近所の朝の寄り合いから戻ってきたA子は夫に向かって言った。
「この先のB子さん、アメリカから戻ってきてすっかり近所の人気者になっちゃったわ。旦那さんと連れ立って行く前の彼女は、どっちかというと嫌われ者だったのよ。それが英語話せるようになっただけで、みんなの態度は180度変わっちゃった。でも、私は姿勢を変えないつもり。英語が少しばかり話せるようになったからって人間の中身が変わるものですか。英語を話せなくたって、立派に世の中は渡っていけるんですから」
「そりゃあ、そうだ」夫は同調した。「英語が話せるようになったからって、人間はそう簡単に変わらない。問題は話せるようになったことを通じて人間の何を学んでいくかだな」
部屋を動き回っている妻を見て、夫はアイスコーヒーのグラスを置いた。
「おい、落ち着かないな。私の話をちゃんと聞いているのか」
「聞いていますよ。問題は語学じゃなくて、人間の何を学ぶかでしょう。これから出かけるんですよ」
「どこへだ?」
「原宿。娘と待ち合わせているんです」
「お前が原宿か」
「何がおかしいんです」
「いや、おかしくはないが」
「笑ってるじゃありませんか」
「だったら、もう少しラフな格好がいいかなと思っただけだ」
「そういえばそうねえ・・・」
夫の言葉にA子は鏡を覗き込んだりして考えていたが、やがて娘の部屋にいって戻ってきた。
さきほどと打って変わり、アイボリを基調のTシャツ姿だ。
「ベッドの上に投げ出してあったわ。これ、気に入っちゃった。娘も老け込んだ母親よりは、若々しいのがいいでしょうし。私、これで出かけてきます。お留守番、お願いね」
「それで、出かけるのか。それもいいとは思うが、もう少し選んでみてはどうだ」
「いいわ、これで。書き散らかしのロゴがすごく気に入ったのよ」
「ふむ、そうなんだろうな。しかし、そういうの着て出かけるのって煩わしくはないか」
「私も気持ちは若いの。何が煩わしいものですか」
夫の言葉を無視し、A子はそそくさ出かけていった。
夕方、母と娘は気まずい空気をたずさえて帰ってきた。
居間に落ち着くなり娘は切り出した。
「ねえ、聞いてよパパ」
「どうした?」
「外国人が握手しようとして手を出してくるのに、ママったらはにかんじゃって片っ端にお断りをいれるのよ。それで、あげくに何を訊くかというと、私、若づくりし過ぎているかしらですって。もう、いやになっちゃうわよ。代わりに握手を繰り返してこんなに手が腫れちゃったわよ」
父親はじっと妻を見た。A子は穴があったら入りたそうな顔をしている。
彼女の着ていったTシャツにはこのようなロゴが入っていた。
(The handshake with the person in the world)
