平方録

尊敬する大先輩が旅立たれ…

「在野の学者が20年間も知事を務めていたのだ。そこにあなたのような官庁の中の官庁と言われる大蔵省出身で環境事務次官まで務めた高級官僚が出てきていったい何をやろうというのか」

1995年1月。1人の神奈川県知事選立候補予定者の記者会見が開かれた席で、こんな失礼な質問をした。
20年続いた革新県政の後継知事選びは、あろうことか共産党を除く既成政党すべてと連合が手を結んで擁立するという前代未聞のオール相乗り型となっていた。
出馬会見はすなわち当選会見のようなもので、選挙結果は投票結果を待つまでも無く、この時点で決まったも同然だったのだ。
有権者に選択の余地も与えないような知事選挙にするとは、何と無責任な政党ばかりなんだという怒りがこみあげていたのだ。

居並ぶ各政党の県連幹部のニコニコ顔はこの質問で一瞬にして凍り付く。
聞く側の記者たちもどんな答えが返ってくるのか、かたずをのんで見守る。
この時の会見場はこの世から音というものが消えてしまったらどうなるのかということを示すかのようにシーンと静まり返ったのだ。
空気が固まってしまった。

ややあって、凍り付いたような空気を破って当の立候補予定者である岡崎洋さんはこう答えたのだ。
「私は高級官僚だと思って仕事をしてきたことは一度もありません。むしろパブリックサーバントだと思って勤めてきました」
正直なところこの答えを聞いた時はあまりいい答えではないなと思ったのだ。
しかし、その答えがまさに生身のご本人の身体の底からにじみ出てきた言葉だと分かるのに、それほどの時間はかからなかった。

知事当選後の施策推進に当たって政党などから不満が聞かれても涼しい顔をしながら「僕はあの政党のための知事じゃないですよ。県民一人一人のための知事ですよ」と意に介さなかったのだ。
そういうスタイルを貫いていたから目立つことは極端に控え、派手にならないようにさりげなく施策は推進されて行ったのだ。
その一つに騒音被害と事故の危険にさらされ続けた米海軍厚木基地の米空母艦載機による昼夜を問わない騒音問題があった。

17年度末の先月末にようやく山口県岩国基地への艦載機部隊の完全移駐が完了したようだが、遅々として進まなかった騒音問題解決の道筋を確かにしたのはほかならぬ岡崎さんである。
事務処理能力に優れた官僚出身者らしく、相手側米軍と何度も水面下で事務レベルの交渉を重ね、最後は知事自身が司令官と会談して移駐に特段の障害はないという言質を取り付けたのである。
それから紆余曲折があったとはいえ、この時敷かれたレールの延長線上が移駐完了だったのである。

この水面下の交渉は公表されることがなかったが、「表面化すれば必ず反対する人たちが現れて基地そのものの全面返還まで言い出すに決まっている。そうなれば移駐計画も白紙に戻ってしまう」というのが岡崎さんの考えだったのだ。
こんなこともあった。県の児童養護施設で入所者の生徒が職員に丸裸にされて陰部の毛を剃られた挙句、卑猥なことをされた時には知事の怒りはすさまじく、自らが被害者とその両親のもとを訪ね、畳に手をついて深々と謝罪しているのだ。
そんなことをする知事は全国どこにもいない。
革新県政末期の放漫運営が作り出した財政破綻を3年目には黒字転換させる見事な行政手腕も見せた。
清廉さと強い意志で次々に打ち出した施策は枚挙にいとまがない。

2期8年を務めた後、自身が立ち上げていた環境問題を扱うNPO財団に戻っていたが、95年7月7日の七夕の夕方、奥さんとお嬢さんを落雷事故で一瞬にして失い、お悔やみをいうボクに向かって2つ並んだ棺を目で指して「こんなものが2つも並んじゃったよ」と言われた時には返す言葉がなかった。
この時散歩に連れ出されていた愛犬は無事に難を逃れて戻ってきのだが、「2人が同時に消えてしまってはいかにも寂しかろうと犬のこいつだけは送り返してくれたんだと思う」としみじみ語っていた。
一人で愛犬と暮らすだけだったので、折に触れてボクの家にお招きし、好物だった魚と旬の野菜の妻の手料理でもてなすと、いつも嬉しそうに日本酒を飲みながら舌鼓を打ってくれたものだった。
「あれっ、もうこんな時間になっちゃったね」と言いつつ、タクシーを勧めてもバスで帰ると言ってわが家のすぐ近くのバス停から最終バスに乗って帰って行かれていたのだ。

あの広町緑地の保全のきっかけを作ったのも岡崎さんで、県の緑基金の中から買い取りのための資金を拠出することを提案したことで保全の流れが確定していったのである。
あの大桜が残ったのもそうした縁あってのことなのだ。
虫の知らせという訳ではないんだろうが、29日に岡崎さんを訪ねて世間話をしてきたばかりだった。
「国会の証人喚問は御覧になりましたか」と問うと「あぁ、見たよ。まったく、行政が壊されちゃったねぇ」とはるかなる後輩に顔をしかめ、普段と変わらぬ素振りだったのである。

31日に急変したんだという。
奇しくもこの日は米軍機の移駐が完了し日でもあり、広町緑地では残された大桜が満開になっていた時でもあった。
自宅の庭にも2本の桜があって大切にしてきた岡崎さんである。

 ねがわくは 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月のころ

夜空には満月が浮かんでいる。まさに西行法師と同じようにサクラの花に送られて旅立ったのだ。
サクラを愛し、自然を愛した教養の人らしい旅立ちだった。享年86歳。

さまざまなことを教えてもらい、励まされもしてきた。
今年は年初の大雪と共に義母が逝き、今また多大な影響を受けた大先輩が満開の花と共に旅立ってしまわれた。
悲しい春、というほかない。







まったくの再掲になってしまうが、広町緑地の満開の大桜の写真を添えてご冥福をお祈りしたい
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