平方録

この際だ 黄昏切ってやろうじゃないの

昨日から降り続いている雨は夜半から強まり、今朝になっても音を立てて威勢は衰えない。
温度は昨日より若干高めだそうだが、体感というより気持ちの上でストーブを恋しがっている自分に気づく。
特に午前4時すぎの暖房もない部屋の温度は1日のうちでも低い方ではないか?
パソコンに向かってじっと座ったままなのだから、寒さの感じ方もひとしおなのだ。

冷静に考えれば、ストーブをつけるのはいくらなんでもまだ早いだろうと思うからフリースを引っ張り出し、足は今年3月以来の暖パンにくるまれているので何とかしのげるのだが、気持ちはやはりくじけそうである。
自分では耐寒性がないと思っているし、実際、大暑の日の生まれだからか夏の暑さはある程度へっちゃらなのだが、寒さはどうにもいけない。
おまけに鼻がムズムズするのも不愉快千万である。

今はそんなことはないが、もう少し寒さが募って来ればベッドから起き上がる時だって一苦労することになる。
ヌクヌクと暖かなベッドから何を好き好んでキリキリと冷え切った空気に裸をさらして着替えをしなければならないのか。
部屋を暖めた後に起き上がるという手もないではないが、如何せんまだ10月である。

考えるだけでくしゃみが出た。
何せボクは立派な寒冷アレルギーの持ち主なんである。
ここ数日のくしゃみと鼻水の嵐で、ティッシュペーパーの当たる鼻の穴の両脇が赤くなってしまっているのだ。

つらつら思うに、寒さが身に染みるようになったのはいつ頃のことからなのかと記憶をたどってみるが、定かではない。
第一、労働市場の第一線に在籍しているころは、寒いだの暑いだの悠長なことを言っている場合ではなかったし、そんなことより注意を向けなければいけないことは山ほどあったのだ。
それが気温の変化に惑わされると言うこと自体、ジジイになって黄昏てきた証拠なんだろうと思う。
畢竟、他に考えることなんてないのだ。

何事も一事を極めることは大切である。王貞治は畳が擦り切れるまで一本足打法の習得に打ち込んだではないか。
この際、黄昏というものがどれほどのものか、大いに見極めてやろうじゃないかと、いささかやけっぱち気味な考えが頭に浮かんでくる始末である。、
ともかく、身体が寒さに慣れきるまで、しばらくの辛坊するしかないのは分かっているが、これから先の長い冬を思うとやっぱり憂鬱なのだ。
村上鬼城の句を思い出す。季節はもう少し進んだ初冬の情景を詠んだものである。

冬蜂の死にどころなく歩きけり

高校の教科書に出てきて衝撃を受けた句なのだ。




雨が降り出す前、ベランダの黒のニチニチソウの花びらの上でシジミチョウがじっと日向ぼっこをしていた。スマホなのでずいぶん近寄ったのだが逃げなかった。ヤマトシジミ?


4日前の火曜日には86本だった芽が、今朝数えたら116本と30本も増えていた。カタログ以上の発芽率かもしれない
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