きち女と啄木の距離

女啄木といわれた川場(群馬)の歌人江口きちと御本家石川啄木を、あれこれ気ままにリンクさせてみたいと思います。

啄木の死顔 きち女の死顔

2011-01-19 04:06:07 | Weblog

  呼吸すれば、
  胸の中にて鳴る音あり
   凩よりもさびしきその音!

  眼閉づれど、
  心にうかぶ何もなし。
  さびしくも、また、眼をあけるかな。 
 啄木

  睡たらひて夜は明けにけりうつそみに聴きをさめなる雀鳴き初む   

 大いなるこの寂けさや天地の時刻あやまたず夜は明けにけり 
                             きち女

 啄木ときち女の最後の作品を並べてみた。二人の死の覚悟の違いを見比べることができないだろうか。

  啄木の二首は、いわゆる辞世の歌ではない。「さびしき」「さびしくも」という語が使われていて、どちらからも満たされない気持ちや心細さがつたわってくる。病が重くなってきてもう死を覚悟はしているものの、なおあきらめきれない生への執着がひっそり潜んでいるような、そんな気がしてならない。

 一方、 きち女の二首は、自死した部屋の炬燵のうえに遺されていた紛れもない辞世の歌。「聴きをさめなる」「時刻あやまたず」という語句からも、ゆるぎない覚悟がみてとれる。

 啄木はもっと生きたかったけれども、病気に負けて死に、きち女はもっと生きられたのに、自ら命を絶ってしまった。そこのところを、少し詳しくみてみよう。

 啄木は結局は病死だったが、自殺を考えたことが何度もあった。

   いくたびか死なむとしては
   死なざりし
   わが來しかたのをかしく悲し
    啄木

 たとえば、ある朝、なんとか明るい気分になりたいと思っていた啄木のもとに、友人から葉書が来る。質に入れてある貸した時計を返してほしいという催促。いわれた日限まであと数日しかない。よけい暗い気持ちになってしまって、次のように落ち込んでしまう。

 ああ! けさほど予の心に 死という問題が 直接に迫ったことがなかった。きょう社に行こうか行くまいか……いや いや それよりもまず 死のうか死ぬまいか?……そうだこの部屋ではいけない。行こう どこかへ行こう……  
                          ローマ字日記より

  それで啄木はいったいどこへ行ったかというと、先日行っていい気持ちになった湯屋。やがて、湯から出ようか出まいか考えているうちに、そのことのほうが主になっていつのまにか死のうか死ぬまいかという心理状態ではなくなっている。そして日記はこうつづく。

水をかぶって あがったとき 予の心は よほど軽かった

 なんだ、啄木の死の逡巡とはこの程度のものだったのか、と思ったら間違いだ。きち女の自殺願望が、拭っても拭いきれない”血の呪詛”に裏打ちされていたので揺れることはあっても消えることがなかったのに対し、啄木のそれは、ある意味一過性である。しかし、その都度、深刻ではあったのだ。

 啄木は、明治四十年五月(二十二歳)、「石をもて追はるるごとく」故郷渋民を出てから北海道に渡る。仕事を得て離散した家族を呼び寄せたかとおもうと、事情ができて一人他所へ移住、一年弱の間に、函館、札幌、小樽、釧路と漂泊している。その間、収入があっても、半独身者のような放恣なところがあったので、家族を常に困窮させていた。

 しかし、啄木の心にあるのはつねに文学であり、家族に対する責任だった。

 明治四十一年春、母と妻子を北海道の親友・宮崎郁雨に託し(父は青森)、小説に賭けようと一人上京する。が、書くものはことごとく失敗、金がないので家族を呼ぼうにも呼べない。自分は同郷の親友・金田一京助に助けられながら、文学を捨てるか、家族を養う責任から解放されるか、いやそのどちらもできない、と日々懊悩する。自殺を考えるのは、それが行き詰ったときだ。実際に電車に飛び込もうとしたこともある。
 単身上京してから一年後の明治四十二年三月、ようやく、東京朝日新聞の校正係として定職に就く啄木だが、六月に宮崎郁雨に付き添われて家族が上京してくるまでの間にも、

ああ!みんなが死んでくれるか 予が死ぬか。ふたつにひとつだ! どこからも金の入りようがない。そして来月は家族が来る……予はいま底にいる――底!ここで死ぬか ここからあがって行くか。ふたつにひとつだ。

  こんな風に死にたいという感情に幾たびも襲われている。
  そんなときの啄木にしてみれば、質草にした時計を返してほしいと日限までいわれて催促されることは、追い討ち以外のなにものでもなかったのだろう。

  立ち直り、夢をもち、生きようとする啄木が、本当に深刻に考えなければならなかったのは、自身の体のことだった。

  そんならば生命が欲しくないのかと、
  医者に言はれて、
  だまりし心!  
      

  啄木の母カツは、渋民を出てから死ぬまで、夫一禎のあとではなく、溺愛した一人息子・一(啄木)のあとを追い続ける。 啄木はカツが娘時代に肺結核を患っていたことを聞いていながら、また彼女が喀血するのを見ていながら、同居の危険に気づかなかった。自身の体調が悪くなってもまだ軽く考えているくらいだから、妻の節子がすでに感染していることにも、なかなか気づいてやれない。ついには、病人だらけの家になって家主に立ち退きを迫られ引っ越すのだが、それでも家族は、一緒だった。啄木一家に限らず、肺結核にたいする当時の認識は、民間ではその程度だったのだろうか。死の病と薬代さえままならない貧困、かててくわえて母と妻の不和、啄木の晩節は悲惨としか言いようのない状態におかれていたのだった。
 明治四十五年に先ずカツが没し、その一ヶ月後にあとを追うように啄木が没し、そしてその翌年の大正二年(この年、きち女生まれる)に妻の節子が没している。

 金田一京助が、

あの啄木を生んだのももちろんおかあさんですが、また、その啄木を生涯浮かび上がることのできない貧困に踏み落としたのも、やはりそのおかあさんだったのです。中略。ああいう苦労をしたからこそ、あれだけの、今日日本の隅々に至るまで多くの人々が多大の感銘を持って読む、あの体験、あの傑作を残せたので、したがって、それらをつくったのもそのおかあさんなのです。

とかなり圧縮していっているが、その意味はわかる。

 きち女は自殺だった。啄木とは反対に生きようとさえすればもっと長く生きられた身体だった。死の二十日前の日記を開いてみよう。

昭和十三年十一月十二日 曇
営業者の健康診断で白沢小学校へ行く、中略、診査は簡単、異常なし。

 胃痛とか歯痛とか、そんなのはよくあったようだが、彼女は元来健康体だったのだ。それから、その健康体を見込まれてかどうか、もうすこしのところで自殺をやめて生の方向へ向きそうになった出来事も見落とせない。なんとそれは死の一週間前であった。日記はまだ書かれていたから、その記録がある。

十一月二十五日 薄曇り 午後は雪ちらつく
生方たつゑさんから、東京の恩師のお宅へ女中にとの手紙を受ける。折も折、思ひがけないことゝて天意か、とも思はれ、夕方なお子さんに相談にゆくやら、近所の人たちにはかるやら、大へん心がうごいた。結局とりやめる、食欲なし。たきから手紙がくる。

 生方たつゑは三重から沼田に嫁いで来た、きち女より十ほど年上の人で、文芸的な関係でわずかながら面識があったようだ。生方が日本の代表的歌人のひとりと目されるようになる前のことである。生方の恩師というのは、著名な歌人今井邦子のこと。今井は、きち女の師・河井酔茗の早くからの門下生で、その半生は波風の多い人だったから、きち女など案外気に入られ、あるいはお手伝いさんというより短歌の世界を広げてもらえる書生のような処遇が受けられたかもしれない。

  きち女がこの話を、心が揺れながら結局は断ってしまった理由のひとつは、プライドだったのではないだろうか。彼女を精神的貴族という人がいるが、そうかもしれない。他人の下で気をつかいながら働くことへの厭い…、彼女なら考えられなくもない。
  ”流れ者で博打うち”だった父・熊吉を異常なまでに憎んだのも、煎じ詰めれば、繊細な若い娘にありがちな精神的貴族のプライドがそうさせたのかもしれない。

  逐はれては死なじと思ふ女子の驕りをもちて死に臨み来し                                                          

 そうだ、忘れてはいけない。きち女には、面倒を見てやらなければならない知的障害をもつ兄がいたのだ。たとえ今井邦子のところの条件がよかったとしても、当てにはできない老父にこの兄を任せて自分ひとり出て行くわけにはいかない。

  いひさとす言葉に涙ぐむわれをおそるるらしもかなしき兄は

  これの生にいのちを受けしかなしさよ兄の若さのやゝすぎむとす

  啄木同様、きち女もまた家族というしがらみから逃れられない宿命を負っていたのである。自分が死んだあとのことまで心配して、生命保険にはいっているほどだった。

  うかららに先立ち死なむ日もあらめ生きのいのちに保険つけてし

 
彼女は兄を道連れしてに逝ったので、この保険は、あんなにも憎んだ父のために役立ったということになる。

 啄木ときち女の死に方の違い、冒頭に掲げた二人の最後の歌にみた覚悟の違いは、そのまま二人の死顔にも違いとなってあらわれた。                

 
若山牧水は、啄木の最期に居合わせたただ一人の友人だが、「石川啄木の臨終」の中で、こう書いている。

 私は永く彼の顔を見てゐられなかった。 よく安らかに眠れるといふ風なことをいふが、彼の死顔はそんなでなかった。

  きち女の親友のひとり・小林なを子は、「江口さんの死の前後」という手記に、きち女の死顔をこんな風に書いている。

  生けるが如きその顔は白い枕の上にきちんと眠ってゐた。おちついた心で対することができた。取り乱したあとは何処にも見られなかった。閉じた眼もすぐ開きさうに、唇もちやんと結んで、どうしても息が通つてゐさうであつた。

 

○付記

啄木の歌集『一握の砂』と『悲しき玩具』はともに三行書きですが、表記の仕方に少し違いがあります。『悲しき玩具』は三行の頭がそろっていていますが、『悲しき玩具』のほうは、そろっていたりいなかったりいろいろです。それに、『悲しき玩具』では、句読点、感嘆符、ダッシュなどの記号が、散文のように使われています。『一握の砂』ではまったく使われていません。

※次は啄木の妹ときち女の妹を予定しています。

ジャンル:
ウェブログ
この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« きち女と雀 啄木と雀 | トップ | 江口きちと相寄る魂 »

Weblog」カテゴリの最新記事

関連するみんなの記事