近現代史の見直し(3)
ソ連の北海道侵攻作戦
1.竹島、尖閣、北方4島の問題に関連して、ソ連の北海道占領計画についても明確に認識しておかなければならない事に気がつく。スターリンの日本に対するトラウマは日露戦争とノモンハン事件での日本軍に対する恐怖心にあった。そのために1945年2月のヤルタ会談で米国ルーズベルト大統領からから武器を供与されながら対日参戦を躊躇っていた。
2.ソ連は1945年8月、米国の広島長崎への原爆投下を見て、初めて大軍を満州と千島、樺太になだれ込ませた。この時の命令には「全満州、内モンゴル、遼東半島(大連港、旅順を含む)、北緯38度線までの朝鮮、樺太の南半分、釧路から留萌までの線から北の北海道の半分(釧路、留萌を含む)、千島列島の全島の占領」とある。
3.日本軍には8月15日に戦闘停止命令が出されたが、ソ連の南下はそれ以降に活発となった。これは明らかに国際条約違反である。米国はマッカーサー元帥の命により、戦闘行動を中止した。その3日前の8月12日にソ連は日本の武装兵力の全面降伏を受理し、連合軍最高司令官としてのマッカーサー元帥に合意していたはずだ。
4.トルーマンはスターリンに対して、北海道への侵攻を阻止した。また、南樺太や北千島での日本軍の激しい抵抗にもあって、ソ連軍の北海道への侵攻は遅れていた。ロシア革命後の日本のシベリア出兵に対する報復を狙ったものというが、これを阻まれたスターリンが代わりに発したのが日本軍人のシベリア抑留計画だった。1945年4月にルーズベルト大統領が死去して、副大統領だったトルーマンが大統領になった。彼は前任者と違って共産主義の脅威を十分に意識していた。トルーマンの就任で日本はドイツや朝鮮と異なり分裂を免れることができた。ただし、ルーズベルトが生きていたら原爆投下はなかったかもしれない。歴史にはイフはないと言うが、イフを考える事で事態の意味が明確になるものだ。
ソ連の北海道侵攻作戦
1.竹島、尖閣、北方4島の問題に関連して、ソ連の北海道占領計画についても明確に認識しておかなければならない事に気がつく。スターリンの日本に対するトラウマは日露戦争とノモンハン事件での日本軍に対する恐怖心にあった。そのために1945年2月のヤルタ会談で米国ルーズベルト大統領からから武器を供与されながら対日参戦を躊躇っていた。
2.ソ連は1945年8月、米国の広島長崎への原爆投下を見て、初めて大軍を満州と千島、樺太になだれ込ませた。この時の命令には「全満州、内モンゴル、遼東半島(大連港、旅順を含む)、北緯38度線までの朝鮮、樺太の南半分、釧路から留萌までの線から北の北海道の半分(釧路、留萌を含む)、千島列島の全島の占領」とある。
3.日本軍には8月15日に戦闘停止命令が出されたが、ソ連の南下はそれ以降に活発となった。これは明らかに国際条約違反である。米国はマッカーサー元帥の命により、戦闘行動を中止した。その3日前の8月12日にソ連は日本の武装兵力の全面降伏を受理し、連合軍最高司令官としてのマッカーサー元帥に合意していたはずだ。
4.トルーマンはスターリンに対して、北海道への侵攻を阻止した。また、南樺太や北千島での日本軍の激しい抵抗にもあって、ソ連軍の北海道への侵攻は遅れていた。ロシア革命後の日本のシベリア出兵に対する報復を狙ったものというが、これを阻まれたスターリンが代わりに発したのが日本軍人のシベリア抑留計画だった。1945年4月にルーズベルト大統領が死去して、副大統領だったトルーマンが大統領になった。彼は前任者と違って共産主義の脅威を十分に意識していた。トルーマンの就任で日本はドイツや朝鮮と異なり分裂を免れることができた。ただし、ルーズベルトが生きていたら原爆投下はなかったかもしれない。歴史にはイフはないと言うが、イフを考える事で事態の意味が明確になるものだ。