★ちゃっぴ★

ちゃっぴのこと、いろいろ、いろいろ、
いろいろありすぎて困るがなー

ひねくれて・解釈

2007-11-29 02:28:47 | Weblog
りんごちゃんが歪んでいるのなら、やっぱりそのまま受け取っちゃだめでしょう、ということで、深く掘り下げてみる。(全然深くない)


「私の名前をお知りになりたいのでしょう」
「でも今、思い出せなくて、悲しいのです」

これは嘘だ。
オメーなんかにあたしの名前は教えてやるもんかいっってことだ。(猜疑心の塊)


「働く私に名付けて下さい」
「お呼びになって、どうぞお好きなように」

この「りんごちゃん」の職業は、オンナの職業なんだな、これが。
だから、オメーなんかに心は売らない、だからオメーの好きな名で呼んでくれて構わねーぜってなもんよ。(想像力抜群)


「五月に花を咲かす私に、似合いの名を」

きっと5月生まれなんだな。(早くもネタ切れ)



「あけびが開いたのは秋色の合図でしょう」
「季節が黙って去るのは、寂しいですか」
「涙を拭いて顔をあげてください」
「ほらもうじき私も実を作ります」
「冬には蜜を入れてあなたにお届けします」

優しいフリして、天使ちゃんのようだぜ、全く。こうやって、女々しい男を丸め込む。グズグズ・グチグチ泣いてるような男なんて、ぶっ飛ばしちゃうよ、あたしは。



「私が憧れてるのは人間なのです」
「泣いたり笑ったり出来ることが素敵」
「たった今、私の名が解りました」
「あなたが仰る通りのりんごです」
「おいしく出来た実から、毎年お届けします」
「召しませ、罪の果実」

この「りんごちゃん」は、全然人間なんかに憧れてないと思う。どっちかと言えば、そういう人間を嘲っている感じ。バカにしている感じ。鼻声は、そういう時に使うもんだと思うし。

大体、自分の名前はそう滅多に忘れるもんじゃない。「今、名前を思い出した」なんて、それこそ「バカにしてんのかぃ?」って感じと思われる。ぶりぶりブリッコで「お届けしますぅ」とか言って、実は簡単に相手を裏切っちゃうとか。



まとめ:これは、「私を買ってね」の歌かと思った。でも、誰彼にも買わせないぞって感じ。


私も、だいぶ歪みまくってるなー。素直じゃないなー。いけんなー。こどものうたじゃないじゃん。

・・・っつーか、想像力の程度、考えの浅さが、バレバレじゃん。

家族

2007-11-29 02:04:33 | Weblog
おばちゃん達の話を聞いていて、いつもならほとんど聞いちゃ居ないけど、時々耳が傾く時がある。

老人ホームの話だった。そこから始まって、「家族が誰も会いに来ない」って。個室にずっと一人きりでこもってしまう、そういう話だった。

だから絶対老人ホームには入りたくない。でも、一人で暮らしていても家族(子供)が寄り付かなくなる。だから、周り近所や友達に、何かの時の対処を頼んでおいてるんだって。

家族が寄り付かないって、子供が親の有り難味を忘れてしまうんだってある人が言ってた。「高学歴、高収入でって育てていて、子供が独立してしまうと、育ててくれた親の恩を忘れてしまうのよ」って。

でも、それは違うだろうと思った。子供が寄り付きたくなくなるように育てたっていうのも、半分はあると思った。

独立して暮らす、離れて暮らすのと、寄り付かなくなる、疎遠になるっていうのとは違う。親を大事に出来ないのは、自然にそう出来ないのは、やっぱりそういう育て方を親がしてしまったからだと思う。

それでも、子供は親のことを心配したりもするし、ずっと付き合いが続く場合だってある訳だから、一概にそうだとは言えないけど。


家族が居るのに居ないも同然のような状態になってしまう家族も多いと思うし、だから、命がだんだん繋がらなくなっているのかなって。出生率が低くなってしまっているのも、そういうせいもあるのかなって。子供産んでも、一人で育てなければならない状況の人も多い訳で、でも一人で抱え込んでもろくな事にはならなくて、だからってダンナさんがいつでも協力してくれる訳でもない。

子供を産むことも大変、育てることも大変、やっぱり家族や周りの協力が無くては出来ない。でも、家族の繋がりがどんどん薄くなってきている今の世の中で、やっぱり安心して子供を産むのは難しいのかなと思った。



せっかく生まれてきたのに、なかなか命が繋がらない。命が途切れる。自分の命、遺伝子は残したくないと思う。そういうふうに考えてしまう人も増えて来ているんだろうなと思った。

親に愛された記憶が無いのに、親になるのは怖い。自分が愛されてないのに、「じゃあ自分の子供は精一杯愛してあげよう」って思ってても、親から、そのまた親から、ずっと受け継いでしまっている癖は、そう簡単には無くならない。

じーちゃんがいて、ばーちゃんがいて、おばちゃんがいて、おじちゃんがいて、そんなふうにいっぱい家族や身内がいると、でももちろんいれば良いってモノじゃないけど、でも、ちゃんと命が繋がっていくのはいいなあと、でもそれって、ほんとは物凄い責任が伴うことだよなって思った。

無責任じゃ出来ない。いくら、子供と共に成長する、子供に育ててもらう、とか言っても、実際はそう簡単じゃない。



私も、親も妹も居るのに、疎遠になってしまっている。正確には、嫌がられていると言うか。無頓着で惚けてるおかーちゃんだけは、自分から連絡もくれる。でも、妹なんかは電話もメールも変えられちゃって、教えてもらえない始末だし。

でも、今すぐどうこう出来る訳ではない。自分の家族に対して今出来ないけど、自分の周りに居てくれる人達には、出来る。家族に対してはしてこなかった色んなこと、「ちゃんと相手を見る」ということだけでも、出来る。今は、そこをやっていく。


家族がいても、幸せになれない場合も多い。おとーちゃんとおかーちゃんが居るからって、そんなのは幸せの何の理由にもならない。でも、おとーちゃんとおかーちゃんが仲良くしているのが、やっぱり子供は何を置いても嬉しい、ということだけは解る。何をしてもらった、何を買ってもらった、どれだけお金をかけてもらった、そういう色んなことよりも何よりも、いつでもおとーちゃんとおかーちゃんが仲良くしているのが、一番の「愛された記憶」になると思った。

もちろん、仲良くってのは、喧嘩しても冷戦状態があっても、それも含めて、いつも相手を愛することをし続けているってことかなと、まだその辺は良く解らないけれど。

でも、そこはやっぱり人間同士、どうしてもうまく行かない場合だってある。それでも、うまく行かないところを放置しない、逃げずにちゃんと正面から向き合う、何とかして行く、納得して行く、そういう姿勢を見せられる親は、やっぱり子供にとっても凄くお手本になると思うし、夫婦が別れてしまっても、子供も逃げない人間に、そういうふうに育っていくと思う。

もちろん、「親の離婚は子供には関係ない!」と、堂々と言い切ったうちのおとーちゃんには、到底望めないことだが~。


にゃんだかんだ言っても、「家族」は人間の、と言うか、動物でもそうかな、「基本」だと思うから~。その「基本」で失敗しちゃったから、アタシは苦労がいっぱいだいっ!

・・・でも、だいぶ惚けてるけど。

感染

2007-11-26 02:16:46 | Weblog
うちのおとうちゃんから、疑心暗鬼が感染した。

すでに感染していたところへもってきて、前のダンナからも疑心暗鬼が感染した。んでもって、私はいつも相手に脅えていた。

今考えるとバカみたいだけど、ほんとに毎日ビクビクして、怖かった。自分が捨てられるのが、怖かった。家出していた時は、相手からの電話一本でも怖かった。だから携帯電話は持ちたくなかった。


今でも、その時の癖が残っている。

昔はそんなこと思うことさえしなかったけれど、今は自分の弱さもダメさも、ちゃんと解るようになってきた。でも、まだ惚けてるところもある。



人にビクビクしながら生きてるのって、ほんとに辛い。そんなこと、もう絶対しない。

そんなこと、誰かにさせてる奴を見付けたら、ぶっ飛ばしてやる。ことがいつでも出来るように、いつでも元気を蓄えておこう。


心の感染は、とっても怖い。弱い心を嫌がらずに、ちゃんと自分で摑まえておかなくっちゃ。



でも、私からも感染したのだろうか。前のダンナも私に対してビクビクしていたのだろうか。違う。ダンナがビクビクしていたのは、多分自分の弱い心だ。だとすると、私がビクビクしていたのも、私自身の弱い心なんだろうな。そうだよな。電話は怖いけど、電話に出なくちゃいけないって、相手に流されていたんじゃなく、自分自身に流されていたんだ。

今でもまだまだ弱いけど、昔はほんっとに弱かったんだな。

まだ隠す

2007-11-26 01:58:03 | Weblog
まだ、自分を隠してしまう。まだま隠してしまう。

自分で溜め込んで、それを出せない。こんな自分なのに、何かいつも変な遠慮が出てしまう。

汚い自分は隠したい。

例えもうすでにバレバレのことであっても、お見通しのことであっても、誰でも普通にするようなことであっても、それが素の自分であっても、隠したくないと思っていても、それでも隠してしまう。

まだまだ全部出せない。前よりは良いし、隠さないようにもなって来た。



まだ、それだけダメなんだ。

見られて嫌なことって何だろう。知られたくないことってなんだろう。

まだ、自分で自分を汚いって思っているんだ。

まだ自分を認められないし、自分を許せないんだ。でも、そう簡単に許せる自分でもないし、そんな簡単に許せるような過去ではない。

しょうがない。


ちょっぴりリバウンドもした。

元気な自分も居る。

もっと自分を変えていく。

負けない自分になる。

隠さなくてもいい自分になる。

マイナスの部分があっても、それを遥かに超えるプラスがあればいいんだ。


にゃーにゃー。

う~ん

2007-11-25 15:33:00 | Weblog
焼肉を食べた。

後ろめたい気持ちが出た。

こんなに贅沢したらいけないと感じた。

自分はこんなに豪華なものを食べれる身分じゃないと思った。

でも、そうじゃなくて、豪華だとか身に余るとか感じたら、
その分動けばいいし、働けばいいし、お金を稼げばいい。


・・・ということは、何度も頭では知っていた。

でも、イマイチまだ心と身体には吸収されていなかった。

昨日、ちょっと吸収した感じがした。

なので、「今ある分だけで何とか切り詰めて過ごす」ではなく、

「しっかり仕事して働いて、お金を稼いで時には贅沢をする」に、

自分がやっとちょっと向いてきた感じ。

じっと縮こまっていても、前には進まないし、自分も育たない。

止まってるものも、動かしていく。

今回どれくらい進められるか解らないけど。



イマイチ、ぴったりの言葉が見付からなくて、

書いたことがしっくり来ないが~。

「そのとーり!」に書けていないと言うか~。

何だろう?

何か違う。

この先生にして、この生徒あり、なこと

2007-11-23 03:28:58 | Weblog
生徒の kenta 君が、学校で大変なことをしでかしたと聞いた。

でもでも、こんなこと、学校側のみなさまには申し訳ないことかもしれないけれど、この話を聞いた時、私はとてもわくわくしちゃったし、「良くやった!、kenta!」って思ってしまっちゃったぃ。



もし自分が、kenta と同じクラスの女の子だったら、
「キャー、kenta 君ったら、す・て・き 」になっていたかもしれない。


でも、やっちゃった後にビビってしまった kenta を見たら、
「げぼー、kenta 君ったら、げ・ん・め・つ 」になっていたかもしれない。


私も、ずっとずっとやってみたかった。昔っから、やってみたかった。なので、kenta の話を聞いて、そういう自分がわくわくしちゃって喜んでしまった。

大きな声では言えないが~。



でも、もし自分の子供が学校で警報機鳴らしちゃったら、学校側には平謝りで、泣きながら演技バッチリで謝りまくって、先生方には口も挿ませないくらいに謝りまくって、家に帰ったら家族みんなで宴会する。

そんなんで、え~んかいっ


やってはいけないことだけど、でもみんなきっとやりたいこと。今でも私はやってみたい。メーワクなやつ。

楽しむこと

2007-11-23 03:13:02 | Weblog
先週末、メンバーが企画してくれて、カラオケに行った。

物凄く久しぶりな感じがした。

カラオケも、みんなで楽しむという事も、お酒を飲むという事も。


でも久しぶりだったから、自分が前よりも「楽しむこと」に対して変わってきたのが解った。

前よりも、自分が楽しめるようになっていた。ひとりで楽しむではなく、仲間と一緒に楽しむことが、前よりも出来るようになっていた。

そんな、誰でも当たり前に出来そうなことが、ずっとずっと出来なかった。

でも、この前はそういう自分を縛っていたものが感じられなかった。

遅れて行ったけれど、それに対しての意地みたいなものも無かった。歌が下手だとか声が変だとか、そういうことで自分に言い訳したり、誤魔化して隠すために周りに変な言い訳したり、カッコつけたり気取ったり、そういうのが、ほんとに減っていた。

もちろん、まだまだ周りからしてみれば、良くない態度も出ていたかもしれない。でも、自分が変わってきたのはとても嬉しいことだった。

前の自分だったら、もっともっと歌わなかった。山崎ハコちゃんの怖い歌なんか、絶対に何か言われる、絶対に嫌われるって思い込んで、歌うことなんてしなかった。

でも、そういう歌でも、それを周りがちゃんと楽しんで面白がってくれてたし、古臭い歌を歌っても、それを楽しんでくれてたし、hiromiママとやったピンク・レディーもだし(自分がやるとは自分でも思っていなかった。でも、自分が楽しんでることが楽しかった)、自分がやったことを周りが嫌がると言う思い込みが、自分自身からも凄く減っていた。

だから、この日は凄くありがたかった。声をかけてもらって、本当にありがたかった。

でも、まだまだ足りないことも多い。人前で平気で歌えるようにはなって来たけれど、まだ進んで場を盛り上げるとか、周りを楽しませるとか、まだそっちの方までは出来ていない。

次回はそこら辺も前に進めるよう、頑張る。



でも、ずっとちゃんとは出来なかったし、だから解らなかったけれど、みんなで一緒に楽しめるのは、本当に楽しいものなんだなって、やっと解るようになった。本当は、もっともっと昔、それこそ10代の頃にいっぱい経験するべきことなんだろうけれど、でも、今になっちゃったけど、やり直しがちょっと出来て、本当に良かった。嬉しかった。だから、機嫌良く帰って来れた。

みなさん、ありがとうございました!

気~

2007-11-22 01:56:54 | Weblog
「気」が重い人が居る。

「気」が重くて、なかなか自分では動けない。

自分がずっと、凄く「気」が重かったと思うし、今でもまだそれは残っている。

でも、重い「気」はキライ。

うまく対処出来ずに、ずるずるとその重さに引きずられそうになる自分が居るから。

相手が「自分」でも、「他の人間」でも。



そういうのに流されず、自分のペースをいつも保つ。

気付いたら、修正する。


裏声を使えること

2007-11-22 01:51:23 | Weblog
裏声は、上手に使うことが大事。

地声と裏声を行き来しながら歌うのは、結構難しい。

地声と裏声に、そう差が無い場合には、まだ良い。

でも、地声ガラガラで、そこから裏声に変えると丸解りの場合、
うまく出来ないと、大変みっともない。

だから、そういう苦労をわざわざすること無いって、殆どの人が地声を中心にキーを合わせて歌う。

でも、地声と裏声の行き来は、それがきれいに流れていると、凄い技術。

音の並びや言葉の区切りで、うまく声を切り替える。

その日の喉の調子や体調もある、曲によっても違う。

ちょっとタイミングがずれると失敗する。


裏声を嫌がることなく、自分の声をすべて受け入れ、それを自由自在に使いこなすことが美しい。

何でもそう。音楽も、ジャズも同じ。

いろんな技術を取り混ぜて、その時その時で臨機応変に変化させられることがスバラシイ。

やっぱり、技術が無いと、最低限の技術が無いと、人には認められない。

技術が無くて、「心を込めて人に聴かせる音楽」は出来ない。私はそう思う。技術が無くて、「心だけ込めました」なんて、そんなのは有り得ない。それでプロにはなれない。人は納得しない。


鏡のような存在の人が居る。

その人が、自分自身の鏡となる。

自分の状態が映し出される。

ならば、私は「鏡のような音楽」を目指そう。

私の音楽を聴くと、聴く人自身の心がそのまま映し出される。

そのままの本当の自分が出る。自分でも意識していなかった本当の心を感じる。


そういう音楽を目指そう。


表も裏も、全部自分じゃっ。

誰でも、表も裏もあるんだから。