平方録

身辺をつれずれに

しばらく休みます

2016-07-24 04:33:56 | 随筆
ブログを始めて732日目。
つまり、退職を機にひと月後の誕生日から丸2年間休まずに書きつづけてきて、3年目の2日目である。
この間、2年と1日の間に平方録のページを手繰ってくれた閲覧数(PV)が15万4516、読みに来てくれた人数を示す訪問者数(IP)でみると5万3403ということになる。

単純に計算すると73人もの人が毎日毎日、つれづれなるままのぼやきや怒りに付き合ってくれたことになり、これは思いがけないことである。
この数字が多いのか少ないのかは分からないが、始めた頃は友人を含めても両手両足の指の数くらいの人は読んでくれるだろう、と思っていた程度だから、書いていた本人にしてみれば「こんなに大勢の人に!」という思いなのである。

こういうブログでは閲覧者の方が意見を述べる欄があって、そこに反論やら賛同やらのご意見を投稿される方がまれにいたのだが、ブログそのものを公開していたものの、投稿してくれた方とのキャッチボールは端かるする気もなく、終始、一方通行を貫いてきたので、失礼なブログだったかもしれない。
そういう方針だったので、ご勘弁願うしかない。
そもそもが、離れて暮らす娘たちや友人たちへの現状報告というか安否確認のつもりで始めたものなのだ。

そういういきさつがあって、昨日のブログでは3年目も怒りや悲しみを書き続けるぞ、と宣言したばかり。しかし、これぞ朝礼暮改の代表例のようになってしまうが、前言は取り消し、しばらく休むことにします。
期間は2、3ヶ月くらい。もっと短いかもしれないし、長くなるかもしれない。でも、I shall return ! のつもりです。

とりあえずそういうことです。ご愛読ありがとうございました。



東の空がきれいな色に染まり、今朝は太陽が顔をのぞかせてくれるようである
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♪ ケ~セラァ~セラ~

2016-07-23 04:14:49 | 随筆
今日は誕生日である。
68回目だが、誕生日そのものに特別な感慨はない。
友人は壮絶な戦いの跡を残して旅立ってしまったし、今さら言う事でもないが、世の中ははかない。
こいつとなら終生付き合っていってもいいかなと思える友人はそれほど多くないが、そのうちの2人まで、あっけなく失ってしまった。
呆然とする思いだ。

そういう中で出来ることは、与えられた所に従って、しかあるがままに振舞い、生きて行く、という事だろうと思っている。
禅宗が大切にしている経の一つに金剛経があり、その中に、これまでことある度に心に刻んできた一節がある。

「応無所住而生其心」

まさに住するところなくしてその心を生ぜしむ、と読みくだす。
意訳すると、執着する心を捨て、常に生じる新しい状況に従って生きて行く、というようなことか。
これまでの実社会では時々、大きなダメージを受けるような、思いもよらない出来事に遭遇してきたが、落ち込み、へこむ度に心を切り替え、再び立ちあがるときに、この一節を思い浮かべてきたのだ。

「咲くも無心 散るも無心 花は嘆かず 今を生きる」

これは仏教詩人の坂村真民の詩だが、その根底に流れるものは同じもののように思える。
そういうことなんだろうなぁ、と思っているんである。
ここのところ、改めてそのことを思い出しては気を取り直しているのだ。

元来がノー天気なのである。クヨクヨしたって始まらないじゃん、が持論で、ケセラセラと口ずさんでいたほうが性に合っているんである。
そうはいっても、へこむ時はあるもので、そういう時のための常備薬なのである。

円覚寺の横田南嶺管長もしばしば口にしてますな。
死というものはシャボン玉みたいなものです。生きている時はまあるい物体に見えるけれど、その外側を覆っているものが無くなると、シャボン玉も見えなくなってしまう。
しかし、それまで外側を覆っていた膜が消えてしまったからと言って、膜の内側に存在していた空気も一緒に消えてしまったわけではない。ただただ、周りの空気と混じりあってしまっただけで、本質は何も変わっちゃぁいないんです、と。

今回のブログは731回目のブログである。
つまり、2年前の誕生日から始めたブログが3周り目に入ったということである。
3年目も怒ったり悲しんだりしながら、ボケ防止とあわよくば三文の徳を期待して、勝手な思いをつづりつつ、憂さを晴らしていこうと思っている。


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庭作業用のひざ当て

2016-07-22 04:54:49 | 随筆
友人を見送った富山からとんぼ返りして、夕方、小雨の降る横浜に戻った。
4人のガーデナーが送別会を開いてくれたのだ。
会社には顧問として残っていたため、ガーデンのことは気がかりで、毎月の会議には出席して口出ししていたのだ。2年前にラインから離れた時にも盛大な送別会を開いてもらっていたので辞退したのだが、それでは気が済まないので是非やらせてほしいという。

仕方なくというか、ありがたく身を委ねたのだが、少人数だったし、4人がかわるがわる思い出や感謝の言葉を述べてくれたりするのをじっと聞いていて、「へぇ~、そんな風に思っていてくれたんだ」などと、おおげさに表現すれば目が潤む思いだった。

おまけにガーデンに咲いているバラなどで花束を作ってくれ、おまけに、これを使ってくださいと「ひざ当て」までプレゼントされた。
庭作業をするときにどうしても膝をついたりすることが多いのだが、場合によっては膝が汚れるし、何度も地面に膝をついていると直接当たる部分が痛むのだが、このひざ当てをつけていると、そんな心配は無用なのである。

M子ちゃんの見立てだそうで、大いに喜んでいると「そうでしょう、私が選んだんですよ」と得意気だったところがM子ちゃんらしい。
そのM子ちゃんも10月にはお母さんになる。間もなく産休に入ると、そのまま育休にもなっていくので、しばらく会えないことになるが「赤ちゃんを連れてちょくちょく顔を出します。その方が赤ちゃんも喜ぶだろうし」という。
そのとおりで、多分しょっちゅう顔を出すはずで、どんなお母さんぶりを見せるのか、興味深々ってところだ。

プレゼントされたひざ当ては、口にこそ出さなかったが、あったらいいなと常々思っていたので、とても嬉しい。
機動隊がつけているようなやつ? で、これがあれば今後、憲法改正反対のデモで機動隊と渡り合うようなことになったとしても安心じゃぁないかと、とっさに思ったもののである。
うっそ、ぴょん! 冗談ですよ、冗談!
非暴力の平和主義者ですからね。誰かさんたちとは違うんだよね。ん? アベなんちゃら一味のことに決まってるじゃん。

2年前には剪定ばさみなどを腰に下げて作業するときの革製の小道具入れをプレゼントされているし、今回のひざ当ても加わって、積極的に作業を手伝わなくてはいけなくなった。
そんな話をしたら、やはり期待されていて、特に「冬場のせん定時期にはぜひ」とお願いされてしまった。
そうか「敵は本能寺」であったか。
ジジイのの生きがいまで見つけて提供してくれるという、何と心優しいガーデナーたちであることよ。





プレゼントされた花束とひざ当て

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激闘の跡

2016-07-21 05:16:51 | 随筆
ガンで逝ってしまった友人とのお別れに北陸新幹線に飛び乗った。
開業以来初めて利用したわけだけれど、まさか、こんな悲しいことのために利用するとは思わなかった。

通夜が滞りなく終わった後、柩を開けてくれたのでお別れしてきたのだが、フサフサだった髪の毛はなくなっていたし、目を閉じて化粧を施されているとはいえ、その表情から生前の面影を探すことは不可能だった。
痩せこけていたし、相当に激烈な闘病生活だったことがその姿から見て取れたのである。
思わず息をのむほどで、言葉も出ない。

この地方の風習なのか、お坊さんが退席すると参列者も解散になってしまったので、奥さんから最後の様子を聞くこともできなかったが、ガンは脳といわず骨と言わず、全身に転移して友人の体を蝕んでいたようだ。
その変わり果てた姿を見るにつけ、やりきれなさが募る。

いいやつだったのに、どうしてそれほどまでの苦痛に見舞われなければならなかったのか。
いかにも非情で、理不尽である。
全身に転移していたことは知っていたようだから、覚悟はできていたんだと思う。激烈な戦いを続けながらも、心は平らかだったんだと信じている。

お酒が好きだった。本当にもう一度、一緒に飲みたかった。
6月に予定を立てていて、宿も予約し、寸前まで行きながら断念のやむなきに至っていたのだ。仕切り直しできると信じていただけに、悲しくも悔しい。





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友人R 逝く

2016-07-20 04:38:45 | 随筆
昨夜、北陸の友人Rの訃報が飛び込んできた。
5月に体調不良を訴えてきていたのだ。それからいくらも経っていないから、呆然とするばかりだ。
確か、私より4、5歳若いんである。
奥さんによれば進行性の肺がんだったそうだが、それにしても…という思いである。

病気と聞いて円覚寺の横田南嶺管長の著作とともに手紙を送って励ましたら、本人からお礼の電話がかかってきたそうだが、たまたま不在で声を聞くことはかなわなかった。
再び元気になってまた飲み歩くこともできるだろうし、その前にお見舞いにもいかなくちゃなぁ、と考えていたから、最後の連絡になるとは夢にも思わなかったのだ。
応対した妻は「声に力がなかった」と言っていたが、闘病中なのだからそこは致し方ないだろうと思っていた。

Rと初めて会ったのは2005年の5月である。
地方に拠点を張る業界の江戸家老たちが集まる会のゴルフ会だった。
三島でゴルフをし、熱海に移動して盛大な宴会を開いた翌日、1人でMOA美術館に行ったところ、Rも見学に来ていたのである。
大概の江戸家老たちは新幹線でサッサと東京に直帰したが、ゆっくり絵を鑑賞する余裕を持った男だったのである。

何となく一緒に見て回り、帰り際に「じゃあ、僕は鎌倉だから東海道線のグリーン車で缶ビールでも買って海を見ながら飲みながら帰る」と別れかけたところ、「あっ、いいなそれ。俺も乗る」と一緒の電車で帰ってきたのだ。
こういう酔狂がもう1人いて、3人の道中だったのだが、ひょんなことから中華街で一杯やろうという話になり、その場で日取りを決めたのである。
生きつけの店に案内し、二次会でサントリーレッドしか置いていないバーに連れて行き、松の実のつまみをかじりながらレッドをストレートであおったんである。東京オリンピックの時代で時が止まってしまったような店で、氷なんて気の効いたものは出ないバーだったのだ。
その帰りの電車で別れ際「3人でまたやろうよ」という事になり、名前も「レッドの会」と即決したんである。

それ以来、カミさんたちも交えた付き合いとなり、交流を深めあったのである。
江戸家老の勤めを終えて国元へ帰った後、純粋な性格だった故、随分と直言もしたんだろうと思う。ボードメンバーにもなっていたから、その責任感ゆえの振る舞いだったと思うのだが、突然閑職に追いやられたりもした。
しばらくは大人しくしていたようだが、大立ち回りも演じたらしく、一度は復活したかに見えたのだが、そう簡単でもなかったようだ。

最後は失意のうちに会社を去ったようである。
その辺は大なり小なり、似たような足跡である。類は友を呼ぶの例え通りなのが不思議だ。
その辺りのモヤモヤもようやく晴れかけてきたんじゃないか、と思っていた矢先の病魔だったのである。
自由人になってこそできる付き合いを、これから重ねて行こうと楽しみにしていたんじゃないか。

奥さんとは「神田川」の世界そのままに、学生時代に結ばれたオシドリだった。
奥さんを残して逝ってしまったRの心中もそうだが、残された奥さんの心の内を思うとやり切れない。
今年の年賀状には、下手くそな字で「岸壁のバスで飲み会。また連れて行ってください! 」と書き添えられてあった。
何だよ、自分から頼んでおいて、連れていけなくなっちゃったじゃないか!

禅の世界では「人はまったく何もないところから、この世に生まれ出て、また、元の何もないところに戻っていくのみ」と教えられる。
そういうことなのだろうが、私の心の中には、少し不器用で万年青年のような、ちょっとはにかんだような笑顔のRは生き続けるだろう。


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