4.幕末動乱時の私営電信架設のうごき
慶応3年12月9日、王政復古の大号令が発布され、国政は幕府から明治新政権へ移された。
このころになると、すでに電信が近代国家にとって必要欠くことのできない利器であることは、知識人のだれもがみとめるところであった。しかし、騒然とした当時の国情では電信創業への道をひらくことは、ほとんど手がつけられない状況であった。
ちなみに当時の激動ぶりをみると、慶応4年( . . . 本文を読む
3.幕府における電信建設のうごき
列国から電信機があいつぎ渡来する情勢のなか、幕府においても電信の研究に積極的な姿勢をとっていたといってもよい。
万延元年(1860)1月22日、幕府は公式遣米使節団77名をアメリカ軍艦ポーハタン号にのせて横浜港を出港させた。このとき、軍艦操練所教授方頭取の勝海舟の願いによって、ポーハタン号の護衛として幕府の軍艦”咸臨丸”が同行することなった。咸臨丸には艦長勝海 . . . 本文を読む
1.ペリー幕府に電信機献上
アメリカの遣日特派大使ペリーが、鎖国日本に開国和親を求め、軍艦4隻をひきいて浦賀に来航し、幕末の日本を震撼させたのは、嘉永6年(1853)6月3日のことである。
だが浦賀港沖に10日間停泊したペリー艦隊はアメリカ大統領フィルモアの国書を浦賀奉行に手渡し日本を去って行った。この艦隊が浦賀出港の前日、奉行所から艦隊を訪問したとき、ペリー艦隊は奉行所に対し「来春もう一 . . . 本文を読む
1.電信事業の創業
わが国の公衆電報取扱いは、明治2年(1869)9月19日に東京横浜間の電信線建設工事が着工したときをもって始まった。なお、9月19日は、太陽歴では10月23日にあたり、この日を電信電話記念日と制定していることは、すでに周知のとおりである。
この電信線建設工事は、横浜傳信機役所(明治2年9月19日、わが国最初の傳信機役所)の地を起点として、神奈川から東海道を東京に向かって進め . . . 本文を読む
◆9月2日~9月30日
あくる2日、避難した紅葉館の林中にて夜を明かした翌日、応急手段を策定し、臨時事務の分掌(通信現業、庶務、伝令、兵站、警衛、衛生等の8部)と部長、副部長を決め、陣容を整えた。3日には、復旧計画の実施に関し、具体方法の協議を完了。麻布飯倉の中電女子吏員宿舎を臨時本部兼避難所に充て、今後中電のとるべき方針を発表した。同時に寝る家のなくなった者、食事のできない局員を収容した。4日 . . . 本文を読む
93年前の9月1日、関東大震災が発生(マグニチュード推定9.7)。南関東から東海地域に及ぶ広範な地域に甚大な被害をもたらした。この未曽有の大震災は、東京を阿鼻叫喚の巷と化し、わが国、電信事業の中軸だった東京中央電信局の局舎と通信回線を灰燼に帰した。
今回は、東京中央電報局沿革史に記録された大震災発生から1カ月間の先輩たちの苦闘の跡をたどってみます。 . . . 本文を読む
ポツダム宣言受諾を打電(2/2)
~終戦決定時の東京中央電報局
20年7月26日、ついに米・英・華3か国は、日本に対して無条件降伏を勧告するポツダム宣言を発表した。
ポツダム宣言は、日本の主権、武装解除、戦争犯罪人の処罰などの条件をあげ、最後に無条件降伏か壊滅か、次のように即時決定を迫った。
「吾等は日本国政府が直に全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、且右行動に於ける同政府の誠意に付適当且 . . . 本文を読む
わが国は、昭和20年8月10日にボツダム宣言の受諾を決定、8月15日、やっと終戦の日を迎えた。国の困難なこの時期、電信事業の中枢的存在だった東京中央電信局の電信マンは、どのように過したのだろうか。当時の緊迫した様子を下記の記録により紹介します。
出典;続東京中央電報局沿革史 (編集東京中央電報局 昭和45年発行)
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「書き残したこと」
モールス通信は1837年、アメリカの画家サミュエル・モースによって発明された。わたしはこれまで、この発明時の通信機は有線による音響式のものと思い込んでいたのだが、この思いでを書くうちに画家であった彼が、あの音響を聞き分ける能力を持っていたとは思えなくなってきた。
調べてみると、はやりモースの発明した「モールス機」は、<モールス符号を現字紙上に印出させて通信する電信機械>(広 . . . 本文を読む
「モールス通信の神様はいた」
昭和30年の夏の終り、2年8ヵ月従事したモールス通信の仕事から離れることになった。大分を出発する日まであとわずかという時、ある同僚が真剣な顔をして教えてくれた。
「電信の名人のなかには、1分間150字近い速さの通信ができるモールス通信の神様のような人がいる。」
「そのようなスピードは、人間の能力では無理ではないか」とわたしは同僚に言い、その話が本当のことか確かめる . . . 本文を読む
「モールス通信に従事して」
熊本学園入学直後のモールスノイローゼともいえる症状から抜けだしてからの学園生活は、楽しいものだった。ただ入学後1、2カ月の間には、わずかだったが退学者がいた。モールス通信に適性がなく退学させられた、という噂がまことしやかにささやかれた。そのような噂は、あの郵便局で受けたトラウマをまだ完全には克服していなかったわたしをいたく緊張させた。
別棟の校舎への行き帰りに前を通 . . . 本文を読む
「早すぎたモールス通信との出会い」
郷里のわが家のすぐ近くに町の郵便局があった。その前を通りかかると、たいてい正面入口の左隣の部屋からトンカラトンカラとリズミカルな音が聞こえた。いつの頃からか、その音は電報を送る機械からでている音という程度のことは知っていたのだが、それ以上のことは知らなかった。
その正体を知ったのは、熊本電気通信学園へ一緒に合格したK君と、誰かの計らいで郵便局を見学させてもらっ . . . 本文を読む
「去る者日に疎し」
先日、東京駅から歩いて10分ほどのNTT大手町ビルにある逓信総合博物館(ていぱーく)に立ち寄った。その日が平日の昼下がりだったせいか、なかに人影はなく、がらんとしていた。
博物館は25年8月閉館【後記】3参照
久しぶりに展示室の一角に並べられた古武士然としたモールス音響通信機を眺めたり、無線通信機の前にある電鍵を触ったりした。そのうち、目の前に掲 . . . 本文を読む