親ってものは、ありがたいものだ。と気付くのは、かなり年をとってからの様だ。
大学4年の、この年は忙しかった。
さかのぼると、辛うじて二年生に進級できた。
しかし、2年次は遊びすぎて、12単位しか取得できず、さすがにあせった。
我慢して学校に行き、実験も皆勤賞、テストはなりふり構わずの三年次は奇跡の108単位を叩き出した。
そして、その結果この年、小生の四年次は卒論だけが残った。
にも関わらず、忙しかったのだ。
三年次には、たくさんの人にお世話になった。
もちろん、小生の4年への進級に協力してくれた人達を指す。が、文字にはできない。
これらの協力者は、小生の人生において珍しく真面目な方々だった。この人達の人生に汚点があることを書いてしまったら、小生は確実に地獄行きであろう。
友人には2種類ある。
少し迷惑かけてもシャレで済ましてくれる人と、絶対に迷惑をかけてはいけない人だ。
三年次のストレスの反動もあってか、はたまた最後の学生生活が残り少なくなっていることの焦りがあったからか、遊べるだけ遊ぼうと決断したものの、あまりにも多くのことをやらなくてはいけない。
特に旅が多くなった。日本各地の友達の家がほとんどの宿泊先だ。
もちろんのことだが、最後の年なので、小生の田舎にも行きたいとの友達のリクエルトが殺到した。
クラブ、クラス、飲み仲間、ギャンブル仲間、それぞれの希望を聞いていると、小生自身が行きたい場所(友達宅にお世話になるのだが)に行けなくなる。小生は五島列島の民宿のニイちゃんではない。
八月初旬から20日までを小生の故郷である五島列島受付日として、帰省。
7月いっぱいと、8月下旬から9月上旬は日本国中の友達宅を巡った。
ほとんどが、学割切符の周遊券で鈍行列車の旅だ。
幸いにも、小生の学校には、いろいろな県の出身者が集っていた。さらに小生が住んだ学生寮の400人の住人は全員、地方の人だった。
この旅の為に、お金も必要だった。稼がなければならない。
そのような理由で、四年次はクラブは少し控えめにするつもりだったが、一年下の3年生の人数が少なかったこともあり、面倒を見なければならなかった。
そして、その忙しい合間にお金を作った。
学校には研究室の卒論の打ち合わせくらいしか行かなかった。
その卒論も、分析手法が似ていた隣りの研究室の野本君がほとんど作ってくれた。つまり資料自体は小生が役所に行ってもらってきたが、資料にあるデータをファコムのコンピューターのパンチカードに穴を明けて出してくれたものが、卒論の厚みの99%であり、その作業はすべて野本君がついでにやってくれたのだ。
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小生自身は、卒論の目的を前文に書き、「コンピュター分析という手法で、過去のデータを基に、未来を予測するのは、いかなる産業でも不可能である」と結語に書いただけだった。
コンピュータが、何に使えるかを模索していたこの時代に、先生方の期待を裏切った結論を、小生ただ一人だけ卒論にした。空気が読めない小生のプレゼンに、卒論発表会は、しらけたムードになってしまった。
小生のキャラクターとしては、「受け狙い」で皆が笑ってくれることを期待しての発表だったが、大久保君や江藤君がクスクスと一部で笑ったが、教授や講師は呆然としていたことが印象的だった。
時代が流れて、今となっては、その結論が正しかったことは証明されたが、大人げなく配慮に欠けたことは反省している。
しかし、野本君が出してくれた分析データはA3版の用紙にギッチリ500枚の大作で、そのボリュームに免じてか、Aがついた。
仕事がら、未だに必要になることのある理科系の学士様の免許皆伝の成績表の中で、数えるほどしかない「優」であった。
脱線したが、この様に学校には、ほとんど行かなくてよい年だった。だが、忙しかったのだ。
この当時、就職活動の解禁日は4年生の10月1日からだった。
従って、この日までに思い残すことのないようにしようと、強く思った。
研究室の関係もあって、小生は3年生の春休みを使って東芝のコンピュータ部門でアルバイトをした。
職場は若い人が大半だったが、ほとんどが名だたる学校を卒業したエリートだった。
当時は珍しい高層ビルにオフィスがあり、皆さん忙しそうだ。
勤務は8時半時から午後5時で、アルバイトの小生は5時になると、主任さんに断って帰る。
せっかくアルバイトしているので、社会人生活や就職活動についてなど親しくなった人に聞いてみたいが、皆さん帰る気配がない。
数日たった昼休み、たまたま定食を奢ってくれた社員の人に「皆さん、何時位まで仕事してるのですか?」と聞くと「今日のうちに帰りたいな」とポツリ。
隣りで、一緒に定食を喰べていた上智の理工学部を卒業の先輩が、小生の学校を聞き「君どこだったっけ?」
そして「会社の名前だけで就職を決めちゃだめだよ」とアドバイスをくれた。
確かに、小生の研究室の先生や先輩は研究室に求人が来るコンピュータのハードウェアの会社に就職することを勧めなかった。
ましてや、それらの会社より規模が劣るソフトウェアの会社は相手にもしなかった。(現実に我々の研究室からソフトウェアの会社に就職したのが3人いたが、成功しているのは、私の卒論を作ってくれた野本君ただ一人だ)
この時代、フォートランという言語がスタンダードだったが、次はコボルになると、ほぼ決定していた。
幕末期、次は英語が必要と分かっているのに、わざわざオランダ語を勉強している福沢諭吉や大村益次郎の心境だ。
上智の先輩は食事の後、東亜珈琲で冷コーをすすりながら、「俺たちは、忙しい中で次の言語を勉強しなければならない。そして、コボルも一過性になるだろうから、三十歳くらいで、使い物にならなくなって、これだよ」と、空手チョップ風に指先を尖らせた右手を自分の首すじに当てた。
「間違っても、こんな会社に就職しちゃダメだよ」
天下の東芝にして、こんなの状況か!
もちろん小生の成績では推薦さえ、してもらえないのだが、世間の厳しさを感じざるを得なかった。
因みに、コンピューター業界の将来は、この先輩が言った通りになった。
データをわざわざ、パンチカードに打ち込む必要などすぐになくなってしまった。
さらに、今では、小学生でもマウスのクリックで使えるパソコンになって、コマンドを打ち込んで動かしている人はいない。
つづく
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