眼差しをペテロに向けられている。
「聖ヨハネの洗礼を受けられた時のことでしょうか?」
実のところ、当時は聖ヨハネの弟子であり今はペテロと同じくイエスの弟子となっている“視えるヨハネ”でも、その辺りのことは良く解ってはいない。(ちなみに名は同じでも二人に血縁関係はない)
“視えるヨハネ”がイエスに初めて逢い「まるで太陽が歩いて来るようだった」と感嘆したのは、イエスが四十日間の断食の行を済ませて荒野から戻られた時のことで、イエスが聖ヨハネの洗礼を受けられた時には、折あしく“視えるヨハネ”は山に薬草を取りに行っていたのである。
「四十日の断食の間のことでしょうか?」
「・・・・・・」
「では断食の行を終えられた時のことでしょうか?」
「・・・・・・」
「それではナザレを出られる寸前のことでしょうか?」
イエスから何もお応えがないまま、ペテロがこれが最後と口にしたのは、イエスが故郷の街を出られた時のことが伝えられているものだった。
早朝、小間物屋の婆さんが大工用具を肩に仕事場へ行くイエスを見かけて「ああ、今日も気難しそうな顔をしているな~」と思いながら店開きの準備を進めている時、ふいにイエスが立ち去られた方角から爽やかな風が吹いてきたような気がして、何気なく振り返ったら、そこには穏やかな笑みを浮かべた巨人がそびえ立っていたのだと。
「巨人は来た道を戻り、そのまま街を出て行ったんだよ」と婆さんは来る人来る人に話したのだが、普段から何事も大袈裟に話して触れ廻ることで有名な婆さんだっただけに誰も信用することはなかった・・・・・・まあ、お伽噺のようなものである。
ペテロ自身も(“巨人が”の下りはイエスの印象として解らないでもないが)そのあまりの唐突さに「さすがにこれはないだろう」と思いながら、いわばダメ元で話してみた“メシヤ降臨の物語”であったが、やはりイエスの沈黙は守られたままで、その日、ペテロはもう何も尋ねるべきものはなかった。


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