少年や六十年後の春の如し 永田耕衣
春の句集をめくっていたら上掲の句に出会った。
馬齢を重ねてきているものにとって「少年」という言葉は空に輝く太陽のように光り輝く眩しくも特別な存在で、別格本山や官幣大社が束になったって足元にも及ばないくらいの存在である。
ましてや薄汚れてしまった手を軽々しく伸ばして撫でまわせるようなシロモノではない。
まさに神々しさの象徴と言っていい。
蛇足ながらボクにもこの少年期というものは存在した。
今は…
自分の事なんかどうでもいいが、この「少年」ってのはいったい誰の事なのか。
「六十年後の春」って何なのさ。
少年というのは六十年後の春みたいだって…?????
ボクだって今、「六十年後の春」の最中にいるんだけど…
謎めいた句としか言いようがない。
謎めいていて訳が分からないけれど、なんかイイ。魅かれる。
第一、年を随分と経ているはずなのに希望を感じる。実に不思議。
作者の意図とはかけ離れているだろうが、春の次には夏が来るし…♪
腰越漁港から見る富士山
左にちょっとだけ見えるこんもりした山は江ノ島ろてっぺんに立つ展望台兼灯台
若かりし頃、この岸壁で朝焼けに染まる富士山を見ながらアユの稚魚を釣ったものだ
漁港のバックヤードではワカメを干していた 地層が浮き出た背後の崖は小動岬の崖
小動岬の東側の付け根に当たる七里ヶ浜の最西端の浜でもワカメ星が行われている
干しているのは養殖モノで、天然物はボチボチ取れるころだと言っていた
稲村ケ崎から江ノ島と小動岬、そして富士山、箱根連山さらには伊豆の山々を見晴るかす
江ノ島に渡る橋の上から眺める富士山と箱根連山、丹沢山塊
辻堂西海岸から見る富士山