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「出島の集い」その2 松本商事

2011年07月31日 00時35分16秒 | 子供のころの思い出風景


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「出島の集い」その2 松本商事

オランダ屋敷のお隣さんは漬物店の松本商事・松本勇治さんの倉庫でした。

参加されたのはお孫さんの松本憲明さんと、 当時の事をよく知っている憲明さんの叔父の
宮田さんと一緒にいらっしゃいました。 松本勇治お爺さんの出島話をして下さいました。

「1950年(昭和25年)始まった朝鮮戦争で地金で儲けた西野商店が戦後に傾いたんです。
そこで、農林中金から松本の爺様に話しのあって、吉田染料に100坪。松本に100坪。
買うてくれんか?と。・・多分、爺様は昭和32年ごろ買ったんです。」と話されました。



「それから・・・松本の爺様は、お酒が大好きで、闇酒も作ったんです。出島でも一斗がめに
作ってて・・腕が達者だったんで、味噌、漬物、佃煮の製造元で扱っていたんです。」と。

「その酒の美味しゅうて、よく呼ばれて出島で飲んどったんですよ。爺様が亡くなってその酒は
床ン下に半分は残ってたけど、ぜ〜んぶ、酢になっとった。 そん酒が美味しくですね!! 」と。

「 あの味は覚えています。飲みながらこの川で鰻バ釣いよったとです。それから、日野さんの
爺さんの時にしょっちゅう出かけて飲みに行ってました。」と。

面白い話が出ました。  わぁ!! こんな出島の面白い話や鰻が釣れたなんて!!
それに、宮田さんのお孫さんは、前にわらべうたを手伝ってくれた大学生だった。世間は狭い!!

宮田さんは、松本商事から昭和36年に独立。同じ漬物業で刻み唐人菜の「うまかばい」などを
作られて今は、息子さんに㈱ミヤタを譲られてるそうです。

また宮田さんにお話して頂きましょう。 次回の9月4日が楽しみです。






Tagged: food, ひと, 店, 昭和20年代, 昭和30年代, 長崎出島オランダ商館 · 月曜日, 7月 25, 2011 · コメントは受け付けていません。


「第一回 出島の集い」その1 2011年7月24日

長崎の出島オランダ商館跡地、最後の住民だった方々が集まって下さいました。

1951年は私が生まれた年で公有化開始年。2001年に50年かかって全て公有化完了です。
2011年は開始から60年経ち・・・7月24日に元出島住民の「第一回 出島集い」です。

それぞれ、個別に公有化に応じられたので、バラバラになって一同に集まるのは久しぶり。
出島の旧長崎内外倶楽部のレストランで8名の方が集まられました。



ぽろぽろ、懐かしい出島オランダ商館跡地での生活ぶり、こぼれ話がでてきましたよ。
皆さんの思い出話と・・ランチを食べながらの交流会を月1回しましょう!!と。

この60年で出島復元整備も少しずつ進み、出島公式HPのいろんなイベントも楽しみです。
これから、皆さんの面白い出島こぼれ話と復元話も伝えていきますね。






Tagged: ひと, イベント, 昭和20年代, 昭和30年代, 長崎出島オランダ商館 · 日曜日, 7月 24, 2011 · コメントは受け付けていません。


少女クラブ・1923年創刊「夾竹桃の・・」

長崎では昭和30年代、子どもが行くような図書館はありませんでした。

その当時は、リヤカーで古着や雑貨と一緒に古本も売っていたんです。
母に本を買ってもらって題名を覚えているのは「夾竹桃の花咲けば」でした。

その本はもう手元にはなく、県立図書館に行ったらわかるかもと行ってみました。
すると、蔵書庫から探してもらった本は、すごく古いんです。びっくり!!



古いはずです。佐藤愛子が母の時代だから、そのお父さんの佐藤紅緑の本ですもの。
記憶ではカラーの表紙だったような?・・少女クラブの昭和5年7月号〜昭和6年6月号。

多分、母が若い時に読んだ本を娘に!と買ってくれたのでしょうね。
どんなストーリーか覚えていないんですが、でも・・・嬉しかったのは確かです。

ちなみに、今でも母は佐藤愛子の本の大ファンです。






Tagged: ひと, 昭和30年代, 本 · 金曜日, 7月 22, 2011 · コメントは受け付けていません。


鯨の日野浩二さん

先日、長崎のクジラ(鯨)商の日野浩二さんに会うことが叶いました。

日野さんは、鯨の第一人者でNHK「知る楽」日本くじら物語 2009年8月18日放送の
”第3回 鯨食文化の灯は消えず”に出ていらっしゃる方でした。

私とは、昭和30年〜長崎の出島商館跡地に住んでらしたのでご近所だった事になります。
当時、私は小学生だったので出島といってもなかなか接点がなかったのかも知れず、、、
日野さんと親しい海江田さんに教えて頂いたのです。



昭和36頃にオランダ屋敷と呼ばれていた時に陶製の大門の前で妹とった写真をお見せしたら
その門は戦後、県庁の裏手にゴロンと横たわっていたそうです。 びっくり!!

昔から出島にあったと思ってて、、ものごごろついた頃は堂々と大門になっていましたが。
移動したのだったら、「オランダ屋敷を復元」の西日本新聞/昭和30年の記事で昭和27年に
基礎調査が 始まったので・・・その頃でしょうか。

新聞に写っている片手に書類を持っている父の姿が懐かしいです。



日野さんには、出島のことの他に、カラスミの話など教えていただいて面白かったです。
最近のカラスミは輸入もので、乾燥機なので天日でゆっくり干して発酵させたカラスミとは
ぜんぜん味が違う・・・などのお話も聴かせて下さいました。

長崎文献社から「鯨と生きる」日野浩二の人生という本も出版されています。
貴重な本も頂きお話も聴けて本当に良かったです。  ありがとうございました。

また、いろんなお話をもっともっと、、、お聴きしに行きたいです。






Tagged: food, ひと, 昭和30年代, 長崎, 長崎出島オランダ商館, 面白い建物/場所 · 木曜日, 6月 2, 2011 · コメントは受け付けていません。


「さらやしきのおきく」落語紙芝居

先日、”みさかえ”で「さらやしきのおきく」という紙芝居を即興音楽つきでしました。

おきくの幽霊が皿を一ま〜い、二ま〜い、と数えていくのですが、、、そこは、落語です。
最後に落ちがあって笑えるんですよ。

桂文我とう落語家が「番長皿屋敷」を子どもや大人も楽しめる”おおわらい落語劇場”として
脚本にしたものです。 全部で6巻ありました。



”みさかえ”のみなさんに面白いって言われるのは、語りだけではない即興音楽や効果音の
生ライブにジ〜ッと見入ってしまうらしいのです。
紙芝居は静止絵ながら、生の人の声や音楽があるのと無いのでは違うのですね。

紙芝居は、私も面白いのでまた誰かにやってあげたいなぁ!って思ってしまうんです。
どうして、こんなに紙芝居が好きだったのかと自分でも不思議に思うのですが、、、、

思いかえせば、、、、先日も、母のところで「長崎おもいで散歩」を見ていた時です。
母は本の表紙の女の子を指さし「この女の子はあんたね?」って言うんです。  



同じぐらいの年、格好ですが、私ではないんです。、、、、でも何度も聞かれます。
昭和30年後半の紙芝居風景は「そう、そうの通りだったよね!!」と膝をピシリ、ピシリと
相づちを打つ感が私にあるんですよ。

幼い時の刷り込みは面白いものですね。
だから、紙芝居を見るのも、語るのも、即興音楽も好きなのですね。

誰かぁ、、「紙芝居」を観たい、聴きたい人、手をあげて!!って呼び掛けたいなぁ。








Tagged: 昭和30年代, 紙芝居, 長崎 · 金曜日, 2月 25, 2011 · コメントは受け付けていません。


母と。

母は、戌(いぬ)年でもう今年で89歳になります。

2年前まではバリバリと運転もするスーパーおばあちゃんでしたが、病気入院をした後
寄る年波には勝てず、、、今は、住宅型有料老人ホームに居ます。

その母にクリスタルの雛人形を持って行きました。手作りの桃カステラも。
赤い箱に酒袋製コースター、ぼんぼりは木製お雛セットの。後ろの屏風は贈答の中敷ですよ。
これで、部屋が明るくなりました。



母と話すのは昔のことが多く、今日は持っていった”長崎おもいで散歩”の長久橋付近の
写真をジーッと。

「うちの、最初ん車はこの車んごたっコロナやったねぇ」と。
「そうやった!ここのヒゲ爺タネ店でよう買いよったと、何のタネでんあったとよ!」など。



写真をよく見れば、築町の御座船が回っている横の電柱に海江田病院の看板が。
そうそう、当時の海江田病院の若奥様に会いに行った話などアレコレに花が咲きました。

出島のオランダ屋敷に暮らして居た昔話などが芋づる式にぺちゃくちゃ、、、と。






Tagged: 昭和30年代, 美しい物, 長崎, 面白い建物/場所 · 日曜日, 2月 13, 2011 · コメントは受け付けていません。


長崎出島5番地。 海江田病院

昭和30年頃、幼い私たち妹弟は長崎出島19番地に住んでいました。

直ぐ近くの長崎出島5番地は、耳鼻科の 海江田病院 だったのです。

先日、その病院の奥様だった海江田百合子さんに会いにいきました。
今は出島史跡整備のため出島をでられましたが、その頃の様子を懐かしくお話
して下さいました。



百合子さんが海江田家に嫁がれたのが昭和28年だったそうです。
やはり、海江田さんのルーツは薩摩の伊集院。士族の海江田信義のご一族でした。

先々代、海江田純氏は大正11年に長崎大学医学部(元長崎医専)を卒業されて
昭和6年に長崎出島5番地で開業されたそうです。

出島5番地は、幕末から明治にかけて長崎に住んでいたフランス人貿易商ピニャテル家の
自宅と会社があったそうです。
そのピニャテルの洋館を引き継がれたのが海江田氏とわかったのでした!!



ヴィクトール・ピニャテルは大正11年に亡くなり坂本町の長崎国際墓地に。
トーマス・B・グラバーと一緒の坂本町の地に眠っています。

海江田百合子さんには、出島のご近所の方々に加え、千馬町、おくんち、薩摩などのお話が
たくさん、たくさん、、、懐かしくて。お世話になりました。

やっと、出島5番地の転遷が幕末まで遡れてうれしいです!!

わが国鉱山労働衛生の歴史的変遷―

2011年07月31日 00時28分47秒 | 老鉱山医の回顧録
老鉱山医の回顧録

―わが国鉱山労働衛生の歴史的変遷―

はじめに

半世紀近い歴史を有する日本鉱業協会鉱山医学研究会は、わが国鉱山の相次ぐ閉鎖の煽りを受け、20世紀とともにその歴史を閉じなければならないことになった。全く感無量である。私は医師になってから現在で48年を経過したが、これは鉱山医学研究会の歴史とほぼ同じであり、私の医師としての生涯も、鉱山医学研究会のそれと同じ経過と運命をたどってきたような気がしている。
私が今まで医師としてかかわった分野は、地域医療の立場からみるとプライマリーケアが中心であったと言ってもよい。また、もし医療を疾病治療と疾病予防とに分けるとしたら、私の生涯は後者であり精力の大半は疾病予防とプライマリーケアの連続であった。今でこそ産業医局の医師の地位はかなり高く認められる時代になり、企業の労働衛生管理体系のなかでも産業医という独立した地位が与えられるようになったが、昭和中期から後期にかけての鉱山勤務医は、産業医局という限定した職場での臨床医であり、副業?として「医師である衛生管理者」という馴染みの薄い仕事が与えられていた。また、企業における従業員の疾病構造が結核全盛時代から成人病へと変遷したため、集団健診による早期発見、早期治療の時代から成人病等の予防医学の重要性が叫ばれる時代を迎えたが、この時代の鉱山は未だに職業性疾患の予防対策の問題が山積しており、その対策に専念しなければならない時代であった。

今にして思えば昭和37年から昭和48年にかけて、私が広島県の山村で開業医生活を送った10年余の鉱山勤務のブランクは、この疾病構造の転換期であっが、開業医生活で経験したコミュニティヘルスの経験を、再度鉱山という違ったコミュニティで実践普及したいという私の強い願望も、元の古巣に帰ってみると、当時急激に問題化していた振動障害対策が私を待ち受けていた。
しかし、私がライフワークとして取り組んできたプライマリーケアの思想は、時間的に多少のズレはあったものの、やがて時代の要請を受けて私の会社もその管理体制のなかにうまく受け止めてくれたように思う。今ではどの企業においても新しい時代の息吹が感じられるのは私にとっては何よりの喜びである。たとえ伝統のある鉱山医学研究会が解散しても三井、三菱、住友、日立、、各社の産業医の連携は、日本鉱業協会が存続する限り、灯をともしつづけなければならない。

1.鉱山医局時代(昭和28年―昭和36年)

新米の医師として住友金属鉱山(株)佐々連鉱業所診療所へ赴任
昭和28年8月私は広島大学第二内科W教授より愛媛県の住友金属鉱山(株)佐々連鉱業所へ赴任しないかと打診された。医師免許取得後3年目、生活を支えながら内科の勉強を続けたいと願っていた私は、臨床医としては未熟者で自信はなかったものの喜んで受諾した。というのは前任者のT先生から住友という会社は医学研究に大変理解があり、現地での管理医学や衛生学の研究の種はいくらでもあると聞いていたからである。内科医でありながら恩師の影響で予防医学に関心があった私は、企業の産業医局の仕事は将来のためになると思ったからである。
当時広島大学の医学部長は外科K教授であった。K教授はかって台北帝大医学部付属病院長時代に付属病院の拡張改築を計画し、金融の面で知り合った住友銀行の支店長と親交があり大の住友贔屓の先生であった。「浮利を追わず人の和を重んじる会社」であると外科学の講義中にも世間話の中で何回か聞かされていた。昭和26年に当時の佐々連鉱業所副所長が大学を訪問した時、医師派遣の懇請を受け、大学としては異例の措置としてK教授とW教授の教室から若い医師をそれぞれ一人づつが派遣することにしたのである。二人の医師は正式の社員として採用され、給料は一般社員並であっても、それぞれ交代で2ケ月毎に2週間大学の教室に出張させてもらって医学の研修をする。勤務地でも医学研究のための実験その他に会社として便宜を図ると言う条件で、医師派遣が認められたのであった。
伊予三島市(当時は愛媛県宇摩郡金砂町小川山)の佐々連鉱山は当時「陸の孤島」と呼ばれ、一般社会とは全く隔離された世界であった。今でこそ製紙業の町伊予三島市の中心から車でわずか30-40分であるが、当時はいまだ法皇トンネルも開通しておらず、一日に一回会社のジープが川之江―上分経由の道を片道2時間かけて往復していた。しかし一般社員は特別の用務以外はそのジープすら利用できず、休日等で伊予三島市内に買い物に出かけるときは、もっぱら四国山脈の翠波峠を徒歩で片道約3時間かけて超えなければならなかったのである。
昭和28年8月下旬のある日の早朝、広島を出発した私は同日夜伊予三島市のM旅館に一泊、翌朝会社ジープの出迎えを受け、一人の紳士と一緒に川之江経由で佐々連鉱山に向かった。途中金砂湖で会社所有のボートに乗り遊覧、鉱山についたのは日もとっぷり暮れた午後8時頃であった。峡谷に並んだ社宅の灯がとても綺麗で人里離れた鉱山とは思えないほど全山が美しく輝いていたのを覚えている。後で聞いて分かったことであるが、ご一緒した紳士は野球拳で有名な歌人の前田伍軒先生であった。山男ばかりと考えていた鉱山にも文化の匂いをちょっぴり感じた次第である。

●O先生信者の多い佐々連鉱山の医局

 外科O先生は1年先輩(現広島市O病院院長)で、既に1年前から診療所長として活躍していた。先生が大学から赴任する前までには足のゆびの骨折や虫垂炎の手術でも、片道3時間の翠波峠を数人がかりで患者を担架に乗せて伊予三島の外科病院へ担送することが通例であった。それがO先生の赴任以来殆どの手術は鉱山診療所で可能となった。設備は伊予三島の県病院なみに完備し、手術が一人で困難な場合は伊予三島の市内から外科や婦人科医と契約して応援体制も整備されていた。私が赴任した当時はO先生の評判は大変なもので、脊椎骨折の手術で良くなった社員が、O先生の名前を書いた札を神棚に祭り、毎日手をあわせているという噂が鉱山中に広がり評判であった。中には内科受診の患者さんも外科のO先生を指名する人もいたほどで、全山はO先生信者で満ち溢れていた。
●坑内での応急措置と医師と社員の信頼関係
O先生は大学衛生学教室にも在籍し、先生の研究テーマは「坑内外傷の考察」で、私とT薬剤師は協同研究者として参加した。当時の坑内外傷は坑内作業の機械化も不十分で重労働や手作業が多く、それぞれの単位作業はRMRで分類されていた。また坑内外傷は削岩作業、運搬作業、支柱作業、鉱石の大割作業等によるものや、浮石の落下、落盤等による上下肢、頭部、顔面、眼部の外傷が多く、外科診療は労災外傷や業務上の腰痛等がかなりの比重を占めていた。O先生が2週間の間、大学に勉強に帰っている留守中に坑内事故があるとそれこそ大変で、私も赴任直後に坑内夫が一度に3名も浮石の落盤事故で下肢の複雑骨折をしたとき、外科経験の全くない私には大変なことであったが、ベテランの婦長は落ち着いたもので、狭くて暗くしかも急勾配の坑道を私よりずっと早く走り降り、てきぱきと処置をするのにはびっくりした。
しかし何度かこのような事故に遭遇すると何とか小外科の仕事もこなせるようになり、これは私にとって後の田舎での開業医生活に大きく役立ったように思う。

昭和の20年代は今から考えると坑内環境はかなり劣悪であったし、広島大学からO先生が赴任するまでは坑内は女人禁制で当然看護婦の入坑も禁止されていた。おそらくはこの当時は国内の鉱山はどこでもそうであったに違いない。でもO先生はその掟?を破り、坑内事故発生時には看護婦を連れて入坑し、坑内休憩室での応急措置や点滴注射を行うことが通例であった。この医師の行為は次第に至極当たり前の措置として坑内夫にも認識されるようになり,山男達と鉱山医や医療スタフとの連帯と信頼の人間関係は次第に育っていった。
またその当時から家庭の奥さん達を招待した会社主催の坑内見学も実施されるようになり、社員の連帯感と人間関係は益々強化され、坑内作業態様と作業環境への改善対策は一般社員の関心を引くようになっていった。

●感染症の多い内科外来
昭和20年代から30年代初めにかけての鉱山医局の内科診療は、肺結核や腸管の感染症が大部分であった。W教授は呼吸器の専門で肺結核の治療特に当時注目されていた気腹療法では、わが国でもトップの臨床例を持っていた。鉱山労働者にも肺結核の病人がかなり多く、この気腹療法は診療所でも早速採用された。また新居浜市の県立結核療養所と特別な契約を結び、有所見者に対しては長期継続的な対策を実施した。また鉱山出身者の子弟を看護婦として同療養所で養成する等、結核対策は鉱山にとって福祉の面でもまた労務対策の面でも重要な課題であった。
また当時は赤痢や乳幼児の疫痢が毎年のように発症していたのも今から考えると嘘のような事実である。また、鉱山付属の小学校の検便では約6割の児童に寄生虫の保卵者が見つかったのもその当時である。(同じ時期に私が広島の郷里で行った小学校児童の検便でも同様であった)従って職場健康管理の第一の目標は感染症に対する早期発見と早期治療であり、集団検診に全精力を注ぐことが要請されていたのである。

鉱山内科医にとってもうひとつの問題は、けい肺およびけい肺結核への対応であった。当時鉱山の社員は約800名であったが、けい肺所見ありと診断された者の数は49名であったと記憶している。このうち症度4の労災認定者は4名であり、内3名はけい肺結核であった。当時鉱山診療所は15床の入院ベットを有していたが、社員家族を含めたった二千数百人の人口にかかわらずベットはいつも満床であった。虫垂炎の手術患者数も年間20-30例位であったと記憶している。当時の労働者の疾病構造は現在とは全く違った様相を呈していたのである。

●地域医療への奉仕活動
赴任間もない昭和28年冬、佐々連地区の民家から往診依頼があった。当時の佐々連鉱山は金砂地区にあり、佐々連地区には旧鉱山の坑口があり、20名ばかりの社員の社宅と一般民家数軒がある佐々連鉱山発祥の地である。付近の地理がまだまったく分かっていない私は「ひとつ山を越えてすぐの所です」という民家からの迎えの人の言葉を気易く受けて往診することにした。山には雪が1尺くらい積もっている。道というには名ばかりの山道を何度か滑って転びながら、2時間以上歩けども歩けどもなかなか患家にたどり着かなかったことを覚えている。
鉱山の近くに住みながら医療以外では鉱山からの恩恵は殆ど受けていなかったあの地区の人たちは今どうしているのであろうか。迂回路を通れば川之江まで約30km,今でこそ車で通行可能であるが当時は自家用車を持つ者は稀有であった。従って佐々連診療所は無医地区の金砂、富郷地区住民の地域医療の中心的な役割を担っていたのである。
当時いくら急患重症な患者でも社員以外の人であれば、会社所有のジープは往診に使用させて貰えなかった私は、無医地区における医師としての使命感、それと企業の勤務医としての義務感との間にジレンマを感じることがしばしばであった。
今でこそ企業の地域との連帯は社会的責任の一つに数えられているが、当時20歳代後半の私には企業の社会的責任とは何ぞやという一定の見識もなく、辺地の地域医療にはしばしば戸惑いを感じていたことも事実である。

三島地区の病院から帰る途中で急にぺニシリンショックを起こした金砂村村長のKさん、森永ミルク中毒と診断された某さん、片道1時間の道を看護婦と一緒に必死で走って往診したのも今では懐かしい思い出である。また7つもあった金砂、富郷地区の無邪気な小学校中学校の児童生徒の諸君、今では壮・老年の域に達しているであろうが私にとっては懐かしい限りである。

●けい肺の臨床的研究
O先生の研究が一段落したのと殆ど同時に佐々連鉱山を訪れたW教授からけい肺を研究のテーマとして取り組むように指示された。呼吸器専門の母校の内科教室も、それまでけい肺に関する報告例は殆どなく、国内でもじん肺患者の呼吸機能や循環機能に対する疫学的な報告例はあまり見当たらなかった。
当時の鉱山長はじめ会社幹部の人たちは医学研究には深い理解があり、研究のための出費も快く聞いてくれた。副論文作成のため必要であった病理組織作成のためのミクロトームは大学の教室でさえ予算がなく、垂涎の的の器具であったがそれを買ってもらった時の感激はまた一入であった。また動物実験でやぎを2-3頭飼育出来たことなどは今でも忘れ得ない懐かしい思い出である。
たった一人での学位論文への取り組み、それは苦痛というより櫂のない舟をあやつるようなものであった。教授から貰った最初の研究のヒントは、けい肺有所見者の静脈圧であったが、当時は静脈圧の測定の器具もなく、腰椎穿刺器具で代用することにした。しかし測定のデータの解析では、比較疫学的に健常者との有意差を見出すことは不可能であった。結局けい肺に関する研究は①坑内作業環境・作業態様、②循環機能、③呼吸機能等の調査結果を、教授と教室の先輩達のアドバイスを受けながらなんとかまとめることが出来たが、この陰には鉱山長はじめ鉱山現場の関係者各位のバックアップがなければ達成出来なかったものと今でも感謝している次第である。

●地域医療への貢献
またもうひとつの収穫は鉱山と地域との連携がかなりうまく行くようになり、社員以外の村落よりの患者が次第に増えていったことも私にとってはうれしかった。診療所は内科、外科以外にも歯科,産婦人科が増設され患者数も増えていった。わずか3000人の鉱山社宅でも子供の出産数は多く、嘱託の助産婦も診療所に常駐していた。K医学部長の次男のK先生が大学婦人科医局から1年間出向してくれたことなど忘れ得ないうれしい思い出である。後になって気づいたことであるが、S鉱山における最初の9年間の勤務で得た収穫は、実地の臨床面では大病院勤務に比べてこれという収穫はなかったけれども、医師としての人生観にはかなりの収穫があったように思っている。

2.地域医療時代(昭和37年―昭和48年―山村での開業)
●故郷広島県北の山村での開業医生活
 この時代の10年間は鉱山とは無関係であるが、当時の山村の地域医療状況を記録しておくことにする。
昭和36年に、生まれ故郷のK医師ががんにかかって急逝した。故郷の町はK医師の急逝により医療機関は私の実兄一人になり、K医師の守備範囲は無医地区になるということで故郷からはしきりに故郷に帰って開業するよう懇願されていた。散々迷った挙句、幸い同窓のH君が佐々連診療所に赴任して私の後をついでくれることになったのでついに開業の決意を固めた。
当時の国民の疾病構造は急激に変化しており、成人病が茶の間の話題になる時代であった。結核全盛時代は終わりを告げ、当時の武見日本医師会長は疾病予防を目的とした地域医療の構想を当時ようやく大衆化してきたテレビを通じて放映し、多くの医師会員もこれに賛同し始めた頃である。
恩師のW教授も内科学の教授でありながら、地域医療に絶大な関心を抱き、行政とタイアップして広島県内3ケ所に成人病予防のモデル地区を作り、行政、県医師会、大学が三位一体となって地域医療への取り組みをはじめたばかりであった。W教授は率先して、県内をくまなく講演して地域医療体制の重要性について行政に働きかけていた。数年後3ケ所のモデル地区はやがて県内くまなく広がって県全体を覆うようになった。

つい先日までは集団検診、早期発見、早期治療が叫ばれていたため、予防活動は具体策がなく効果がなかなか眼に見えてこないものであったが、その当時から30年以上経過した現在、先覚者W教授の啓蒙運動の一つ一つは今でも懐かしい思い出となって私の脳裏に焼きついている。成人病予防の契機づくりの話題には「酒」「たばこ」「塩」の3つ、それに「心配事」「過労」「栄養不足」等の話題を取り上げた。幸い故郷の保健所長は同窓の友人であり、地域の予防活動には保健婦を派遣してくれた。集談会に出席したり、婦人会の集会にも積極的に参加した。食塩の袋を携帯して保健婦と一緒に無医地区の農家を一軒づつ回って年間の食塩摂取量を調べて歩いたこと等は今にして思えば忘れ得ない懐かしい思い出である。開業の傍ら成人病の予防活動をすることはなかなか困難であった。ついこの間まで早期発見早期治療という言葉が金科玉条のごとく叫ばれつづけていたために、開業医がいくら疾病予防を叫んでも山村ではその重要性について正しい理解を得ることはなかなか困難であった。しかし、W教授がはるばる広島から数十キロもはなれた田舎まで地域集談会に出席してくれたり、県や町当局の行政面でのバックアップのお陰で、成人病予防の重要性は次第に理解されていった。開業当時1年間に脳卒中の発作で倒れ意識障害を起こした患者は私が診断した患者だけでも48名、そのうち卒中発作の時点で医師の治療継続中の者はわずか20名たらずであり、その他の患者は卒中発作後に治療を開始したものであったことが当時の記録として残っている。しかし年とともにその比率は低下していった。第2次予防という概念は山村の老人達にもやがて理解されてくるようになったのである。

3.鉱山労働衛生の近代化(昭和48年以降)

●再び佐々連鉱山へ
昭和40年代に入り佐々連診療所は再び医師不足に悩んでいた。というのは私の後任のH君は、鉱山が不況で婦人科も外科も閉鎖し、内科勤務医が一人になったため大学医局との交流がうまくゆかず、わずか2年で退職して大学に帰り、その後は大学医局からの医師派遣は中断されたままになっていた。
当時の勤務医で臨床を志す医師は開業を前提にした準備期間での勤務か、もしそうでないとしたら大病院で自分の専門の腕を磨くためが殆どであったから、四国山脈の真っ只中の鉱山僻地では医師の確保は至難のことであった。

佐々連鉱山からの依頼は、再度広島大学からの派遣を要請したいからその仲介の労をとって欲しいとのことであったが、この時代には大学医局からの派遣は無理であった。
たまたま私の田舎では地元出身のもう一人の若い内科医が開業することになった。その上私の持病である糖尿病の増悪や、子供の進学の問題等が重なったこともあって、私は昔馴染の鉱山幹部のたっての願いを断ることが出来ず、遂に昔の懐かしい鉱山医生活に復帰することを決心したにのである。それは昭和48年の8月であった。

10年前と大きく変っていたこと、それは法皇トンネルの開通で伊予三島市からの交通の便がよくなったことであった。その他、坑内環境も以前よりかなりよくなり、死亡事故等もゼロを継続して安全成績は国内鉱山でも優秀な成績をおさめていた。しかし一方では坑内坑道が次第に深くなり坑口から数百メートルの地下まで掘り進むため坑内気温も高くなり、時には熱中症を訴える労働者もみられるようになっていた。従って会社や労働組合は10年前よりはるかに労働衛生に関心を寄せるようになっていたものの、広島の山村でやっていた成人病予防活動よりも更にプライオリティの高い対策として「じん肺」「振動障害」「難聴」等の職業性疾患の発症防止が先決問題であった。

労働安全衛生法の改正は昭和47年であったが、赴任の年はその翌年であり、私自身も10年間のブランクのため、まず最初に勉強し直さなければならないのは、労働安全衛生法であった。またこの法律に付随して各種有害作業の規則が改正されていた。
坑内夫たちは毎月1回、出坑時に安全教育を職場長から受けるのが定例であったが、鉱山長はこの安全教育の機会を利用して労働衛生教育を組み入れてくれた。こういう努力の積み重ねにより、次第に社員の労働衛生への認識は育てられていった。それまでは社員の健康管理はどちらかというと厚生福利としてみなされていたものが、この頃から安全と同様に企業の社会的責任であると同時に労働者の守るべき義務であるという考えが次第に定着していったように思う。
熱中症予防のために坑内各所に発汗量測定の参考として体重計を設置したり、鉄棒にぶら下がって振動障害発症を防止するといった妙案?が労働者の間から提言されるようになったのはその頃であった。

有害作業の内振動業務に係る健康管理は私にとっては未知の分野であった。かっての鉱山医局時代に白蝋現象を訴える患者を診察した記憶は私には全くなかったし、広島の山村で開業していた当時、たまたま林業労務者に白蝋現象を訴える労働者を診察した経験があるものの治療をした経験は全くなかった。削岩機等の振動工具は、削岩作業の能率化と身体負荷の軽減というプラス面での効果があるとばかり信じていた私にとって、一部の研究者が唱える振動病(全身病)の学説は晴天の霹靂にもたとえられる大きなショックであった。しかし色々と文献等を調べているうちに、振動障害の実態はまだすべて解明されていないこと、実態解明のためにはまだまだ現場での継続的な実態調査が必要だと感じたのであった。振動障害の実態調査はまずアンケート調査からはじめた。白蝋現象を自訴するものは意外に少なかったが皆無ではなかった。これは坑内環境の温度が他の鉱山に比し高かったためかも知れない。然し海抜500メートルの寒冷地では、冬季の出勤退勤時には白蝋を訴えるものが散見されるようになっていたのも事実である。しかし、寒さのため手が白くなるだけで白蝋現象だと訴える労働者もおり、その現認だけでも単なるアンケートだけでは不十分であった。

確か昭和51年だったと記憶しているが私は佐々連鉱山から4名の「振動工具使用に起因する肘関節障害」の病名で労災認定申請を監督署に提出した。当時は業務上の障害か否かの診断の根拠になる認定基準はまだ示されていなかったし、治療の実績がなければ労災認定を受けられず、認定の通知を受け取るまで半年以上を要したと記憶している。
それにもまして私を困却させたものは、この人たちの殆どが労災認定を受けて治療をすることにかなりの抵抗を示したことであった。それは労災治療を受けると削岩夫の仕事が出来なくなり、その為に給料が減ることに対する生活上の不安からと、もうひとつは削岩のプロとして長年働いてきた自尊心を失いたくなかったためではないだろうか。

予想外の出来事はまだ他にもあった。好況とばかり思っていた鉱山業界も私の再度の赴任からわずか1年後には不況の波が押し寄せ、その上佐々連鉱山は鉱石の枯渇から遂に閉山の運命をたどらざるを得なかったのである。

3.住友グループの専属産業医へ
佐々連鉱山閉山に伴い私の運命は再度一変した。新居浜市にある別子事業所への異動である。佐々連鉱山閉山を機に再び開業医に立ち返るか、別子での勤務医を継続するかの岐路にたったが、私はあえて後者を選んだ。かっての「医師である衛生管理者」の時代は終わり、「専属産業医」という新しい分野の仕事が待ち構えているような気がしたからである。会社の名前こそ金属鉱山であるが、別子事業所のその頃の業務の内容は全く違っていた。住友グループ発祥の源流である別子銅山は、私が赴任する前年に既に閉山しており、市内五ケ所の工場は、非鉄金属製錬、精製、電子部品製造、テレビフレーム等の新しい分野での多角経営に乗り出していた。別子銅山の元坑内夫達は銅製錬その他の工場に配置転換されていた。また、鉛、有機溶剤、特定化学物質、電離、VDT等の労働衛生分野は、今まで私は殆ど勉強していない分野であり、この方面に対する勉強にもかなりの時間を割かなければならなかった。佐々連から別子に来る直前に受験した労働衛生コンサルタントの資格試験で、試験官からこれらの特定業務について質問され、まともな解答が出来なかった恥ずかしい思い出が私を叱咤激励したのであった。

赴任後まず最初に取り組んだのは特殊健診の事後措置及びその対策であったが、振動、難聴、じん肺等の健診で健康管理区分B(じん肺では1/0)があまりにも多く、適正配置や配置転換の労務管理にもかなり気を使わなければならなかったのを今でも覚えている。
社員の健康管理の対象は病人ではなく健康な作業者であり、産業医の業務も労働衛生の三管理と管理体制、衛生教育の五つの要素にインテグレートされて初めてその目的を達成できる。また、私が新居浜へ赴任する直前に発生した振動障害訴訟や国内各地で起きたじん肺訴訟等の事件は、企業と産業医のあり方についてその責任の所在を問われたものであったが、謙虚に受け止めなければならないと思った次第である。

●情報化時代の産業医活動―将来への展望―
やがて別子へ赴任して10年経過し、昭和の年代が平成へと移り変わった頃には、別子の労働衛生もかなり改善されたように思う。会社の業務の内容からみると、他の業種に比べまだまだ特定作業(有害業務)が多く、社員の大多数が特定作業に従事しているのが現状ではあるものの、その有所見者は以前より激減しゼロに近づいてきたのはうれしいことであった。そして今、別子へ赴任以来丁度20年を迎えた。新居浜での生活は私の故郷での生活の期間を上回ってしまった。最近の疾病構造に眼を向けると職業性疾患ではじん肺の有所見率は全国平均を大きく下回り、振動障害等の業務上疾病は発症ゼロを継続し、各種特定作業の健診結果では、管理Cは勿論管理B区分の有所見者も最近はゼロである。化学物質等の長期微量暴露による職業性疾患に対してはまだまだ油断出来ないけれども、現在は全員が管理Aである。従って最近の10年間は職業性疾患以外の生活習慣病やメンタルヘルスに取り組むことが出来たのは何よりの喜びである。
また、昨年は会社独自の健診システムも一応完成し作動するようになった。生活習慣病等への保健指導も入社以来のパソコンのデータ画面を見ながら一人一人の個人特性にあった具体的な生活指導をすることが可能になった。とはいうものの、企業を支える健康資源の維持確保という大局の見地から考えると、このシステムは更にハイレベルに向かって充実させ向上させなければならないであろう。

どこの企業でも軽度の有所見を入れるとその有所見率が全体の過半数を超えている現在、健診情報の疫学的な検討とその具体的対策は、単に臨床面だけのものではなく、疫学や統計学までも組み込んだプロスペクテイブなものにしなければならない。即ち今企業は大競争時代を迎え、人的資源をいかに維持し開発してゆくかを真剣に考えなければならない時代を迎えているといえよう。

(平成13年3月専属産業医退任に当って


「出島の集い」その2 松本商事

2011年07月31日 00時24分05秒 | 子供のころの生活


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「出島の集い」その2 松本商事

オランダ屋敷のお隣さんは漬物店の松本商事・松本勇治さんの倉庫でした。

参加されたのはお孫さんの松本憲明さんと、 当時の事をよく知っている憲明さんの叔父の
宮田さんと一緒にいらっしゃいました。 松本勇治お爺さんの出島話をして下さいました。

「1950年(昭和25年)始まった朝鮮戦争で地金で儲けた西野商店が戦後に傾いたんです。
そこで、農林中金から松本の爺様に話しのあって、吉田染料に100坪。松本に100坪。
買うてくれんか?と。・・多分、爺様は昭和32年ごろ買ったんです。」と話されました。



「それから・・・松本の爺様は、お酒が大好きで、闇酒も作ったんです。出島でも一斗がめに
作ってて・・腕が達者だったんで、味噌、漬物、佃煮の製造元で扱っていたんです。」と。

「その酒の美味しゅうて、よく呼ばれて出島で飲んどったんですよ。爺様が亡くなってその酒は
床ン下に半分は残ってたけど、ぜ〜んぶ、酢になっとった。 そん酒が美味しくですね!! 」と。

「 あの味は覚えています。飲みながらこの川で鰻バ釣いよったとです。それから、日野さんの
爺さんの時にしょっちゅう出かけて飲みに行ってました。」と。

面白い話が出ました。  わぁ!! こんな出島の面白い話や鰻が釣れたなんて!!
それに、宮田さんのお孫さんは、前にわらべうたを手伝ってくれた大学生だった。世間は狭い!!

宮田さんは、松本商事から昭和36年に独立。同じ漬物業で刻み唐人菜の「うまかばい」などを
作られて今は、息子さんに㈱ミヤタを譲られてるそうです。

また宮田さんにお話して頂きましょう。 次回の9月4日が楽しみです

オランダ屋敷のお隣さんは漬物店の松本商事・松本勇治さんの倉庫でした。

参加されたのはお孫さんの松本憲明さんと、 当時の事をよく知っている憲明さんの叔父の
宮田さんと一緒にいらっしゃいました。 松本勇治お爺さんの出島話をして下さいました。

「1950年(昭和25年)始まった朝鮮戦争で地金で儲けた西野商店が戦後に傾いたんです。
そこで、農林中金から松本の爺様に話しのあって、吉田染料に100坪。松本に100坪。
買うてくれんか?と。・・多分、爺様は昭和32年ごろ買ったんです。」と話されました。



「それから・・・松本の爺様は、お酒が大好きで、闇酒も作ったんです。出島でも一斗がめに
作ってて・・腕が達者だったんで、味噌、漬物、佃煮の製造元で扱っていたんです。」と。

「その酒の美味しゅうて、よく呼ばれて出島で飲んどったんですよ。爺様が亡くなってその酒は
床ン下に半分は残ってたけど、ぜ〜んぶ、酢になっとった。 そん酒が美味しくですね!! 」と。

「 あの味は覚えています。飲みながらこの川で鰻バ釣いよったとです。それから、日野さんの
爺さんの時にしょっちゅう出かけて飲みに行ってました。」と。

面白い話が出ました。  わぁ!! こんな出島の面白い話や鰻が釣れたなんて!!
それに、宮田さんのお孫さんは、前にわらべうたを手伝ってくれた大学生だった。世間は狭い!!

宮田さんは、松本商事から昭和36年に独立。同じ漬物業で刻み唐人菜の「うまかばい」などを
作られて今は、息子さんに㈱ミヤタを譲られてるそうです。

また宮田さんにお話して頂きましょう。 次回の9月4日が楽しみです

毎日歩こう/高齢者の歩き方

2011年07月27日 21時56分06秒 | 自宅介護のコツとアイデア



毎日歩こう/高齢者の歩き方

高齢者の場合、歩き方には注意せねばなりません。
何故なら「正しい歩き方」で歩こうとすると、


転んだり、
筋や筋肉、骨を傷めたり、
最悪、骨折を招くこともあります。

「正しい歩き方」はいろんな処で言われていますが、当サイトでは寝たきり老人にならないため、以下の三原則を採用してお話を進めていきましょう。


「正しい歩き方」の三条件。

漫然と歩くだけでは余り効果を期待できません。
散歩とウォーキングは異なります。特にこのサイト提言している『寝たきり老人にならない』ためには忘れてはならない留意点があります。
『十分にふくらはぎを伸ばしたり、縮めたりする歩き方がポイントとなります。


最低30分間以上連続で歩きましょう。
大股で歩きましょう。
ときどき速足で歩きましょう。

「正しい歩き方」で一年365日、毎日五千歩~一万歩、歩きましょう。

連続歩行;
「歩く」という文字は「止まる」を「少しに」と書くことにお気づきですか?
犬の散歩のように止まっては歩き、歩いては止まるでは意味がないのです。

大股歩き;
大股で歩くことで、第二の心臓であるふくらはぎが収縮・拡張し、ふくらはぎが鍛錬され、ふくらはぎの筋肉ポンプがしっかり働くようになるのです。

速歩で;
リズムをつけての歩行が筋肉を適度に刺激し、ふくらはぎポンプが丈夫になります。


あなたは歩ける人? 歩けない人?


歩けない日のために!


日本初! ふくらはぎが鍛錬できる足裏ツボ治療器

2011年07月27日 21時52分28秒 | 自宅介護のコツとアイデア
日本初! ふくらはぎが鍛錬できる足裏ツボ治療器


(上の写真は「健足博士DX」マイナスイオン発生装置付き)

日本電子工業㈱が日本で初めて『ふくらはぎの健康運動が可能な足裏反射区電子鍼治療器』を2012年に医療機器としての認定を受け、製造販売を開始しました。
以来、シリーズで10万台を超す隠れたヒット商品となっているようです。

同シリーズの多くが無店舗販売(訪問販売・移動販売・会員販売・講習販売)で販売されているため、「一般の国民」の多くはその存在や効能が知られていません。

当サイトは日本の国民の一人でも多くの方々にこの「健足博士シリーズ」の存在、特徴、購入すべき人のパターン等を丁寧にお伝えできればと思っています。


健足博士の特徴


マッサージ機ではない(振動しないから家族、他家に迷惑をかけない。
足裏反射区治療器だから、足の裏のツボを通して全身治療が可能。
運動不足解消のための一助となる。
日本で初めて「ふくらはぎの鍛練」が可能な治療器。
(右のビデオを参照ください)
軽い、小さい、場所を取らない。
テーブルの足もとに置きっぱなしにできる。
テレビを見ながら、治療と運動。
新聞見ながら、治療と運動。
諸雑事をしながら、治療と運動。
家族全員が使用できる。
長期使用可能のため結果的に安い。
他の医療機器や治療器を全て止めても良いくらい。

 
驚く勢いで増え続ける百寿者(百歳以上の方)

百寿者の数は総務省の調査が始まった1963年が153人、2008年発表値は36,276人。2009年の9月10日発表によると、既に四万人を突破しているようです。
「長生きできることはありがたい」が医療費をたっぷり使い、孫子を苦しめる介護老人は・・・・・。


平均寿命は90歳以上が予想される。

2008年現在、女性は86.05歳、男性は79.29歳。
2050年には90歳に届くだろうと予想されています。
長生きすれば当然、有病者は増えます。臓器等の異常であれば日常生活に支障はありませんが、足が萎えて歩けなくなることを想像してみてください。

「自分の足でトイレに行けない」生活を想像してみてください。「要介護者」という言葉や、「介護疲れで殺人」というニュースを度々目にします。


今のままで、寝たきりの人生にならない自信がありますか?

老化は自然現象
秦の始皇帝は不老長寿の薬を求めて莫大な私財を投じたと言われますが、寝たきりで長生きしても意味がありません。

許せる老化。
髪に白髪が増える。
顔にしわが増える。
物覚えが悪くなる。
物忘れが多くなる。

許せない老化。

家族が認識できなくなる(痴呆)
歩いて買い物に行けなくなる。
好きな旅行に行けなくなる。
自分の足でトイレに行けなくなる。
最後の数年間を寝たきりで過ごす。

このような状況になった時は私は「延命治療を拒否します」。


毎日はつらつ8千歩!!

ただ歩くだけではなく、正しい歩き方をしてこそ、貴重な時間を使う意味がある。
一切運動しないより、少しでも外に出て歩くことは健康に寄与しますが、どうせ歩くのであればより効果的な歩き方をしたいものです。
まずは歩き方の三原則を。
30分間以上連続で歩きましょう。(運動場・公園等)
*「歩」という文字は「止まる」を「少し」と書くことに気付きましょう。
大股で歩きましょう。(大股歩きで、ふくらはぎが刺激されます)
はつらつと速歩。(だらだら歩きは効果的ではありません)


尿失禁者が増えています。

中年以降の女性に尿失禁者(尿漏れ)が増えている傾向です。これも、運動不足による筋力の低下が原因の多くを占めているようです。


デイサービス

デイサービスが予算化されてことで近年、デイサービスの会社が激増していることにお気づきでしょう。
このサービスを受けることを「当然の権利」とばかりに利用されている方もあるようですが、ここに多額の税金が投与され、このツケが自分の子や孫たちに残ることを自覚している人たちはどの程度いらっしゃるのでしょうか?


整骨院・治療院・足裏マッサージ店の急増。

私が住んでいる都会地だけでしょうか?
利用する駅ごとに何件も、時には何十軒も駅周辺に各種治療院が氾濫しています。私が今住んでいる自宅の近くにも最近、整骨院ができました。駅から15分程度の場所なのに患者さんが結構いるようで驚いています。これも、本人負担が300~600円程度と安価なためでしょうか?
ここにも多額の税金が使われています。
そういえば私の知人(40歳台)が四十肩で通院しているそうで、『治らないけれど、安いし、少しは楽になるから毎日通っている。』と聞きました。


自助の精神に目覚めましょう!

「医者は患者を助けない、助けるのは患者自身」と良く言われるように、「健康になろうとする意志と、努力なくして健全な肉体は維持できません。
豊かな老後を過ごすために、自助の精神に目覚め、歩ける方は毎日歩く。
歩けない方は健足器を購入し、毎日使用することをお薦めします。


以下のような方に健足器の購入を推奨します。


日頃から運動不足を自覚している。
運動が苦手。
寝たきりになりたくない。
足を丈夫にしたい。
痴呆症になりたくない。
良く眠れない。
夜中何度もトイレに起きる。
自律神経失調症だ。
不定愁訴がある。
足がむくむ。
医者に通い続けているが改善しない。
静脈瘤が心配。
第二の心臓と呼ばれるふくらはぎを鍛えたい。


健足器販売サイト紹介

販売サイト 健足博士 快足くん(日本製)
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 2(埼玉)
 3(神奈川) 極楽仙人、白寿仙人、東洋の達人(中国製)
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