マネーハンター 

日経225先物の展望を占うサイトでしたが、現在は為替中心。
(で、あったがなんでもありの備忘録となった。)

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2016年11月11日 08時17分35秒 | Weblog
以下引用

収入が増したり、思わぬ金が入ると、凡夫はこれを浪費する。
実はこの金は、次の生活、次の事業、次の世代のために必要があって入ってきたのである。
それゆえ、これを浪費すれば、いざその時になって必ず困って苦しむ。

金が入ると自分の力によって入ってきたと思いがちだ。
ところが人は、周囲の人や物、宇宙のすべてによって生かされているのが実状である。
それを、自分の力、自分が偉いと思う所から、我が出て、浪費する。
これが次の失敗や苦しみを生む。

物や金には、すべて、霊的な力が加わっている。
一枚のお札、一円の小銭でも、その気持ちになって使ってやれば、後で必ず報いられる。

神霊主義者は霊魂を認めるから、物質に捉われない。
この精神に守護霊が働き、中流以上の生活が保証される。
正しいお金ならいくら出してもよい。
必ずまた入ってくる。
損をしてもお客を喜ばせてよい。
別のお客からまたちゃんと入る。

今日(こんにち)の人は唯物的で、取ることばかり考えている。
これは没落への道である。
心からの奉仕をもっていれば、守護霊が働き、その働きが商法に現れ、繁栄する。

すべて霊魂の働きが、幸福も不幸もつくる。

こうしなければ食べていけない、あぁしなければ子のため老後のためにならない。
イライラして生活に統一がないから、ゆとりがない。
ゆとりがなければ、良い霊が働かない。

人は何か事をしようとする時、とかく欲がある。
まず自分の心を整えよ。
欲をもたず、世のため奉仕のため、自分の力の範囲でやる事より出発せよ。


**

中に、今の仕事が自分の使命の道か?と疑う人がいる。
これは仕事が嫌になった証拠。

そもそもこの仕事に就く時、どんな気持ちだったかを考えよ。初心を思い起こせ。

今の仕事は自分の因縁からやるようになったと考えて、その仕事に奉仕せよ。

商人なら世の人の喜ぶことを考えて奉仕せよ。
学生なら学問を身に着け、学問に奉仕せよ。
かりに乞食でも、この奉仕の気持ちを貫け。

その時、その仕事がもし使命の道だったら、ますます成果上がり、そうではなかったら、奉仕の心は守護霊に通じ、次第に使命の道へとなってゆく。

要するに、何が自分の使命か?などということに心を煩わさせることなどせずに、現在の仕事を通じ、奉仕に励め。
帰するところは自己の心身の浄化、意念の統制、これに尽きる。

**

守護霊に頼る、善意に頼る、精神統一に頼る、指導者に頼る。
こういう人は必ず、責任を他に転嫁する。
あの霊魂の仕業であると。
とどのつまりは、何でも霊媒に頼り、背負い投げをくって不幸になる。

人間は、使命を達成するに必要な能力が備わっている。
それは自分のためにあるのだから、自分で開発させる。 
この時、使命が達成できる。

自己責任の気持ちがあれば、必ず援助者が現れる。
すなわち、その心に応じて、守護霊が動く。


人の心は表面だけではダメ。
腹を立てるなと言うと、うわつらだけ、腹を立てない。
この人の心の奥を調べると、嘘つき。
背後を調べると、表面だけ上手くやっていればよいという亡霊が憑いている。

ところが、本人は、自分の心は裏も表も清いと思い込んでいる。

これではいくら除霊しても、また同じような霊が憑く。
病気も治らない。

トランプ大統領

2016年11月11日 08時13分21秒 | お金の増えるメールマガジン
トランプの名が示すように、これからは世界的にギャンブルが広く世間に浸透するだろう。

日本にもカジノができたり、金が金をよぶ最終局面、株や為替や債券などあらゆるものがギャンブル化し、今最後に暗号通貨が世の中で跳梁跋扈している。

ビットコインは金で金をつぶす最終兵器。

2万5427人が自殺し、53万5000人が自殺未遂に追い込まれる

2016年11月06日 09時24分09秒 | Weblog

http://www.bllackz.net/blackasia/content/20161026T0158470900.htmlより引用


身体の不調と共に精神的な不調が重なっていく


鬱病を誘発するのは「家庭問題」「経済生活問題」「勤務問題」が多いと言われているが、これらの問題は皮肉にもそのまま自殺の原因としても上げられるものだ。

最近、過度な残業を強いられた挙げ句に自殺に追い込まれた女性の事件が問題になっているが、例によって「自殺するくらいならなぜ会社を辞めないのか」という声が上がった。

会社を辞められずに追い込まれる理由は複合的だ。

仕事を辞めることによって、今までやってきたことがすべて無に帰してしまうことの不安。プライドの崩壊。新しいことに対応できないことの困惑。自信喪失。収入を失うことの恐怖。こうしたものが一度に襲いかかってくるのだ。

しかも、問題は1つ1つ順番にやってくるのではない。一度に同時並行でやってくる。

せっかく入った会社なのだから何とかうまくやっていきたいという気持ちもあれば、ここで辞めたら負け犬になってしまうという気持ちも普通の人は持つ。

どうしたらいいのかと追い込まれながら考えているうちに、疲れ果てて心が折れ、「死んで楽したい」という気持ちになっていく。

辞められないまま追い込まれ疲れ果てて死に至る。

思考がまとまらず、朦朧とした意識の中で「今、電車に飛び込んだら死んで楽になれるな」と思ってふらふらとホームから落ちるのだ。

若年層の自殺も深刻だが、中高年の自殺もまた無視できないものがある。

中高年の自殺は健康上の理由が多いのだが、年を取ると身体のあちこちが痛んで来るわけで、そうなったら仕事をうまくこなせなくなってしまう。そして、身体の不調と共に精神的な不調が重なって追い込まれていく。

体力も気力も新しいことを学ぶ力も減退しているのに、時代は次々と変わり、自分のやってきたことが通用しなくなっていく。それが中高年を心理的に追い込んでいく。

職種を代えてうまくやっていけるほど器用ではない


企業がOA化(コンピュータ化)したとき、管理者の多くはパソコンのキーボードを打つことすらできなかった。それでも良かった。部下に書類を作らせたからだ。

しかし、時代はさらに急激に進んでいく。企業が様々な情報をコンピュータ上で行うようになり、さらに社内ネットワーク(イントラネット)によって、意思決定、周知、分析までを行う時代になった。

仕事をしようにも、コンピュータがいじれないとまったく仕事にならない。これで、パソコンのできない管理者は、粗大ゴミのような存在になっていった。

そんな状態で仕事を辞めたら、二度と新しい仕事は見つからないかもしれない。かと言って今の状態でも満足に仕事ができない。そして、追い込まれていくのだ。

このような時代になると、多くの経済学者や大学教授がしたり顔で「衰退産業にしがみつくな」「成長産業に就職しろ」「新しい技術を覚え、資格を取れ」と簡単に言う。

しかし、人間はそれほど器用にできているとは限らない。

たとえば、経済学者という職業にしてもそうだ。もう経済学というのは信用されていない。経済学者の言うことは大半が嘘であり、彼らの予測はことごとく外れている。

そこで、「経済学者は胡散臭い経済学をやめて、成長産業の介護士になれ」と言わたとき、経済学者は「その通りだ」と明日から介護士になれるのだろうか。

いくら何でも職種が違うとか、経済学が好きなので他の職業は考えていないと思うのが自然だ。

大学教授もそうだ。「お前たちはもう信用をなくしているからリストラする。明日からコンビニの店員になれ」と言われて、すぐにコンビニの店員になれるだろうか。

無理してやればできるかもしれないが、大いにプライドが傷つき、鬱屈としたものを感じ、できれはそんなことになるのを回避したいと願って今の仕事にしがみつくはずだ。

要するに、極限にまで追い込まれない限り、そんなことはできないのである。

彼らは「衰退産業にしがみつくな」「成長産業に就職しろ」と言うが、自分にできないことを他人に「そうしろ」と言っていることに気付いていない。

中略
自殺に追い込まれる人の半数は「自殺のことで他人に相談することはない」という。自分ひとりで背負い込む。

「自殺意識調査2016(速報)」によると、自殺に追い込まれやすい人は以下のようなタイプであると書かれている。

「他人に頼ることができず、人間は理解・共感できないと思っている人」「死に対する恐怖感が低い人」「生を全うする意思が弱い人」「失業している人」「配偶者との死別・離別・別居した人」「家族と同居している人」……。

そして、この中にぽつりとこのような単語も紛れている。

「女性」……。

自殺未遂者は、男性よりも7000人近く多く、未遂回数も多いので、ハイリスクのグループに入れられているのだろう。ちなみに、自殺を思い止まった理由は、土壇場で「強く生きるべきだ」と思い直したからではない。「自殺を試みたが死にきれなかった」というのが40%を占めている。

単に、死ねなかったのだ。


以上引用終わり


死にたくなる気持ちになる人は、相談ができないのだ、これは死にたくなる人からの視点でないとわからないと思う。
「何も死ななくても」とか、「あんなことで」という人たちが多々いるが、その人から見たら「あんなこと」なのかもしれないが当人にとっては重要な問題なのだ。
ただ、他人と自分で比べたとき、起きている事実は変わらないのだが、客観的とか主観的とかはつまるところ心の問題に帰結してしまう。