J’sてんてんてまり

はじまりは黎明期。今は、記憶と記録。

大道芸WC-1

2016年11月09日 | 大道芸物語り

1990年前後。

日本はイベントで満ちていて、地方でも華やかなお祭りが繰り返されていた。
金は無尽蔵に湧いてくるかのごとく、日々の生活で気にする必要もなく消費できる。
未来永劫その日が続くはずだった頃。

静岡市で、異業種交流や文化創造の始まりと思える団体のリーダーをしていた。
大手流通業の会社が静岡市に作った若者向けの商業施設があり
そこで仕事を請け負った様々な業種の若者が集められた中に、私もいた。
全員、店長が目をつけた人材だった。
そして、その会社がスポンサーとなって、種々のグループをまとめ、
各団体のやりたいことを叶える運営ボランティアの市民団体が立ち上がった。
あの頃、今で言う企業の社会貢献も、案外盛んだった。

団体には、社会人のみならず学生たちもいた。
静岡の雑誌ぐるぐるマップの仕事で知り合った静大生に、
私がサークルでの参加を呼びかけたのだった。
彼らからの発案で、青葉通りを舞台にした野外文化祭、青葉文化祭を開催した。
今のストリートフェスティバルの種のようなイベントだった。
続いて、JCが野外文化祭を開催。ハロウィンパレードも、その頃だったか。

そして、青葉通は石造りの欧州のような通りに整備される。

当時の天野市長の発案だった。
欧州視察に行き、石造りの公園や道路、水辺を静岡に作った。
そして、ここに、欧州で見た大道芸人を呼びたい。
エネルギッシュに行動する市長の思惑に応じ、まずJCが、
そして、市民団体の代表の何人かが集まった。
現在の大道芸ワールドカップin静岡に向かってゆくメンバーに、
市民団体の代表として、そして、イベントや放送業界のプロの立場として、
私は呼ばれることになる。

静岡人は「やめざあ」気質で、なにごとにも乗らない、などと揶揄される声も聞いたが、
なんの、私たちの団体は、やる気満々で、発案もあり行動もしていたし、
そこに集まった団体も行動的であったし、ただ単に、場の提供がないだけだった、と今でも私は思う。
街に出かけていっても、何かのイベントでも、コンサートでも、皆陽気に楽しんで賑やかだった。
MCとして客に呼びかけるときも、でてきて欲しい、騒いでほしいと伝えれば、しっかり応えてくれた。
じゅうぶん時代にも、乗っていた。

仕事で一ヶ月の三分の一は浜松に行っていたので、浜松人の「やらまいか」気質も、
決してそうばかりではないことも知っていた。
彼らは、工業中心の街で、浜松祭りなどに代表される祭りの場においては、騒ぎ遊ぶことが常識だった。
静岡は、商業中心で、祭りでは観客になり、演者を邪魔せず味わうことが常識だったにすぎないのだろう。

どう振る舞うことがいいのか、その場ではどうしていることが求められているのか。
どこの地方においても、そんな公序良俗が身についているというべきであったろう。

他より劣っているのではあるまいか、自分たちが間違っているのではないだろうか。
言うならば、公序良俗的であるがゆえに、日本人は自虐的になる傾向がある。

突拍子もなくエネルギッシュな元市長にしてみれば、
「静岡人は、やらザァって言っても乗ってこない」だったのかもしれないが。
しかしまた、それほどのパワーの塊がいたからこそ、
出会いが引き起こされ、大道芸の街に向かって時代とともに物語が動き始める。

何事もそうであるように。

 



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