ふとんの中

トラブルは嫌いだが、考えるきっかけは愛そう。

ブログ移転のお知らせ

2050-01-01 00:00:00 | 日記
ブログ移転>>[どこにでもいてどこにもいない]
メイン更新ははてなブログに移行しました。
[Filmarks/iojjj]
[note/いお]

■SF日記
■歌、作詞、絵、文、とか。
■歌う。曲作り模索中。表現を外に出すリハビリ中。
■精神のほつれを解く。
■会社を辞めて風になった。
■イラストリクエスト受付不可。
・サイト内の画像の無断転載はご遠慮下さい。

点線面vol.1ちひろ特集への寄稿+座標と螺旋の仕組み

2020-07-12 14:56:14 | 精神
はてなの方で更新しています。
あと、web拍手をちょこちょこ頂いているのはありがたいのだが、正直…どのページに頂いてるのか分からない…一体どのページが評判がいいのか全然分からない…というのが10年以上続いている…

OGPイメージ

点線面vol.1ちひろ特集への寄稿+座標と螺旋の仕組み - どこにでもいてどこにもいない

[前記] 2016年、寄稿の依頼を受け書いた文章を無料公開する。これは『点線面vol.1』というリトルプレス誌に掲載された。2016年09月...

どこにでもいてどこにもいない

 

「イケメンと」連呼する人

2018-06-12 03:33:25 | 精神
はてなブログ側に更新。

gooブログから引っ越し中です。今後goo側での更新はしない方針。誘導とかは少しするかも。
はてなは調整中。

三峰から連れ帰った音

2018-05-02 06:15:15 | 精神
三峰関連の記事で伏せた事項があって、誤魔化して書いていた。それを解禁する。

前段
1)三峰神社にいる神様と穢れ
2)生霊との遭遇、時間解釈

見えない世界はすぐそこにある話。

ヘロヘロになって帰宅した私は、コヤラちゃんを握ってただいま〜と言った。
その瞬間コヤラちゃんがものすごい形相になったのだ。
《ちょ、おま、誰や!!あんた何連れてきたん?!!》
こんなかんじの顔。(勿論ペイントはずっと同じ顔だ。なのに違う。能面が陰影で表情が変化するように。)
その顔をみて、何かを連れてきてしまった事に気付いた。やっべ…どうしよう。祓い切れなかったのか。

三峰の宿坊の部屋に入った時からずーっと鳴っていたコツコツという音。
そいつがうちに来ていた。それから私の部屋で時折コツコツ音が鳴るようになった。

しょっちゅうではなく、ふとした瞬間にコツ…となるだけなので、特に邪魔ではないし、良いやつか悪いやつかも分からない。
肝心の危険なジュルジュル野犬は自力で祓ってこれたので、コツコツはまぁいいか。
といっても最初はかなりビビって警戒した。
初期は北側玄関から音が鳴っていた。だが少しして反対側の南側の窓からも鳴るようになった。
そしてエアコンのあたり。冷蔵庫のあたり。
段々内側に移動してきている。
内側に入ってきた時は怖がっていたが、次第に慣れていった。

先生に相談すると「良いものか悪いものか判断がつかないけど、悪いようには見えないなぁ」と言われた。
警戒していると何でも恐怖を感じてしまう。フラットに見るのが難しかったけど、その言葉で少し安心した。

コツコツは静かな夜の方がよく鳴る。三峰の事を思い出してる時は頻度が上がる。思考に反応しているのか、何か主張してるのかな、とも思った。
暑い夏の最中は減った。あまりに暑くてへばってるのかも知れない。山の中と都会の暑さは質が違うだろうし。
居ない時期もあった。帰ってしまったのかな、と心配になった。もしくは何かを報告に行ってるのか。
もうその頃から、居ないとちょっと寂しくなっていた。
コツコツを「コッちゃん」と呼ぶようになった。
帰宅した時、「コヤラちゃん、コッちゃん、ただいま〜」と言うようになった。

色々見える人に話を聞きに行った時、コッちゃんの事も聞いてみた。
すると「自身にも目的が分からない」そうだ。
なぜ私についてきたのか、本人にも分からない。迷子なのかお前。奇遇だな私もだ。どこでなら生きられるか、全く分からん。未知数だ。
うちに居たけりゃずっと居な。迷子同士だ。

コッちゃんはいつも単音なのだが、先日は珍しく複音だった。
「私が人を喜ばせたくてやる事は、実は相手の迷惑なのではないか?喜んでるフリをされて、裏では嫌がられるのではないか?」と疑心暗鬼に陥って泣き伏している時だった。
コッ コッ コッ
コッ コッ コッ
一階の住人かとも思ったけど、こんな規則性のある音、しかも場所がどれも違う。遠い、近い、遠い。a、b、c地点、と音の響く距離感が違う。
その音が耳に入ってきて、コッちゃんが呼んでる?と我に返った。

悲しくて泣くのは過去を見ているからだ。過去はそうだったかもしれないが、現在はどうなるか分からない。
コッちゃんが現在に引き戻してくれた。
先生からは
「そうじゃない、絶対違う。嫌がられたり迷惑に思われるなんてないよ。喜ばれるよ。そう言い聞かせなさい。絶対耳を貸しちゃ駄目だ。」
と言われ、闇に引っ張られないよう踏ん張り続けた。

人間不信なのは、食卓で延々と親から人の悪口を聴き続けたからだ。
人って表でいい顔してるだけなんだなあ〜と刻み込まれた。呼ばれるのはその暗い声だ。だから耳を貸さないように、自分で言い聞かせ続ける。でも虚しい。だってそれは自分の声だし。本当に違うのかなんて、信用できるのか分からない。
自分だけでは信憑性が低い時、他人の意見は本当に強い。自己がもっとしっかりしていれば、自分の意見や体感だけで戦えるかも知れないけど、私は生まれ直して少し経った位のお子様だ。だから先生の言葉が何より強かった。

コッちゃんの音で我に帰り、先生に励まされ、人に頼る事をようやく思い出した。1人では無いのだ。そうだ、コヤラちゃんも居たんだ。助けてコヤラちゃん。
コヤラちゃんを握り、目を瞑っておでこを付けた。その瞬間、ブワッと。違う世界みたいな所に連れていかれた。

抱っこ、というかしがみついていた。私はとても小さくて、アリエッティのような小人サイズで、大きいコヤラちゃんのお腹にしがみついて泣いていた。そしてヨシヨシしてもらっていた。
洞窟なのか木の家なのかよく分からないが暖かくて、外は風がそよぐ草原。虹が出ていた。
暖かくホールドされて、しばらくして泣き止んだ。特に言葉は無かったが、温度でわかった。私を好いてくれていて、助けてくれることを。
目を開けると世界は元通り、自分の部屋だけど、心は落ち着いていた。抱っこしてもらった温度や感覚はまだ残っているし、残り香を嗅ぎにいける。何度も反芻した。

先生に報告したら「コッちゃんもコヤラちゃんも、そっちじゃないよ、こっちだよ!って教えてあげたいんだよ」と言われた。
コヤラちゃんはホピのカチーナだから、陰陽でいうと陽、光であるのは頷けるが、コッちゃんの立ち位置がずっと不明だった。
でもあの連続音、どう考えても気付いて!と言ってるとしか思えない。多分いいやつなんだと思う。ありがとう。

三峰から帰った時、コヤラちゃんがすごい顔してかなり警戒していたけど、2人(精霊ってどう数えるんだ?)が一緒になって慰めてくれたと思うと、もうこの部屋に順応して一緒に生活してるんだと思う。あれからもう10ヶ月だ。
1人暮らしだけど1人では無い。それはすごく楽しい。

耳は昔から非常に過敏で、階下の親の足音、階段を上ってくる音を聞き分けて警戒体制を取っていた。兎の耳だ。(仲間いるよね?)
昔は自分を感覚過敏だと思っていた。鼻も目もよく効いた。外情報を取り込みすぎて具合が悪くなっていた。

でも聞こえるのは悪くない。ジュルジュル野犬は最悪だし願い下げだけど。人間ではない同居人。
いつまでもとは、ワガママ言わん。なるべく長く楽しく一緒に過ごせるように祈る。
そしてお互い迷子でなくなったら、道が見つかったら嬉しい。

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花の言語、居るだけで良い話

2018-04-18 04:49:45 | 精神
先日ジャスミンの苗を買った。

前置きが長くなるが、私は花が嫌いだった。
子供の頃から花の美しさが理解出来なかった。少女漫画ではキャラクターの後ろによく描かれている。綺麗と言われてるもんで適当に穴埋めしてると思ってたし、絵画によく花の絵が描かれているのは(なんで皆そんなに花を描きたがるんだよ…)と思っていた。
花がというよりは、一面に広がる一色の不自然な花畑とか、何とか園とかの、ババアとかジジイが鑑賞に来てペチャクチャと「まぁ〜綺麗ねえ〜」と言い合う図が嫌いだった。
それ…本当に綺麗と思ってんのか?とものすごく疑っていた。ただそういう社交辞令がルールだから、皆感動してるフリをしているんだ。そう認識していた。

ただ、桜だけは何となく好きだった。それは桜の形が、とかでは無く「花びらが散る空間」がだ。花見の人間達はどうでもよくて、誰もいない中散っている、そのエリア一帯は神聖な気がしていた。
ジャスミンを知るのはもっと後になってから。確か大学頃。花の名前だって碌に覚えてない。興味が無いから。でもジャスミンは有名だと思う。きっとどこかで名前を聞いていた。アラジンの姫とかね。どこかで香りを嗅いで、これは悪くないなと感じたのだと思う。好きな花は?と聞かれて具体的にちゃんとは理解していないけど、「ジャスミン」と答えることが増えた。
なんでも嫌いから始まる私は香水も臭くて嫌いだった。プンプンにおう人に(くっせぇ!)と思っていた。でも香水とかの話題になるじゃん、大学だから。好きな匂いを聞かれてもよく分からない。店のテスターを嗅ぎに行ってみた。その時唯一「大丈夫、これは嗅げる」と思ったのが、ジャスミンとスズランの香水だった。(オーキャッチのバイオレットキャット)
やっぱりジャスミン、お前だったのか。適当に言ってたけど。ジャスミンは少し特別な花になった。
そういえば花の香りがいい匂いと思った事も無かった。青臭い変な匂いと思っていた。花を嗅いでいい匂いと発言する人間は信用ならん。綺麗事と建前が好きな人間に違いあるめえ。でもジャスミンはいい。「かぐわしい」ってこれのことか。「馬と少年」の都タシバーン、南国の花の香りにピッタリだ。

3年前、先生の薦めで植物を育ててみる事にした。その時選んだ内の1つがジャスミンで、もう居ない。春から育てて夏に成長しまくり、秋に水やりを怠り枯れてしまった。
世話する私が夏で燃え尽きたのだ。うちにはベランダが無いので水をやる時は一旦窓から移動させねばならない。でかく重くなると結構大変で。
その時はまだ精神の変化の序盤で、植物への感覚は鈍かった。
私が居心地よく感じる部屋そのものが、土と鉢植えに相当するというのは面白かったのだけど。

そこから時を隔てて、再び植物を育ててみたくなった。
野菜もやりたいけど、花だ。
花は役に立つか?というと野菜みたいに食べられない。ただ見るだけ。香りを嗅ぐだけ。花は「居るだけで良い」。

私がやっていた仕事は「居るだけで良い」という考え方に当然ながら沿わなかった。勿論仕事は役に立ってナンボだし、そのように適応はしていた。
でも役に立たないと途端に「私の居る意味とは…」と奈落に落ちる。居る事が申し訳なくなる。役立たずが居てすみません。消えた方がいいですよね。役に立たないと居る意味がない。
この考え方がベースだと、自分が役立たずである事を許せない。許せないと自分を責める。なんでこんな事もできないの?!できるようになるまで無理して頑張る。
そしてさらにできる人を羨み嫉妬し、できない人をバカにしたり嘲笑うルートと密接に絡み合う。そっち側の分岐に入る可能性が高まる。

脱するなら、できない自分を許容しないといけない。「居るだけで良し」がこれだ。
生きてそこに居るだけで、もう十分です。
その中の1つが花だ。花は咲くだけで存在を許されている。食えない。鑑賞するだけで。
言ってみれば苔だって雑草だって、特に許容されずとも、勝手に生きて勝手に咲く、成長する。

それでジャスミンを買ったのだ。長い前置きだったが、居るだけでいいって、どういうことか知りたかった。

ここからちょっとファンタジーな話になる。実話だけど。

蕾がたくさんある元気そうな子。
植木屋さんには、この時期のジャスミンは早熟で、今蕾ができるように時期的にはかなりズレて育てられていると言われた。
薬をかけられて、まだ寒い時期に蕾をたくさんつけている。
その姿は同情を誘った。共感もした。辛かったのかな、とか。無理したのかな、とか。

ツタが1本伸びていて手提げに引っかかっていて、それを間違えて握ってしまった。茎がグネッと曲がってしまい、慌てて謝った。ごめんね!大丈夫?心を傾けた瞬間、

ブワッと、何かに包まれた。幸せの塊のような、涙が出そうな優しさ。
《大丈夫、問題ないよ。連れていってくれてありがとう!一緒にいられるね、嬉しい!嬉しい!嬉しい!》
歓喜の渦のような、喜びのエネルギーが大量に発生したエリアに足を突っ込んだみたいな。
半径1mを喜びに包まれてる感覚。
こんな言葉を直接聞いたわけではないけど、喜びの声なのはわかった。それを人間語に翻訳するとなんとなく《》ぽい、と思った。
スーパーのパン売り場の前で立ち尽くして、泣きそうだった。
一緒にいる事をこんなに喜んでくれるのか。私に買われて、それを嬉しいと言ってくれるのか。
この子は喜びの子なんだ。
生まれた事を喜んでいるんだ。
そして愛してくれる。居るだけだけど、一緒にいる事を喜んでくれる。
それは無償の愛だと思った。
役立たずだけど居ていい、この式は成立するんだ。
(愛をくれるから役に立つ、という後付けも成立してしまうが、それは目に見えないものなので一応ノーカウント。目に見える役立ちに囚われてるから。)

それからはこんなに鮮明に声?が聞こえる訳じゃないけど、美しい香りをくれたり、退屈しない。一人で居る時に話しかけたりする。
同居人が増えた。(見えない住人も居て、それについても今度書こう)

あなたが生きて、居るだけで嬉しい。一緒に居られて嬉しい。そんな風に言われたら、惚れるし泣くしかない。心が結びついたら、そこが拠り所になる。居場所になる。
だから一見嘘くさいけど、居るだけで良いって言葉は、建前でもなんでもなく。有ることなんだ。
遠い世界の言葉ではない。頑張ればかなり近くまで行けるし、そのものにもなれるかも知れない。

そして、人に心から言えるように。

因みに花を見かけると、咲いてよかったな!と心の中で声をかけるようになった。
花を嫌いではなくなった。好きになってきた。

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らくがき

2018-02-15 23:10:28 | つくる

神代のいきもの

胡桃堂大学の集会の時話を聞きながらずっとらくがきしてたやつ。ipohone写真からPCつっこみ塗った。
ホピとケルト神話ごたまぜ。
蜘蛛は神様の使いらしい。龍はいいやつらしい。左上の鳥はベルティネ。
song of the seaのプラーナ。芝生の羊はモアナのテ・フィティの類。ポリネシア。
鳥たちは適当。

ブログを移行しようとfc2とはてブにつっこんでみたんだけど、拍手がどうにもうまくいかない。
はてなにfc2拍手を突っ込もうとしているのだがweb見過ぎて気持ち悪くなってしまった。一旦止めとく。

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リハビリ

2018-02-14 20:19:07 | つくる

春風をまってる


おさかなが焼けるにおい
指は冷たい




作って出すリハビリ。どぽどぽ。ずっと絵が描けなかった。久々に描けた。

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自分の写真が見られない

2018-01-14 19:58:27 | 精神
ずっと使ってきたブログだけどnoteに移行しようかと思って、ちょっとやってみた。内容同じ。
gooブログは拍手を手動で貼ってるし、どのページが拍手されたか分からないし使いにくくてな。
https://note.mu/dokonidemo/n/n109f658e5e4b

自分の顔が見られない。顔立ちが嫌いだからだ。
中高の頃はトイレの鏡が嫌いだった。くしくも全面鏡張りという私立の女子校らしい豪華なトイレ。反射で顔を背けていた。
ただ演劇部で役者だから、本番前舞台メイクをしなくてはいけない。その時は諦めるしかなかった。

自画像を描けない。高3から美術予備校に通ったが、運良く自画像のカリキュラム後に入校し、以降縁が無かった。今でも描ける気がしない。
自分をつい美化してしまうのではないかと、そしてそれを他人に見抜かれるんじゃないかと。
何の行動もしてないのに気が気じゃないのだ。

成人式は遥か昔だが、親と不仲真っ最中だった。お金も無かった。振袖への憧れは無くも無かったが、友人に袴を借りた。写真は勿論撮っていない。

自撮りという文化も大変恐ろしい。やる人は皆勇気がある。そして自分の顔を堂々と可愛く思ってるんだ。すごい事だ。

普段普通に過ごしていられるのは、忘れているように努めているからだ。
鏡を見なければ自分の姿は見えない。自分が人を見る。でも見られているその顔は自分からは見えない。見えないものは無視できる。

大人になって鏡を見慣れてきたし、化粧しなきゃ人に見せられないとか、そこまでは感じない。すっぴんで普通に外に出る。
だけど写真だけは、それだけはダメだ。
周りの自然体で堂々と写っている人達、皆きれいだなあ。羨ましい。

例えば何かのイベントやセミナーに参加している時、記録写真を撮る係がいる。それは後からレポートとして表に出る場合があって。
カメラを向けられていると感じるとさりげなく顔を下に向ける。
伏し目がちなら何とかなりそうな気がしているからだ。でもそれも後から見ると、頭をかち割りたくなる。もっと下を向いて顔の判別ができない程にすべきだったと。
余り極端に避けると「こいつそんなに写りを気にするのかよ自意識過剰なガキだな」と思われそうで逃げる事も恐ろしい。

参加したとあるイベントのレポート、沢山の記録写真が載っていてそれを見たら、悲しみが噴き出してきた。ああ、写りたくなかった。もっと拒否すれば良かった。それを「写真に自然体で写れる程自分を受け入れられてるぜ」とか大人のフリをして。
私は大人なんかじゃ無かった。
自分の顔を認められない、自意識過剰で歪んだ思春期の少女だった。

この歪みきった自意識の原因は分かっている。母親のいちゃもんだ。
「団子鼻で可哀想」「奥二重だけど殆ど一重で気の毒」「鼻が低い」「まぶたが腫れぼったい」「地味」
小さな頃から散々貶され続けてきた。
おそらく客観的に見て、私は平凡な顔だと思う。何が特徴的とも言える形をしていない。
パーツ1つ1つとっても、親が言うほどまぶたが厚いわけでもないし、鼻が低いわけでもない。
地味で奥二重なのは本当だけど。

でも自分で「私はブサイクだ」と、確固たる信念として信じ抜いてきた。
だがその信じてきた親の意見が本当に正しいのか?そのまま信じ続けるのか?

自分への認識改革が、数年前から着々と進んでいる。
そして人から愛を貰う事にも慣れてきた。
彼氏はこんな顔でも可愛がってくれる。どんな行動を取っても、子供のようにふざけても、甘えても、それこそが「愛おしい」のだと。

顔は人間の要素の中でほんの一部分。人付き合いにあたっては性格、振る舞いこそが主。なのにカメラに写る顔に囚われて、苦しんで、自分が何か変なのは気づいている。
ただ、人からの愛を虚空に流さず受け止められるようになってきて、重心が安定してきた。
でも悲しみは止まらない。
同時に、2つの意識を抱えている。
親の意見を信じ込んできた過去と、変革を乗り越えてきた今が並び立つ。
2つの潮流がぶつかって大波が立っている。

さあ、どちらに肩入れする?
今の私はどちらを選ぶ?

母親が間違っているのは、もうとっくに分かりきっていた。
先生が教えてくれた。
娘への顔へのいちゃもんは事実無根の中傷で、私が傷つけば彼女は御の字。
なぜなら母親自身が、自分の顔も性格も大嫌いなのだ。
発言全てはブーメラン。この醜い顔では苦労するよあんた。一人で幸せにはさせない。先に叩き潰しておく。
そのための中傷。それは本能的なもののようだ。
足引っ張りをする為に、常に自分と娘を呪い、墓穴を2つ掘っている。

「まんまと傷つけられ続けてるってことに気がついてね。何十年も。
母親はあなたにも同じ茨の道を歩ませたかったんだよ。
自分を嫌って呪って生きる道。ひねくれて孤独で誰とも繋がれない道。
そうなるように、自信なんか持たないようにしつけてきたの。」

愕然とした。
顔のことだけは、それだけはどうしても傷が深くて深くて、手当が後回しになっていた。やっと直視できた。
なーんだ、私が劣等感の塊で、写真1つで落ち込む事ができるのは、母親の狙い通り!
そんな悔しい事があるか。この痛みは不当で、間違っている。

幸せになりたい。それは「足るを知る」だと解答はもうとっくに出ている。臨済録とか知恵ある本には大抵それが書いてある。外に求めても何もない。全ては自分の内側に「ある」。「ある」ことを知れと。
だが知っていても、腑に落ちて実践できるかは全く別だ。
そりゃ満足したいさ、いつだって。
でもこの飢餓感はどう考えても程遠い。なんでこんなにブサイクなんだろう。他の人達はなんて美しいんだろう。
でも、でもその「ブサイク」という前提条件が崩れたなら。
満足に至る道にそびえる強固な障壁が、瓦解しようとしている。

自己憐憫は甘い蜜だ。
このまま母親の中傷を信じ続ける事だってできる。写真を撮られる度にさり気なく俯いて、死ぬまで見ないふりを。そして傷を蓄積していく道。
それはジャンクフードのように中毒性がある。
常に言い訳を必要とする、謙遜と自己嫌悪と取り繕いの世界。
でも、愛される喜びを知りつつある。私を愛し、褒めてくれる数少ない人達、先生や彼氏。数少ない暖かい人達。その人達の意見を信じたい。
信じたっていいじゃないか。
居心地のいい信頼できる人達を、自分が選べるようになった。その人達が価値を認め、褒めてくれる自分自身を、なぜそこまで貶さなければいけないのか。
堂々と振舞ってみたい。そんな風にできたらどんなに幸せだろう。幼稚園の頃から、そういう人達が羨ましかった。憧れと嫉妬を持っていた。

だから、ずっと信じ込んできた親の嘘を捨てる事にした。
私は可愛くて愛される価値のある人間であると。少なくとも顔は普通で、醜くなんかない。苦労などあるわけないと。そう信じる事にした。

今までだったら、絶対にジャンクルートを選んでいた。新たな分岐を選べたのは、対極に別の蜜がある事を知ったからだ。
それは滋養のあるご飯とでも言うべき、時間をかけた信頼の積み重ね。
新たな選択肢を作るには、一人では無理だった。人の力が必要で、それを求めたから、新たな選択肢が現れた。

ちょっとこっちの道を行ってみるよ。
自分を嫌うのにもう飽き飽きしていたから。
どうせ死ぬなら「自分を好きでいる」っていう経験だってしてみたい。
それを味わわないで何が人間だ!
この世は舞台だ。どう踊っても転んでもいい。
「私」という役柄はどんな変化にも対応可能。ブス役はもういい。恥じ入り苦しむ役はもうしたくない。
だから笑われてもいいから、堂々として、スッと立っている人を次はやってみる。
あわよくば子供のようにふざけたいし、変な踊りも踊りたい。下手でいいから歌いたい。それを人に見られても恥ずかしくない。ケロっとした顔をしていたい。
そんな風に自由に振舞えるようになったら、見える世界がもっと鮮烈に、より強い記憶になるんだと思う。写真なんか目じゃないほどに。

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共感の正体はなんだ

2018-01-12 01:38:37 | 精神
放置しまくっているのにたまに拍手してくれる方がいる。あー見てくれる人いるんだなあ、と思う。
出すのが本当に苦手なので、嫌われようが怒られようが、とりあえず出す。
人にどう思われるか予測、対策しない。それをし始めたら何もできなくなるから。

今回はまとまりない散文だし結論も出てない。まとめる事を放棄した。

共感てなんだろうと思ってた。
いつからか、漫画の人物に共感できないことが増えてきた。
失恋ショコラティエ、3人暮らしの頃は夢中でストーリー追っかけてたのに。
最近エマを読んでみたが、私には合わなかった。単純にエマが自分の好みでは無い、というだけなのかな…入れない感じ。
ちはやふるも無理だった。
ワンパンマンも。エフェクト過多。アイシールドのバランスが最も漫画に適しているように見える。何よりもキャラの根幹がよく分からない。

でも変わらず好きだと思えるキャラクターも居て、違いは一体何だろう。どこから生まれるんだろう。
7seedsの面白さはわけわからんレベルだし、キャラが皆生きてる。操り人形ではなく「意志を持って」生きてる。あんな沢山のキャラを皆生かすって魔法使いか田村先生。
入江亜季さん、乱と灰色は凄かったし、北北西も良い予感がする。
五十嵐大介さん、海獣も魔女も凄いしディザインズも待ってる。
安田先生、ちひろさんからあやになって、より「場の力」を強めていく。鮮やかに変貌していく。

キャラクタを愛らしいと思うには、何が必要なのかなあ。
あ、このキャラ表面だけか、と感じる時、何を判断してるんだろう。
不自然な匂いを嗅ぎ取ってるのかな…これ見よがしな属性アピールとか。ちはやふるの女王とか、なんで雪だるまを気に入ってるのか唐突で理解できなかったし…主人公と話す取っ掛かりだったのは理解できたけど。(途中まで読んだ)
特定の単語に過剰反応するのも結構気になる。鋼錬の「豆・チビ」とか。
ここが突っ込む所である、と作者がワザと隙を見せているのが感じ取れてしまうから冷めるのかも知れない。
様式美を嫌っているという事かも。
その様式美があると、踏み絵のようになるのかな。
その型を受け入れないとその世界には入れない、みたいな。
でもそれはほんの一部で。例えて言うならそれ、というだけな気がする。もっと大きな理由がありそうなのに言葉を見つけられない。

愛らしいと思うには、生き生きしてるのが主な理由だと思うのだけど、「生き生き」ってなんだよって話で。これが…全然言葉による説明ができない。
絵での表現と、行動・台詞による表現とが混ざり合って生きてると言わしめるのだろうけど。
行動と台詞の根幹に1つの魂があると感じたら、もうその人は生きている。それだけは分かる。絵はこの際重要ではない。

当たり前のように一緒にいてくれた本や漫画のキャラ達に共感して生きてきたのだけど、自分と同じ所があるキャラ達に自分を乗せて、一緒に冒険してきたのよね。
私は自分の部屋にいて安全なのに、未来の地球や異世界に居て危険な目に遭って、必死に生きている。もしくは冒険する。侘び寂びの世界に生きる。仮想世界の別のストーリーを生きる。疑似体験する。物語を食って生きてきた。
現実逃避として、都合のいい物語も大分食った。その節はお世話になりました。

…もしかしたら現実逃避ワールドの作品群は、敷居が高いのかも知れない。不自然な属性、隙と特徴を備えた人物達。それを跨いで世界に入るには、お主の不自然さを許容する!という自分GOが必要で、それによってワールドに入国できる。
その敷居の高さというのが、住人を守るのかも知れないな。住人は流動的ではなく、固定されるから。

それはもういいよ!そのキャラをなんで愛おしいと思うかってのが本題なんだよ。
以前「自分と似ているキャラを愛おしいと思うのは、自分を愛したいから」というアンサーぽいものは出てはいるけど、自分と似てなくても愛おしい人はいるし。
その行動と台詞の一貫性、魂みたいなものを、キャラの動きを通じて見せられる、のが芸術だと思うのだけど、なぜそれを見て愛おしいとか悲しいとか読んだこっちの心が震えるのか分からないんだよ。
それがどうにも不思議で。
もうまとまらないからいいや。知ってる人がいたら教えてほしい。

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映画に何を求めるのか

2017-11-15 15:47:42 | あそび
11月中旬の記事を放置してたので出しとこ。
沢山書き溜めてるのだけど、喧嘩売るような内容ばかりで。

シンゴジラ・君の名はが上映中だった頃、私はsingstreetに夢中だった。
大勢が夢中になっている映画は乗りにくい性質だから、情報を極力入れず、やっと今見てみた。
で、正直しんごじは楽しめなかったんだよね。
きみのなはは見てる最中は面白いと思ったけど、その後色々考えた。
皆が楽しそうで自分も楽しめたら面白いなあと思って、かなりフラットな精神コンディションで見てみたんだけど。
絶賛意見ばかりで気持ち悪いので、反発やグレーな気持ちを感じた私の心の内を正直に書き残しておきたい。
※若干にちゃんノリだしネタバレしている。
なお、比較でウルフオブウォールストリートについても書いたがこちらはネタバレなし。

書いてみて思ったけど、好きな映画について書けよ!と自分ツッコミも勿論入れた。でも好きな映画ってうまく言えないんだよ。好きーー!って理屈じゃないから。
嫌いって感情を整理しやすい。というか整理せずにいられない。あと賛同者探してるから外に意見出すしかない。マイノリティ孤独。

最近見た映画の評価
最強のふたり 好き!ドリスを目指したい
song of the sea 好き、柔らかくなる、美しくて泣く、真理
ブレンダンとケルズの魔法 好き、隠された宇宙の法則、真理、美
ブレードランナー2049 う、きつい…好きかと聞かれるとあんまり…長すぎ!頭で考えた映画。仕方ないけどね。

・シンゴジラ
全然のれなかったなー。なんで皆夢中なの?
正直「幻想乙」と思った。
型に人間が合わせている。台詞というひな形に。だから自然な形ではない。とても不自然。形式美。
「ありそうな形」の平均値に全て集約してる。
台詞が所々、特にモブ、言わせてる感半端ないのが気になって入り込めない。
最初尻尾が出た時、「尻尾?」と連呼させてギャグ狙ってたけど、なんで全身出てないのに尻尾と分かったのか。私はウミヘビみたいと思ったけど。児童文学の挿絵で船を襲うウミヘビ、よくあんな形で描かれているから。
ちなみに私は予告編もほぼ見てない。当時見ても今はうろ覚えだし、ツイッターで色々見かけたけど興味なかったし、本当に初見。
脚本先行の台詞。「これを言わなければいけないから言う」。あと何言ってるか分からない。特に尾頭。
最近のアニメでは情報量を莫大に詰め込む為に、間をほぼなくして早口で台詞詰め込み、という作品を1つ見かけたことがあった。タイトル忘れたけどそんなかんじ。超不自然な間の取り方でも詰め込めればいいから、という理由で。その作品はそういうスタンスなんだろうけど…。
シナリオもほぼ知らなかったので閣僚ほぼ全滅とか凍結とかは楽しめた。だから未来予知できない部類のことは面白い。
内輪感についてけない。こういうの好きでしょ小ネタ詰めすぎ。テレ東だけ通常放送とか。
これは一種の祭り。皆が破壊したいと思ってる日本の形。だから皆が喜ぶ幻想。日本はまだまだやれるという神話。
自分は破壊をできないからゴジラに壊してもらいたいという妄想の実現化。
(私が会社辞める宣言する前に、ホピのベアパウのペンダント買ったのと同じ心理。熊の爪で私を弾き飛ばしてほしいと思った。自分で動く勇気がないから、他力で無理やりでも動かしくてほしくて。読み返すと比喩として意味不なんだが、要するにおまじないの一種というか…。)
祭りには祀られる対象が無ければいけない。今回の対象は対策室の無名混成チーム。一癖ある人達と、有能な管理。一丸となって対策した群の人々全て。
ゴジラを褒める人たちは、自分を褒めたい。
鏡。祀られてる群の中に自分も混ざれる幻想を見ている。その中で自分も一丸となって働きたい。
意味のある働きをしたい。人の役に立つ事を。だからその中に入りたい。一緒に応援したい。
無数のモブ達によって成り立つ幻想劇。それは俺たちだ。という自分賛歌。だから人気が出る。
災害、非常時に夢を求めている。
退屈な日常、意味のない仕事をしたくない。
飽きて膿んでいる。ゴジラは最高の非日常。
しかも官僚一新。若手起用。いいことづくめ。能力主義の時代到来。皆が望む事が実現している。
そういう意味でゴジラは存在自体がヒーロー。天使。新時代を連れてきてくれたから。
作品の表現はエヴァ焼き直し。指揮官はミサト。
カヨコは巷で言われているほど気にならなかった。皆嫌いを説明する時に彼女を理由にし過ぎだ。そこだけかよ。もっと考えようよ。
それより尾頭が全然魅力的に見えない事に驚き。twでは人気ぽかったのに。
原因は台詞の多さだと思う。無理やり早回しさせられてるよう。
キャラはカヨコの方が立ってた。普通のスピードで話すし。
ただやはり台詞劇ドヤ感。どいつもこいつもアニメ化されてる。
実際の人間というより、アニメキャラ。
台詞を言う必要があるだけの駒に見える。正直見た後の爽快感ゼロ。
あー、そうなんだー。てかんじ。
じわっと残る、みたいなものはまったくない。
インスタント。これよりしんごじをインスタント映画と呼称する。
これがヒットする日本は、皆孤独ということが浮き彫りになる。
皆で力を合わせたい。力を合わせる事がそんなに良いことだと思ってるの?全然違うよ。一人でやれよ!
作戦の奇抜さや、あるもの何でも使う心意気で面白みが出てる。それは戦略的な面白さ。
私にとって映画は人間の厚みを重要視してる。そういう厚みは皆無、作戦だけ。
カット割り。所々テンポ良く面白いカメラアングルを挟んできていて、そのカット自体は見栄えがする。これらはアクセント。ただそれだけ。

ああ、消耗品だ。皆でゴジラガムを噛んでいる。
ゴジラはテイのいい「ガス抜き」。
庵野氏は大衆レベルに合わせた新ネタを投下できたので、皆がそれで遊べる。おもちゃを作り出した。
ゴジラの本質は水爆実験。人間が作り出してる。その本質はちゃんとあるのに、周りの人間があまりに薄くて引き立たない。
皆キャラが薄い。とってつけたような形ばかりで中身がない。ゴジラには少し中身を感じたけど。
紫の光を出してるゴジラに同情した。あのシーンは「哀しいね、ゴジラ」と思った。
一丸となった人間は怖い。敵に回せない。反対意見を表明しにくい。だから賛同以外の意見を殆ど見かけないのだろうか。
私はどんな意見も臆面なくテーブルに乗せられる世界が好き。だから書いた。あースッキリした。

散々書いたが、evaテレビシリーズ、旧劇場版ともに大好きです。
新劇はあんまり…もう作るのやめたらいいと思う。

・君の名は
面白かった。すごい絶賛とかではないけど、今までの新開作品の純粋過ぎて腹が立つ感じはなくてちゃんと感情移入できた。
意外だった。ちゃんと見られた。ただショックとか感動とか、全く引きずらない。引っかかりがない。
やっぱ、インスタント、なのかなあ。今見た先から忘れてく…。
見てる時は中々おもろいと思ってたのに。
話の構成に隙がない。テンポもバッチリで見やすい。キーワードの散りばめ方も。
役者もうまかった。
記憶削除、データ削除はバタフライエフェクトのつじつま合わせ、簡易的な代償なのかな。
黄昏時に輪郭が交わるという伏線の見事な回収。
だから味わおうとすると、色々考えられはするんだけど、なんだろうこの違和感。
咀嚼せず喉ごし良く終わる。清涼感でいうならポカリ。
超感覚を頭で考えた映画。
だから咀嚼も頭でやろうとするのかな?だから見終えたら、また見たいとは思わない。
脳の使う部分が違うのかな。
超感覚を大人にも説得するための理詰めに咀嚼できるよう仕組んだ映画。
こういう超感覚が実在するのは分かる。
子供が夢中になるのもわかる。当時小中高生は好きだろうね。
面白いけど、よく出来過ぎ、か?
構成が完全な球体なのでとっかかりが無い、みたいな。
しみじみ残る、という見た後感が、またしても無い。
消耗品なのか?一回見たからもういい、は。
読後感のないすぐ冷める魔法。よく出来た娯楽作品。

この2作以外に、ウルフオブウォールストリート と最強のふたりも見たけど、そっちは好きだと思った。「人間臭、奥行き」の対比で例に出す。
ウルフはイかれてるしムカつくんだけど、なぜか全体的に憎めない。皆生きている。リアルで欲望がありのまま、現実に側に居たら近付きたくないけど、そういう世界があるのは分かる。
金と肉欲の世界。肉欲はあんまり分からんが、金への気持ちは少しは分かる。執着する気持ちや、うまくやって儲けてるやつへの苛立ちや羨望。そういうものは地続きで、彼らへと繋がっている。
レオとスコセッシの手腕で、アドリブどんと来い、失敗OKの空気を作り出し、役者が萎縮せず尽力できる舞台を作り出した。
だからムカつく人物ばかりなのに、皆生きててそういう形もありだと思わせる。
スコセッシ監督は、対岸じゃなく地続きだというモットーで作ったそうで、その心がよく分かる。
その真実はフィルムに映ってる。
虚構なのに真実。真実は愛と同率1位の重要度だ、私の中では。
だからムカつくけど分かる、憎めない。という感想になるんだな。

人間から滲み出る、見えない欠乏や過剰な何か。人物が動く度、じゅわっと滲み出る。
自分はそれが見たくて映画を見るみたいだ。
だからどんだけ評判が良くても全然満足出来ない事も多いし、自分の目で確かめるしかない。

映画についてはまだ言いたいことがあるが一旦〆る。
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