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何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい

2016年12月14日 | 説教
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」 望月 修


 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイ六・三一ー三三)


 「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」
 「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。・・・今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」
 このように語って来られた主イエスが、「だから」と言われて、冒頭の言葉を告げています。
 私たちの「命」や「体」は、神から与えられています。神は、空の鳥、野の花や草以上に、この私たちを顧み養ってくださるのです。 ところが、私たちと言えば、「命」や「体」を自分たちの力で少しでも長らえさせ保とうとしています。そのために、たくさんの物を持とうとしてみたり、地上に「富」を築こうとしています。
 しかし、私たちは、神と富との両方に仕えることができるようには造られていません。世の富や神ならぬものを、神のようにして、かえって、それらに縛られた不自由な生活をしていないでしょうか。
 「命」と「体」が与えられているのは、ただ長らえさせ保つためではありません。神から託されている使命があるのです。その使命を果たすことができるように、神の顧みと格別な配慮があります。それを無視して、「命」や「体」をただ長らえさせ保とうとするから、思い悩むのです。「信仰の薄い者たちよ」(三〇)と主イエスが指摘なさっている通りです。
 そこで、改めて(二五節で既に語られていた)、主イエスはお命じになるのです。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ」と。
 「異邦人」とは、信仰のない者を言うのです。神の顧みと格別な配慮があることを信じていませんので、これらのことをめぐって「切に」つまり<特別に>求めるのです。それに対して、神を父と仰ぐ信仰者は、「食べ物」や「衣服」のことで思い悩むことをやめ、「命」と「体」が何のために与えられているかを考えようとします。そして、与えられている「命」と「体」とを、神の栄光のために用いようとし始めるのです。
 私たちは、神は愛である、神は私たちを救ってくださる、ということを信じています。しかし、それと同じくらい、神は私たちに必要なものが何であるかをよく知っておられる、と信じているでしょうか。それどころか、私たちは、この地上で生きて行くうえで、本当は何がどう必要なのか、よく分かっていないのではないでしょうか。他の人と比べて、世間並みのことを考えて、それが必要だと思っているだけに過ぎない場合もあります。愚かな見通しや計算をやめて、私たちの父なる神は私たちに必要なものをすべて知っておられる、と信じることの方がどれだけ確実であるかです。
 そこで、主イエスは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と仰せになるのであります。「何よりもまず」とは、<ほかのことはどうでもよい、ただこれだけ>ということです。「神の国」は、主イエスのいちばん伝えたいことでした。神の支配が、ご自分において、到来し実現しているからであります。そこでは、「神の義」が貫かれています。私たちの理想や努力ではありません。神が、御子によって、私たちを救うことにあります。
 それなら、「神の国と神の義を求める」とは、神の御子イエス・キリストの十字架と復活による救いだけを求めたらよい。あとのことは、神に任せておきなさい、ということです。自分と自分の生活領域のすべてを、神の支配のもとに、何よりも神の御子による救いそのものである十字架と復活の恵みのもとに、置くことであります。