切羽詰まらないと
変わりたいなんて思わないよね
変わろうと思うのなんて
にっちもさっちもいかなくなって
手遅れになってからでないと
人間なんて そんなもんさ
兎に角 やらなきゃって思うのは
片付けと掃除
それさえできれば 目標達成もまじかということ
単純なことなのに これが結構難しい
切羽詰まらないと
変わりたいなんて思わないよね
変わろうと思うのなんて
にっちもさっちもいかなくなって
手遅れになってからでないと
人間なんて そんなもんさ
兎に角 やらなきゃって思うのは
片付けと掃除
それさえできれば 目標達成もまじかということ
単純なことなのに これが結構難しい
自分が嘗ていた組織を、非難し続ける人達がいる。
人ひとりひとりに、正義はあって、だから争いはなくならない。
そこには、絶対的に正しいも、間違っているもない。
立場によって、環境によって、価値観によって、変化するものだから。
万人が、間違っていると思っていることでさえ、数十年、数百年後には、
正しいに代わっていることだってあるのだ。
相手を貶めるなど、すべきではない。
しかし、そこにその人の本質を知る手掛かりになる。人間的に優れた人と思っていたのが、
一瞬で、愚かな人だった人であることに気付く。気づけたことに安堵しているのも確かだ。
人間とは、なんと騙されやすいのだろう。
私は、その人たちを非難することなく、自分の正義を信じ続けるだけだ。
半世紀以上生きていると
残りの人生時間がもうあまり残されてないのではないかと
気になってきたりする
これから出会える人の数も
経験できることを選択する機会も
少なくなってくるのではと思うと焦る気持ちが起こったりする
今死んだとしても 心残りひとつないのだけれど
生かされているのだとしたら なにかまだ出来るのではないかと
もし私にできることがあるのなら やりたいと思うのだ
何もせずにいて いいのだろうか
なんとなく 不安になる
見過ごしていることが あるのではと
新しい人と話をすることは、学ぶことや気付くことが多く、とてもだいじな時間
本を読んで学ぶだけでは得られない、聞いてるだけでは得られない、自分を知ることができる
昔は、考える時間を取り、答を決めてから口を開いていたけれど
今は、瞬間的に判断をして、答える
あとから、なぜ私がその判断を下したのか、考える
昔は、相手が自分をどう思うかが重要だったのだと思う
今は、自分を分析すること、自分をより理解することに重きを置いているのだと思う
できる限り、自分を解き放ち、自由に話すようにしている
考えて出した答では、本当の自分が見えないから
自分が何者なのか、それは他人という鏡に映さなければ見ることはできないのだと思う
自分の意見を口にした瞬間に、そこに正しい間違っているは、無くなるのだということ
その判断は、受け取った側にゆだねられる
相手の性格、経験、感情、価値観によって、どう受け取るかは決定される
私の正しいは、私の中の正しいで、他人にとって正しいかは、別物であるということ
多くの人は、そのことに気が付いていない
絶対的に正しいものが存在すると思っているのだ
だから、戦争は起こり、互いが正しさを主張する
(戦争のときは、偽りとわかっていても、事実とは異なる嘘の正しさを主張し続けるのだ、人々が絶対的正義を信じていることを利用しているのだ)
最近気が付いたのは、
人の正しさがそれぞれであるから、ルールが必要になり、法律を作ったのだろう
法は、正しいものではなく、これを正しいとするという決め事なのだと思う
社会的秩序を作るための道具ということ
自分の中にしか絶対的正しさは、存在しない そしてその正しささえも覆ることがある
だから本来、絶対的正しさは この瞬間における自分の中にしか存在しないものなのだと思う
平穏な日々
特に悩みもなく
心静かに時が過ぎていく
私は何をしてきたのだと、吹き来る風が私に言う
昔読んだ詩の一片が、こだまする
悩み悶えながら
生きていないと生きている実感がしない
ただ、穏やかに時間が過ぎていくことが、無意味に感じてしまう
何かやることがあるはず、そのために生かされているはず
私は、自分のために生きる意味が、分からないのだ
いつからだろう
自分の考えに迷いが無くなったのは
子供のころは、迷ってばかりいた
正しい答えが知りたくて
世の中には正解があって 不正解を選んでしまうと
幸せから遠ざかってしまうのだと思っていた
ある時から気が付いた
人生には正しいも間違っているも無いのかもしれないこと
苦しんで死んでいく人 穏やかに眠るように死んでいく人
願わくば苦しみなく死んでいきたいと願ってしまうが それすらも経験という枠の中で考えれば
どちらも 貴重なものであるのかもしれない
昔 コンクリート詰めで殺害された少女が見つかった事件があった
数人の少年たちに 監禁され拷問を受け 最後には殺されてしまった
彼女は間違った選択をして そんな最後を迎えたのかもしれないが
果たして間違った選択であったのか
私が穏やかに死んでいったとして 誰の記憶の残り続けるというのか
彼女の死は 何十年たった今も私の胸を締め付ける
私と同じ思いの人間は 他にもいるのだろうと思う
彼女は彼女自身にとっては 意味のない死に方だったのかもしれないが
人々に多くの事を投げかけ 多くの事を考えさせられ
そのなかで 生き方を変えた人もいるだろう
人生の選択には正しいも間違いも無いのではないか
そう気が付いた時から迷いがなくなった
自分の答えを自信をもって話せるようになった
そして その答えが正解でも不正解でもないことを 知っている
そして そのことが一番重要だということを 知っている
真実を語る者が現れた
今までは 公で語ることはタブーとされていたことを
まだ間に合うのだろうか?
崩壊に向かっている この世界を止める事
百億の昼と千億の夜の阿修羅王のように、決し
て勝てない戦いを
永遠に続けていくことになるのだろうか
それでも 負けると分かっているとしても、願わずにはいられない
希望の光を、絶やしてはならないと
世界の終わりが来るとしたら、戦争なのだろうか。
それとも、自然環境の変化。
もしかしたら、免疫で対抗できない、人工の病原菌かもしれない。
目覚めた時から、多くの噓が存在していることを知った。
株は、誰かが操作している。裏に大きな力ある者が隠れている。
民は、翻弄される。右に左に何も知らず、何もわからず。
自分の都合しか考えてない人間が なんと多いことか
もちろん 自分ファーストが悪いわけではない
ただ 目的が「友人を作ること」であるなら 話は別だ
人のことを考える 思いやれる人間でなければ
新たに信頼できる友人を作りたいと思うのなら 無理というものだろう
ましてや 若いころならいざ知らず
半世紀以上生きてきた人間同士では 自己中の人間は信用されない
見抜かれてしまう
友人が欲しいと口では言っていても 首をかしげてしまう
自分をさらすリスクを一切負わず 相手の情報だけを知ろうとする
そんな都合よい考え方で 友人をつくれると思っているのだろうか
それとも表面上の友人が欲しいだけの 寂しがりかまってちゃんの類なんだろうか
もしそうなら 半世紀以上生きてきて 侘しい人間性だなと思ってしまう
あなたが守っているものは何
恐れているのは何なの
私が失うと怖いと思っているのは 自分自身への信頼感だけだよ