宇宙哲学の対話室

"宇宙"、"生命"、"人間"に関する問いかけと自然観察や奉仕活動について対話を繰り広げます。

2年になったら大学の近くで一人暮らしをしたいと親に言った

2017-05-05 18:13:54 | 自己紹介
大学1年のときは春日部の実家から大学に通っていた。東武伊勢崎線~日比谷線~東横線~田園都市線と乗り継いで2時間半~3時間くらいかかっていた。電気研究会(原子力班)は定例の活動は無かったので、講義の後、特に寄り道することもなかったので、普段はそれほど通学時間が長くても困らなかった。教会の人と話す時は永福町に行ったので、帰りは深夜になっていた。
大学祭の準備の頃も帰りが遅かったはずだが、あまり大変だったという覚えがない。さすがに打ち上げで飲んで帰った時は、下り電車で降りるべき駅を乗り過ごし終点まで行ってしまった。幸い上りの最終電車に乗れたのでかろうじて家に帰ることができた。
そんなこともあったので、2年になったら大学の近くで一人暮らしをしたいと親に言った。父親の仕事関係の利点で学費が正規の額の40%で済んでいたので国立大学並みの金額だった。それでも4人兄弟で下に弟3人がいたので、私の生活費を余分に工面する余裕はなかったと思う。ただ当時の私はそんな親の懐具合を心配するほど親孝行の息子ではなかった。
結局、春日部に引っ越す前に住んでいた、東京都大田区にあった家の離れに住むことになった。母屋の方は私たちが引っ越した後、祖母が住んでいたが、亡くなったために空き家だった。離れの方は学生に貸していて、3月に空くのでそこに住めと言われて、そうすることになった。大学に寮は無かったし、自力で都内でアパートなどの物件を探しだせる能力はなかったし、そもそもアパート代を稼げるほどのアルバイト先も見つけることはできなかった。というよりアルバイトをする気もなかった。
2年になって、その離れに住みだした。四畳半の部屋になぜか2段ベッドがあり、トイレと小さい流し、プロパンガスのガス台が一つという造りだった。衣類と大学の講義に必要な資料くらいしか持ち込まなかったと思う。冷蔵庫も使わなかったので、食料は置かなかった。朝も昼も夕食も大学食堂で済ましていた。実験か何かで遅くなると、大学外で食事をした。金曜の夜に実家に帰り、日曜日の夜に東京に戻るか、月曜の朝、直接、大学に行くかしていたはずだ。当時は銭湯に行くとか考えもしなかったので、土日に実家に帰ったときしか風呂に入らなかった。洗濯物も実家に持ち帰り洗っていた。コインランドリーを使うということも思いつかなかった。

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