今月29日に予定しているわが俳句結社「二合会」の兼題は「立秋」である。
この兼題が示された時、正直言って「あぁ、ついに来たか…」という気になった。
二十四節気には立春、立夏、立秋、立冬と4つの区分があるが、このうち立春と立夏は文句なく明るい展望を伴う「期待」の言葉として受け止めているし、立冬も"冬来たりなば春遠からじ"として、「希望」が差し込む思いだが、唯一、立秋だけは"忍び寄る曲者"以外の何物でもなく、夏を脅かす存在としてボクは嫌っている。
夏大好き人間にとって、夏の陰り、あるいは終わりを予感させる言葉はタブーにしたいくらいだし、できることなら辞書や俳句の季語集から追放したい気持ちだが、季節が廻るというのはそういうことで、これはこれでジタバタしてもどうにもならず、致し方ないとあきらめるしかない。
そういうちょっと気に食わない立秋が昨日ついにやってきてしまった。
野に山に海に楽しい夏休みを過ごし、肌も真っ黒に日焼けした小学生が休みが残り少なくなると、やり残した宿題に暗然とし、ついには泣きべそをかきながら宿題の山と格闘をしなければならなかった悪夢がよみがえる。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風のおとにぞおどろかれぬる 藤原敏行
という歌は歌でよく理解できる。
日本人がこういう感性を心の奥深くに持っているということを誇りに思うし、ボク自身、こういう感性は好きである。
さはさりながら、あの悪夢は最悪で、それが記憶の底にあるからか、立秋という言葉の響きに潜む何か急き立てられるような感じが嫌で嫌でたまらない。
が、こればかりはどうにもならない。
9:58 長谷の大仏の裏の道の1カ所だけあるすき間からちょっとご挨拶
美男におわす鎌倉の大仏さまは涼しい顔をして座っておられた
大仏さんを過ぎ、坂ノ下に出て稲村ケ崎に至る
この日は雲に表情があった
立秋の海… 富士山は見えない
七里ガ浜を経て片瀬西浜の先の引地川を渡り湘南海岸自転車道に入る
続いていた徐砂作業がようやく終わり、堆砂が一掃されたコースは気持ちよく走れる♪
江ノ島の後方、東京湾から房総半島方面に小粒ながら積乱雲の行列ができていた
西の空
東の空 そして秋の海…
秋が立ったのは暦の上だけ まだまだ夏は続く 夏と言えば、何てったって入道雲♪
13:02 帰り道の行く手には大きな入道雲が沸き上がっている
そして18:36のわが家から見た東の空
積乱雲の上部に日が当たり、オレンジ色に染まっていた
18:42 やがてその光も色も消えていった…