
懐かしの関西旅行(24)
県道端のバス停へ④
妹の火傷を聞きつけ、近所の人が入れ替わり立ち代りで様子を見にやってきた。外傷治療の軟膏を持ってきてくれる人もいた。
母は子供の頃にそういう事故を目にしたこともあるらしく、火傷の怖さを知っていた。
火傷を負った日の晩、妹の顔は怒ったフグのように赤く腫れあがった。ヒリヒリした灼熱感や痛みが彼女を襲っていたに違いなかった。
しかし、幼児の彼女にそんな苦痛や気持ちを訴えることなどできない。妹の身に起こっていたのは身体を構成する細胞のひたすら生きようとする生体反応だけだったであろう。
親を含めた自分たち兄妹も苦痛の表情を浮かべている妹に対し「苦痛に耐えてくれ! 生きてくれ!」と祈りの思いを向けるしかなかった。
顔や手、腕などに熊の油を塗ってやりながら、言葉とも泣き声ともつかない不分明の声を発しながら、母は妹に向けてほおずりを繰り返した。
それを見て私や弟も母のように何かしら元気付ける言葉を沿えながら頬ずりをしてあげたものだった。

火傷から日が経つごとに妹は穏やかな寝息を立てるようになった。
幸運だったのは沢向こうのOさんからすぐに熊の油の提供を受けたことだった。火傷して一両日の間にその薬は届いたと記憶する。
熊の油を塗りだして妹の火傷は見る見る治癒に向かった。
「あの薬があったからよかった。すぐに届かなかったら、あの子は一生、誰の目にも分かる火傷跡を残していたかもしれない」
後年、母はそんな話を私にした。
だが、私の考えは少し違う。あの現場から母が離れていたらどうなっていたか分からない。
熊の油のおかげももちろんあるだろう。だが子供時代の記憶からたどる限り、あの時の母親の行動はじつに俊敏だった。
熊の油よりも優るものがあった。
あと5秒、いやあと3秒、妹の顔や手が焚き火のそばや灰に埋まっていたらどうなっていたのか? 癒着がわずかに残った彼女の小指を見るたび、私はかつて母が口にした火傷の怖さを思い知らされる。
今やかなり曖昧な記憶となってしまったが、あの日…山火事の恐怖を抱かせて延焼を続ける火を父や私とともに叩き消していた母はいつの間にかいなくなっていた。
火が燃え広がるのを防ぐのに夢中だった自分はそれを正確に見たとは言えない。憶測になるが、想像される母の行動はこうだった。
泣き声から妹らの異変にいち早く気付いた母は電光石火の早業で急斜面を炭焼きの竈へと駆け下りた。焚き火のそばでうつ伏せ状態になっていた妹を抱き上げ、父に向かって何か叫んで託した後、県道へ走り下りた。
家に戻れば何とかなる。近所の助けも得られる。
母は妹を抱いて一目散に家へ急いだわけだった。
父があんな迅速な行動を取れたとはとても思えない。妹の顔に谷川の水をぶっかける機転も利かなかったことだろう。
妹が負った火傷跡はなかなか消えなかった。2年経っても5年経っても10年経っても残り続けた。自分の記憶では小学校を卒業する頃まで、火傷跡は妹の顔を赤黒く覆っていた。
妹と一緒に歩いていると行き交う人は必ず妹を一瞬観察して通り過ぎていたものだった。
あの時、熊の油でお世話になったOさんの孫娘が目の前にいる。息子は村を出たという話だったのに、孫娘の彼女は村の青年と結婚してこの地に住んできたのだ。
私は不思議な縁を感じながら彼女の話を聞いた。
妹の火傷が父の火傷の話にすり変わりながらも、私たちの家族について、会ったこともない彼女が知っていてくれたのが嬉しかった。
私は時計を見た。これ以上留まっては不動窟に到着するのが遅くなる。
あの時のお礼をYさんに伝えて伯母谷を後にした。