日本で写真が一般に普及する前の江戸時代には、泥棒や強盗などの犯人の公開捜査には、手書きの人相書きを使っていました。
それが明治になり、写真が人相書きにとって代わりました
いわゆる手配写真です。
明治5(1872)年に制定された法律「監獄則」には、「何度も犯罪を繰り返す者や凶悪犯は、その写真を撮っておいて、万が一逃亡したときに、あらためて捕まえるときに役立てる」という雑則がついていました。
手配写真が本格的に実施されるのは明治14年以降ですが、それ以前にこの法律はできていたわけです。
「監獄則」が制定された当時、司法省のトップの座にいたのは、佐賀藩士だった江藤新平。
彼は、この新しい法律を定めるなど、司法制度の整備を協力に推進していました。
しかし江藤は、西郷隆盛、板垣退助らと征韓論を唱え、敗れて辞職し、野に下りました。
翌年、征韓党に推されて首領となり、挙兵、いわゆる佐賀の乱を起こします。
やがて政府軍に鎮圧され、江藤は佐賀を脱出し各地を逃げ回ったものの、捕らえられました。
江藤の捜索が行われていたとき、人相手配写真が各地に配られました。
この写真は、逮捕の大きな手がかりとなりました。
つまり江藤は、自分がつくった法律によって捕まってしまったわけです
なんとも皮肉な話ですね
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