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軽井沢学園を応援する会 会報 ストリートパズル11号より

こんなに泣けるお話が身近にある・・・軽井沢学園のみなさんには本当に頭がさがります!
私にできる応援の仕方でして行きたいと思います

‐園の庭をはきながら‐
天まで届け

たかねっち☆
 10年位前の話です。
社会的養護の制度やしくみ、施設で暮らすこどもの心理や養育方法など、正しく理解出来ていない半人前の私が当時経験し、10数年経った今も、そして、これからもずっと忘れることのない出来事です・・・
当時、私は伸太郎(仮名)という男子児童の担当指導員でした。母子家庭で育った彼は、6歳の時に母親の事情によってこの軽井沢学園へ入所して来ました。「シン」の愛称で可愛がられる彼は、私が就職するずっと前からここで暮らしており、小さなうちは担当の女性保育士が大事に育て、彼が中学3年生になる頃、私にバトンタッチされます。私は彼の高校受験、進学、就職、そして社会自立するまでの4年間を微力ながら支えてきました。
シンは、勉強が得意ではなかったのですが、真面目な授業態度や3年間続けた野球などが評価されて、彼の学力では難しいとされていた第一志望の高校へ合格することが出来ました。高校入学後も毎日学校へ通い資格も取得しながら、多感な十代後半を大きくつまずくことなく過ごします。
施設生活においても、下校後道草せずにまっすぐ帰って来てはゴロゴロとテレビを観ていることも多かったのですが、時には幼児のお世話を手伝ったり、施設生活を改善するため、他のこども達に呼びかけて自治会(こども会)を開催するなどして皆から慕われる存在でした。そんな彼でしたので担当者の私も鼻高々でした。
しかし、この歳で毎日まっすぐ家に帰ってくる事が本当に健康な高校生と言えるのだろうか?休日は友達と遊んだり、時にはハメを外して大人に叱られるくらいが普通なんじゃないか?私はそんな心配も少なからず持っており「シンさあ、休みの日くらい友達と遊びに行ったりすればいいじゃん!」と、投げ掛けるも「ん~?めんどくせえからいいや」と、あっさり返されるだけでした。
そんな、“施設っ子”のシンも高校3年の2学期を迎え、いよいよ就職活動解禁です。母親がいるとはいえ、家に帰ることは未だ困難な状況であったため、彼の場合は一般家庭の高校生と違い、住む場所とセットで考えなければなりませんでした。そのため、高校の先生と相談して、住み込みまたは社宅完備の企業からの求人を複数紹介してもらい、その中から北佐久郡内にある金属部品製造会社を受験することに決めました。成績優秀とはお世辞にも言えない彼でしたが、やはりここでも真面目さが買われ、クラスで最も早く内定を頂くことが出来ました。
そして、シンは高校卒業と同時に“ここ”を退所します。
とにかく真面目な彼の事だからきっとうまくやれるに違いない。そう信じて送り出したのですが、何かと経験不足の施設育ち。半年くらいは色々と手や口を出しながら、彼の自立を応援しました。余談ですが、その当時は今と違い自動車免許取得費用の補助など到底得られなかったため、私は就職後に原付バイクの免許取得を薦めて、中古バイクも手配しました。
このように、少しずつ手を放しながら彼の自立を願っていた私たちでしたが、退所後数か月が経ち、あることに気付きます。
「そういえば、シンっていつも来てるよね?」
保育士が言います。そうです、シンは週末のたびここへ遊びに来るのです。それも、原付バイクで山や川を越え、片道一時間以上もかけて。もちろん仕事はちゃんと続いているし、少しずつ仕事も覚え始め真面目に働いていると職場上司からも聞いていました。
また、シンは在園中に仲良しだった保育士へ頻繁に電話も掛けて来るそうで、30分位の長電話はざらとのこと。「学園っていつも誰かがいたでしょ。でも、一人暮らしじゃ話し相手もいないし、時間の使い方がわからない。とにかく淋しくて、淋しくてここに遊びに来るんだ」そう言っていたと、その保育士から教えてもらいました。
退所したこどもが「あ~あ、やっと窮屈な施設生活から解放された~~」なんて思えるのは、ほんの数日で、後から次々と淋しさが襲って来るなどという現実は、当時の私には想像もつきませんでした。
そして私はある日、シンに言いました。「シンさあ、来るのは別に構わないんだけど、原チャリで来るの大変そうだし、早く向こうで友達とか彼女とか作りなよ・・・」
それは、裏を返せば、もうここへは来るな。という風にも聞こえる発言だったかもしれません。シンが私からサッと視線を逸らしたことを覚えています。そして、決して忘れることの出来ない、その時がやってきます。
ある日の晩、家で寝ていると宿直の職員から一本の電話がありました。内容は、先程、軽井沢警察署から学園へ電話が入り、シンが交通事故に遭って佐久市内の病院へ救急搬送された。警察は、本人の携帯の通話履歴に軽井沢学園があったため連絡してきた。という衝撃的なものでした。私は一気に目が覚めました。
夜中の3時のことでした。手が震え、声も震えながら、私はシンの職場上司の自宅へ連絡し、必死に動揺を抑えながら急いでシンの運ばれた病院へ向かうと、シンは集中治療室にいました。静まり返った部屋の中で、意識不明のシンの体に取り付けられた医療機器の電子音だけが一定のリズムで無情に鳴り響きます。
しばらくしてシンの職場上司と合流し、ICUの外で待機していた警察官から事故の状況を聞きました。シンは中学時代の友人と3人で車に乗って遊んでいたようで、その時シンは助手席に乗っていた。そして、スピードの出し過ぎによってカーブを曲がり切れず電柱に激突したとのこと。後部座席にいた友人は別の病院へ運ばれ、泥酔状態で運転していた友人は即死状態だったと聞かされました。
また、断片的にしか覚えていませんが、医師の所見は「頭を強打したことによる脳挫傷、脳内出血により脳幹がかなり圧迫されている状態で手の施しようがない、恐らく意識が戻ることなく、あと2~3日の命でしょう」といった内容の話でした。私は言葉を失いました。

「最近、学園にめっきり来なくなったと思ってたけど、向こうで新たな人間関係が出来た訳じゃなく、やっぱり軽井沢に来てたのか。夜遊びするようなこどもじゃなかったのに何故そんな時間に、しかも飲酒までして。もしかしてホントは学園に来たかったのに、自分があんな事を言ったせいで、来づらくさせていたんじゃないか。今日だって学園で飯でも食って明るいうちに帰ってさえいれば、こんな事にならずに済んだのではないか」などと様々な想いを巡らせました。
事故から3日後の晩、シンの親族から電話が入りました。結局、意識が戻ることなくシンは息を引き取ったのです。事務室で受話器を置いた私は一人で泣きました。すると、それを察したこどもたちが次々と事務室へ集まってきて、更にみんなで泣きました。
葬儀の日、シンを乗せた車は火葬場へ行く前、親族のはからいによって軽井沢学園に立ち寄ってくれました。これが本当に最後のお別れです。私は「これを棺の中に入れてください」と言って一枚の写真を親族に渡しました。それは、運動会の時にこどもと職員全員で撮った集合写真です。シンは施設対抗リレーでアンカーを務め、見事入賞しました。その時もらった大きなトロフィーをシンは空に向かって高く振り上げて、自信に満ちた顔でニッコリと笑っていました。
私は写真の裏にサインペンで「シン、ずっと一緒だからな!!」と書きました・・・
この悲しい出来事によって決して忘れてはならないことは、飲酒運転の愚かさや交通事故の恐ろしさ、命の儚さ...それと退所児童の気持ちです。在園中は、うぜえだの何だのと悪態ついてみても、ここで長く暮らすこども程、いざ退所してしまえば、そこは懐かしく想いを馳せる場所となります。「いつでも帰っておいで」そんな温かい言葉が自然と掛けられるような職員になりたい。当時、私はそのように思いました・・・

あれから10数年が経ちました。
今年の春もまた高校を卒業した6人のこどもがここを巣立っていきました。育ちも境遇も全く違うこどもたちが一時的とはいえ縁あってこの軽井沢学園で共に暮らし、再び進学、就職とそれぞれが違う道を歩み始めたのです。10代で独り立ちするには厳し過ぎる世の中、挫折を繰り返しそれでも明るくたくましく生きて欲しい。そう願うと同時に、これから先、何かにつまずいたり、困ったりした時にふと「そうだ、学園に行ってみよう!」なんて思ってもらえたら、天国のシンも笑ってくれるかな?
この原稿を書きながらそんなことを思った私は、スマホでない時代遅れの携帯をポケットから取り出し、消すことのできないメールの受信履歴を久しぶりに見返しました。

伸太郎:『高根先生、今週の土曜日また学園行ってもいいですか(^O^)??』


おわり
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