◆寄稿 衛藤 利彦
大分が大空襲を受けたのは、20年7月17日未明、0時15分から1時間40分の間のことでした。
この空襲で、大分市の中心部は壊滅状態になりました。その夜、私は勤務はなく自宅にいました。夜が明けるのを待って、家を飛び出しました。郵便局電信課には機械もあるし、通信社には持ち出さなくてはならない無線機もあったからです。
家を出て、大道の4丁目辺りまで来たのですがそこから先は一面火の . . . 本文を読む
◆寄稿 衛藤 利彦
私は熊本逓信講習所を卒業して北九州の八幡郵便局電信課に配属されました。その後、大分郵便局電信課(のちの電電公社大分電報局)に転勤。昭和18年3月、太平洋戦争が始まってから約1年3ヵ月ほど経過したときでした。日本が中国、南方の各地で輝かしい戦果を収めていたころと思います。
職場の大分郵便局は、木造の2階建で、その2階部分の電信課は、西側の旧電車通りと南側の道路に面していたと記 . . . 本文を読む
◆寄稿者 伊藤國芳
前編では私の戦時中における空襲体験を書きましたが、なぜ重大な警報の伝達が電報局、郵便局からだったのか。
当時の情報交換は、電報・電話・手紙などで無線通信は発達途上で一般には使用されていなかった。
電話については皆さんもご存知のように通話には、普通・至急・特急の3種類あり普通電話ですと朝申し込んでも夕方でなければ接続されなかったり、また話し中の回線を非常だからといって交換手が . . . 本文を読む
「戦争と通信~前知符号」前編
◆寄稿者 伊藤國芳
私は昭和17年15歳で山部特定郵便局に就職し、内勤事務員として、郵便の発着係を担当した。その後、企業内学校である北海道逓信講習所のことを知り受験。富良野で13人の受験者のうち2人が合格、幸い入学することができ、昭和19年7月札幌逓信講習所旭川分室に入学。翌昭和20年3月卒業し、富良野郵便局に赴任、電報係として毎日山部から富良野まで汽車通で働いた . . . 本文を読む