きち女と啄木の距離

女啄木といわれた川場(群馬)の歌人江口きちと御本家石川啄木を、あれこれ気ままにリンクさせてみたいと思います。

母の肖像  ②啄木の母カツ

2011-01-01 20:12:05 | Weblog



  あたたかき飯を子に盛り古飯に湯をかけたまふ母の白髪       啄木


  啄木の母カツの写真は一点も公開されていない。

 カツは啄木二十七年の生涯に多大な影響与えた女性で、啄木の二大親友の一人、金田一京助などは、煎じ詰めたところをこういいきっている。

「あの啄木を生んだのももちろんおかあさんですが、また、その啄木を生涯浮かび上がることのできない貧困に踏み落としたのも、やはりそのおかあさんだったのです。中略。ああいう苦労をしたからこそ、あれだけの、今日日本の隅々に至るまで多くの人々が多大の感銘を持って読む、あの体験、あの傑作を残せたので、したがって、それらをつくったのもそのおかあさんなのです」

 啄木はもちろんのこと父や姉・妹の写真が公開されているだけに、肝心な母の写真が1点も無いというのは、さびしくものたりないことだ。それゆえ、妹光子が『悲しき兄 啄木』のなかで書いている次のくだりは、見過ごせない。

「自分で写真機を工夫して、一生懸命に造りあげ、それで母と私を写してくれたことがあります。私が多分十二歳ぐらゐの時ではなかつたかと思ひます。あの写真こそどうなりましたでせう。勿論完全な写真ではなく、ぼんやりしたものでしたが、母の面影を偲ぶにはこよないものでしたし、兄の手で工夫された機械でとつたものですのに」

 啄木は光子より二つ年上だから、彼が十四、五のころの話だ。岩手の盛岡中学在学中で、休暇で渋民村に帰省していたときらしい。その写真が存在すれば、私たちは五十代半ばの啄木の母の顔を知ることになる。

 しかし、カメラがまだまだ一般の人には珍しかった明治三十年代に、しかもそんな年端の少年に、いったいどれほどの光学器械が手造りできたのだろうか。盛岡の石川啄木記念館の方にたずねてみると、形も仕組みもどんなものであったか、まったくが見当かつないという。

 ちなみに、その明治三十年代に、群馬の前橋にもカメラに興味を持った、啄木と同い年の少年がいた。その名は、後に啄木の影響も受けたといわれる、大詩人、萩原朔太郎。彼の持っていたカメラは市販のもので、「軽便写真器」といわれたものらしい。アマチュア向けとはいえ、ガラス乾板を使用する本格的なものだった。最初の作品といわれる「萩原病院病室新築工事」など、画面の六分の一ほどに小さくおさまった複数の人物の表情までがかなり判別できる。

 啄木が手造りのカメラで撮ったという写真は、もとよりそれと比較にはならないが、 もしいま発見されたとして、果たしてそこにカツと判別できる影が残っているかどうか。江口きちの母娘の写真よりさらに20年以上も遡るのだ。もともと不完全でぼんやりしていた写真だというから、いよいよあやしくなってくる。

 それでも啄木の研究家やファンの多くが、いつかどこからかその現物が発見されないだろうか、と垂涎しつづけている。それは、どこか幻のツチノコ探しに似ているような気がしないでもない。見たという人が一人でもいるかぎり、人々の夢はついえないのだ。啄木の妹光子が書き残した一言が、はからずも啄木を愛する人々にひとつのロマンを与えつづけている。

 では、カツの顔をイメージしようとするとき、基準になる写真がないかといえば、否である。
カツと啄木の親子は、顔がよく似ていたと証言する啄木の友人がいるのだ。また写真を並べて見ればわかるが、啄木の長女京子はどこか父親似である。つまり、カツの孫娘も彼女に似ているということになる。
啄木と京子をたして二で割ったような顔を、カツの時々の年齢相応にイメージすれば、当らずと雖も遠からず、というところではないだろうか。

岩城之徳の『石川啄木伝』のなかに、

「啄木の母は若いときは温和な性質で綺麗な女性であった」

という伝聞が記述されている。啄木の妻との確執などから、どちらかといえば気が強くて意地悪な老女とイメージされがちなカツをおもうと、この一行は爽快だ。生前の啄木が読んだら、どんなにか喜んだことだろう。彼はカツ四十歳のときの子で母の若いときの顔を知らない。東京で電車に乗り合わせた見知らぬ若い母親の顔を見てさえ、こんな夢想をするほどだ。

「その顔の形が、予の老いたる母の若かった頃は多分こんなだったろうと思われるほど鼻、頬、眼………顔一体が似ていた」
                             『ローマ字日記』より


付記
カツの生まれたのは弘化四年(1847)。その翌年に御用商人が銀板写真機を輸入している。日本人が写した初めての日本人とされる島津斉彬の写真が登場するのは、それからだいぶ経ってからのことである。ちなみに、カツの生まれた前年には皇女和宮が生まれている。カツは、ついには最後の賊軍とまでいわれた南部藩の下級武士の娘として、人生の最初の三分の一を幕末に生きた人だった。



次回の予定は、啄木ときち女の歌碑についてです。


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