きち女と啄木の距離

女啄木といわれた川場(群馬)の歌人江口きちと御本家石川啄木を、あれこれ気ままにリンクさせてみたいと思います。

啄木の嘘 きち女の嘘

2011-12-12 09:20:50 | Weblog

  あの頃はよく嘘を言ひき。 
  平気にて嘘を言ひき。
  汗が出づるかな。

                  啄木   

 たどり来ていま悔ゆるなしかにかくも正しと思ふ道は踏み得ぬ

                            きち女

どちらも終焉の年に近づいた頃、来し方を顧みて作られた歌である。啄木が平気でよく嘘をついたものだと
自己嫌悪に陥っているのに対し、きち女のほうは正しいと信じる道を歩いてきたから後悔はない、と言い切
っている。こんなところも二人は対照的である。

それでは、啄木はどんな嘘をついてきたというのだろうか。

石川啄木の歌集を愛読した人が私の周りにもけっこういる。しかし啄木の裏面史をよく知る人はいなくて、
啄木の不徳な側面をはじめて知ると、私がそうであったように誰もが吃驚仰天してしまう。歌集だけで想像
していた啄木像とのギャップがあまりに大きすぎるからだ。

冒頭に取り上げた歌の「あの頃」がいつをさすのか判らないが、ここでは啄木の人生が大きな転機を迎えた
明治三十八(1905)年、満で十九数えで二十のころに焦点を当ててみよう。「石をもて追はるるごとく」
故郷を喪失する二年前。国が日露戦争に勝利した年である。まずは年譜風に。

一月 所属する新詩社(与謝野鉄幹・晶子主宰、機関紙「明星」)の新年会に出席。

三月 父一禎が曹洞宗本山への宗費を滞納したという理由で宝徳寺住職を罷免させられ、一家で寺を退去、
という郷里からの思いがけない知らせを受け驚愕、懊悩。どうやら宗費滞納は啄木のために金を使っ
てしまったのが原因らしい。

五月 同郷の友人の援助で初めての詩集『あこがれ』刊行。文学博士上田敏の序詩、師与謝野鉄幹の跋文、
東京市長尾崎行雄への献辞。しかし、啄木の思惑ははずれ、詩集は売れなかった。盛岡で友人らが計
画しお膳立てまでしてくれた結婚式の花婿となるべく、十日前に東京を発つ。その旅費さえも友人た
   ちが用立ててくれたものだったが…。
   啄木は仙台で途中下車。結局、仙台で十日間を過ごして盛岡の結婚式をすっぽかしてしまう。式は新
   郎欠席のまま行われ、これによって啄木は多くの大切な友人を失うことになる。

六月 盛岡の借家で、父母、妻、妹との五人の生活が始まる。幼い時から三人の姉妹とは別格で両親に大切
   にされ、村の貴族とまでいわれて我が儘に生きてきた寺の一人息子の人生は一転、生活の基盤を失っ
   たまま長男として夫として家族を扶養する立場となる。詩集『あこがれ』を出して詩人として有名に
   はなっても、如何せん詩では食えない。一家の生活は借金でかろうじて成り立っていく。

さて、このあたりで五月の仙台滞在の十日間にもどって、そのときの啄木の行動をもう少し具体的にみてみ
よう。そこに啄木がついた嘘のとんでもない一例がある。
その頃、詩人でもあり英文学者でもある土井晩翠(「荒城の月」の作詞者)が仙台に居を構えていた。啄木
は自分の詩集『あこがれ』を携えて、馴染みでもないのに一回り以上も年上のこの著名人のもとを訪問。歓
待を受ける。一説には啄木の目的は借金で、二度訪問したが二度とも切り出せなかったとか。そのあと啄木
が晩翠についた嘘がひどい。病気の母が重態だと妹が知らせてきたので取り急ぎ十五円を貸してほしい旨を
書いた偽手紙を書き、ごていねいに筆跡を変えて書いた偽の「妹からの手紙」も添えて、それを旅館の番頭
に頼んで土井宅に届けたのである。たまたま晩翠が留守で、手紙を真に受けた八枝夫人が十五円をもって大
急ぎで啄木が宿泊している旅館に駆けつける。ところが夫人が目の当たりにしたのは、啄木が機嫌よく他の
二人の青年に大盤振る舞いをしている光景だった。夫人はあきれ果てたものの、とにかく十五円を差し出し
て帰宅したという。土井家の被害はそれだけでは終わらなかった。旅館から啄木の宿泊費の請求が来てそれ
も支払う羽目になったという。

これに限らず、とにかく啄木の金銭感覚はひどかったらしい。天才歌人となるまえに借金の天才、嘘の天才
だったといわれてもむべなるかな、である。

啄木に比べ江口きちのほうは、貧しくとも金銭面では潔癖で、あまり人を頼ろうとしなかった。こんな歌さ
え詠んでいる。

  人の情にすがりがたき性もちてわがたくはへにたよりゆくは悲しき

  家財競売の後いかにして生計せむ人のなさけにすがりがたき吾は

 きち女、はやくから妹のたきとともに啄木の歌のファンだったようだ。昭和七年、たきを七年の年季で東
京に奉公に出したあと作った次の追憶歌をみてもわかる。

  ひそかなるうれひをもちて啄木のうたなど書きし妹もわれも

 きち女は、啄木の負の側面を知っていたのだろうか。調べると、啄木の伝記はきち女の没年まえから世に
出ていて、私がネットショップで入手できた三冊のうち二冊は、仙台での常軌を逸した行為に触れている。
しかし母亡き後きち女が生きた八年は、家は非常に貧しく、国情が満州事変から武漢攻略へといよいよ不穏
になっていく日中十五年戦争の前半期にあたり、果たして彼女がそういった伝記を簡単に手にすることがで
きたかどうか。もっともきち女は親しい友人たちと文芸雑誌や文学書などをよく回覧したというから、ある
いは人間啄木に関する知識も多少は得ていたかもしれない。きち女がどこまで啄木の行状を知っていたかは
聞くすべはないが、ともかく彼女が死ぬまで啄木のファンであったことは確かである。
恋慕していた男性あての遺書めいた手帖のなかに、その証拠が見てとれる。次はその部分の抜粋である。
「君よ」から始まる詩のほうはきち女の作。

  頬につたふ
  なみだのごはず 
  一握の砂を示しし人を忘れず
             啄木        

  君よ 
  一握の白砂を掌にあげしことありや
  かの薄命なりし
  詩人のかなしみにふれしことありや
  砂は地にこぼれ 
  掌中の息吹を忘れず 
  永劫の祷りさゝげむ

さて今度は、きち女の嘘について触れてみたい。どちらかといえば清廉潔白、まじめ一方に見えるきち女だ
が、彼女もとんでもない嘘をついたことがあった。もちろん啄木の仙台における嘘とは質が違うけれども―。
きち女の幼いときからの親友、矢島けいが『江口きち書簡集』のなかで書いているので、そのあたりをそっ
くり引用してみよう。

  これはこの手紙の中にあることではありませんが、丁度この葉書と同じように細い字で書かれたもので
  十一年の四月頃でした。
  「今年のエイプリルフールは面白かったよ。今日私が死ぬから出て来いと云って葉書を出したら、みん
  な本気にして大さわぎよ。」
  こんな言葉がしまいの処に書かれてありました。私はきち女らしいとも思いましたが、でもあんまりひ
  どすぎる。そんなことを考えた故かそれだけ覚えてました。後にその葉書を受けたおもさんに話しまし
  たら、云ってました。「おどろいたのなんのもう夢中でとびさがって行ったのよ。そしたら家に居ない
  じゃない、さあ、もう探して、探して……ばかねエイプリルフールも全々知らなかったわけぢゃないの
  に」やっと河原の方から帰って来たように記憶してるとか云うことです。

矢島けいが、「きち女らしい」と思ったのは、きち女がよく死を口にしていたからだろうか。きち女がエイ
プリルフールをいいことにこんな嘘をついたのは、自分が本当に死んだら周りがどんな反応をするのか確か
めたかったのかもしれない。実際にこのあと三年もたたずにきち女は自殺してしまうのだから、同じ嘘でも、
哀切をきわめたなんとも寂しい嘘である。

おもさんというのは、村の温泉宿の娘のことで、きち女の同級生。境遇の違いからかきち女には遠い存在に
見えたが、いつしか互いに悩みをうちあけあう間柄に。この人もきち女からもらった手紙をよく残している。
その中に、こんな言葉を見つけることができた。

  もとちゃん、強く正しく生きてゆくことにつとめようね。正しい人は寂くとも静かにゐられるのよ。こ
  んな寂しがりやの私が、若し、毎日堪え難い良心の呵責に逢ふようになったら、考へるだけでおそろし
  い。私はどうなってしまふでせう。

きち女十八歳の時の言葉である。なにやらきち女は、あとで自己嫌悪に陥るような啄木の行状を早くから知
っていて、そこのところは反面教師、他山の石にしていたのではないだろうかとさえ思えてくる。

  何となく、 
  自分を嘘のかたまりの如く思ひて、
  目をばつぶれる            啄木  

  ははそはよなげかすなかれその子らの血は絶ゆるとも清く生き来し                                                                                            
                                きち女
                   

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