書きたいことが何も思い浮かばない。
別に特段書かねばならないことが無くったって「へぇ~」とか「ほぉ~」と感じた事柄でも何でもいいのだが、そういうものも思い浮かばない。
怒りの材料はたくさん転がっているだろうに…、感動のタネだってないわけがない…、それなのになにも浮かばない。
要するにパソコンで何か作業しようと思っているのに、パソコンが全く何の反応しないのと同じような状態に陥ってしまっているのだ。
エアポケットに入ってしまったような気分である。こういう時は本当に途方に暮れるものである。
藁をもつかむ思いで昨日のことを振り返ってみる。
4時に起きていつものようにパソコンに向かい、アベなんちゃらのセコさにあきれる文章を書き、強い雨と風の中を妻に車で北鎌倉駅前まで送ってもらい円覚寺の山門をくぐって大方丈にたどり着くまでにズボンのすそはずぶぬれになり、いつもは7~80人の参加者がある坐禅会にはたったの15人しか姿を見せず…
坐禅が始まってみると大方丈のガラス戸はガタピシと音を立て通しで、大きな屋根に激しく降りしきる雨音の滝の流れのような激しい音が途切れることなく続く。
この2つの連続音以外の音はすべてかき消され、これ以外には時折、警策のビシッ、バシッという炸裂音のような緊張感のこもった音が響くだけである。
何とか呼吸にだけ集中しようとするが、気が付くと外の音に耳をそばだてている自分に気づく。
しばらくそうこうしているとフ~ッと音が何も聞こえなくなる時がある。
といっても、ああ、音が聞こえなくなったな、とはっきり認識するわけではない。何となくそういう瞬間、何の意識もないような時があったようだなぁというだけの話である。
強いて言えば、音が聞こえなくなったことにも気づかないともいえるのだが、ひょっとしたら寝てしまっているのかもしれない。
ボクのはなまくらで半端な坐禅なのである。
初めて円覚寺の山門をくぐって坐禅を体験した18歳の夏は悟りの境地とはどんなもんのかぜひ味わってみたいものだなどと思ったものだが…
達磨大師は9年間も壁に向かって坐り続ける修行をした。
そこで生まれたのが、得られたものが面壁、すなわち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」なんである。
なまじの覚悟では出来っこないのだ。
先週の日曜日も台風の接近による大雨の中を円覚寺まで出かけた。
2度あることは3度と言うぞ。
グダグダと振り返ったら1000字を超えてしまった。もうやめておく。
なんか後味良くないけれど…
ホームページに「関屋の秋丁子」という花が咲いているとあったので一番奥の黄梅院まで見に行った。シソ科の植物で茎や葉は除虫剤や香料になるそうだ。関屋とは関守のことで関所の近くに咲いていたからこの名が付いたそうな
何かは知らねど実は秋に色づく。水滴に洗われてまた違った味わいが…
鎌倉の紅葉は12月初旬だが、居士林のモミジは若干色づいてきている
けさ5:36の東の空。光の筋がくっきりと際立つとても清明な朝を迎えた
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