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人は一生を通じて言葉を交わす相手は一万人もいないらしい。大勢の人に囲まれ、たくさんの関わりを持って生きているようでも、目に触れる多くの人は自分の目の前を流れ去っていくだけ。時候の挨拶や道を訊く程度のやりとりをはぶいて少しは意義ある会話をした相手に絞るとなれば、せいぜい数百人くらいになってしまうかもしれない。
そんな世の中じゃあまりに寂しいので人間はいろいろの面白いお話をつくり出してきたわけだ。油売りの行商人が方々からあることないことのネタを仕入れ、油を量って売る間のムダな時間に有効活用したわけだ。
何を言いたいかというと、話の受け手にとって時候の挨拶を交す人間より油売りの人間の方がはるかに人間的厚みや魅力を持って感じられてしまうだろうということだ。
年が寄ってくると時候レベルの言葉を交わす相手とは会話にも気持ちがこもらなくなる。それでも目が合えばできるだけ気持ちを見破られないように笑顔をつくる。時候の話だけでは何だからと先方の飼っている犬や花に話を向けてみたりする。しかしうまく会話がつながらない場合も多い。
いつしか往来で姿を見かけてもさっと知らない振りをしたりする。相手がそんな姿勢になったのに気付いたりもした。しかし、生活圏の離れた兄妹たちは自分たち家族の生活に忙しく、趣味を同じくする友人たちも少し間遠になってきた。会いに行くためのエネルギーが自分に足りなくなってる気がする。だが、一方で会いたいためのエネルギーを放出してくれる者がそこにいないようにも感じている。
自分の職場を除けば、今や時候レベルの挨拶を交わす身近の人たちが自分の日常に関わってくれる大切な人たちとなってきている。だが、モノクロ風のいささか物足りない日常風景には違いない。
それらを不足として現状打破を望まないならもはや汗の出ない人間と同じになろう。
昔の油売りの商人みたいに、カラフルな色付けと活気を今の自分に送り込んでくれているのはK-POPと韓国ドラマとなっている。
これがなくなったら今の自分はもぬけの殻かもしれない。
韓国ドラマ「私はチャンボリ!」を見終えた。
煩雑な一日(仕事、用向き、人間関係)に疲れ、早く寝た夜の朝方に見た(邯鄲の夢)みたいなドラマだった。
話はやたらにどんどん進み、長いのに長さを感じず、目が覚める前にほぼ終わってしまった。そんな感じだ。
ひとつ追加がある。深く眠った夜の朝方に見た夢で、夢を見ている自分がその内容に積極的にかかわっている。意外性こそがエンターテインメントの真髄だと妄信してる自分が必死で自作自演している。
そんな夢をたまに見るが、「私はチャンボリ!」はそのへんの無茶ぶりが良く似て感じられた。
つまり、マンガ感覚で最後まで面白く見れた。ありえない展開に最初は戸惑うが、役者たちもそのへんは心得て演じているようで流れが切れない。シラける前に次は何が待つ(?)の期待感でどんどん引っ張っていかれる。
出だしから波乱万丈、思わぬストーリーとエピソードがあれよあれよで続いていく。もっともっとこの先は(?)で闇中の意識はもっと深いストーリーを望むが、じつはそう深くないところを進むモグラを見るような進行である。
意外性はドラマの流れに沿って尻取りみたいにある程度見えながら続いていくのだ。そして、終わってみれば何のことはない、ほぼみんなが元の鞘に納まる”めでたしめでたし”の 終わり方をする。
このドラマの主人公はト・ボリ(チャン・ウンビ)とイ・ジェファとなっている。
だが、自分には主人公たちより、悲哀を窺わせながら、終章に近づくにしたがって先行きが気になった人たちに気持ちが惹かれた。
ヒロイン、ト・ボリの娘(養女)ト・ビダンに愛憎の部分で強く関わったヨン・ミンジョン(ト・ビダンの実の母)、ト・ヘオク、ムン・ジサン、イ・ジェヒといった人物だった。
ストーリーが進むにつれて舞台回しの役割を担ったのはト・ボリで、ヒロインはヨン・ミンジョンのように自分には思えてきた。ヨン・ミンジョンと実の娘ビダンをめぐってムン・ジサン(実父)とイ・ジェヒ(義父)は複雑な関係に置かれる。ムン・ジサンがヨン・ミンジョンのそばに出没するのは愛情のためでなく(最初はそうだったが)復讐のためだが、ヨン・ミンジョンを愛しだしているイ・ジェヒにとってはそうでない。ヨン・ミンジョンのそばをうろつかれるのは気が気でない相手なのだ。
自分の地位と身を守るため命がけのヨン・ミンジョンをめぐって起こるスリリングな刺激と存在感に比べ、苦労が一歩一歩報われつつあるト・ボリは終章に向けて影がどんどん薄くなっている感は否めない。老舗の跡目をめぐって縫い物競争で勝つなんてのはドラマチックなストーリーの前では添え物みたいになるのも致し方ない。
制作途上のどこかで計算違いがあったのかどうかは知らないが、ラストの部分になると完全にヨン・ミンジョンが完全に主役みたいになっていた。
ト・ボリの老舗韓服屋ピスルチェ3代目の生き方より、刑期を終えて出所して母親の食堂に戻ってきたヨン・ミンジョンのこれからの方がはるかに気になるラスト場面だった。
イ・ジェヒはヨン・ミンジョンのそばに戻ってくるのか? このドラマが閉じて一番気になったのはそこのところだった。
なお、このドラマはところどころ録画ミスで見損なった。終わり近くはゴソッと5話ほど抜けたりした。しかし、その次を見ると前を見たいと思わなくなった。で、見てはいない。ドラマ自体が後を振り向かないそういう流れを持っていた。
見ていない部分は誰かの書いたあらすじを読んで満たした。それで十分足りない内容が埋まった。
ところどころ見ないで抜けているのに面白かった。ほんとにほんと、マンガみたいなドラマだった。
ラストで果樹園の仕事についた実父ジサンの前に幼児を引き連れた幼稚園の先生が登場する。娘のビダンはその女性を見てびっくりする。女性は実母であるミンジョンにそっくりだったからだ。ビダンは二人の仲がよいのを見て同時に安心する。父がママを愛していたと実感したからだ。
このひと場面が入って自分はミンジョンへの嫌悪感がだいぶ抜けた。全編を通していいところのひとつもなかった女だったが、出所してきてからは憑き物が落ちたように人も変わり、いやだった食堂の仕事に励むようになった。せっかくだからもう少しそこの場面を足して描いてもよかったんではなかろうか。1話付け加えて彼女だけ追って描いても視聴者はやっぱり釘付けで見ただろうと思う。
イ・ジェヒが戻ってくるかどうかを気にしながら…。
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