_フレージ(Salvatore Fresi)は、イタリア国内の所属リーグ不明のBATTIPAGLIESE というクラブに在籍しているみたいです。
彼がアトランタ五輪代表選手だった事を知って、Wikipediaにてイタリア代表の戦績を見て来ました。
メキシコ・ガーナ・韓国と同組で、最下位に終わったようです。
パリューカがオーバーエイジ枠で出場し、ネスタ、F・カンナヴァロも出場していたとは思えないです。
_パリューカとは、2001-2002シーズンにBOLOGNAでチームメイトとなりチームの躍進に貢献しました。
自身もDFながら25試合に出場し、8得点を挙げる活躍。現役生活で一番の輝きを、この時に放っていたと言えます。
_翌2002-2003シーズン、その活躍ぶりからJuventusに引き抜かれた。
リーグ開催が延期となったため、第二節から開幕したセリエA。
開幕となったATALANTA戦、バイオッコに代わり61分からボランチとして途中出場。
ロスタイムに試合の駄目押しとなる3点目をミドルシュートで決めたフレージは、3-0の完封勝利に貢献した。
しかしスタメンに、フェラーラが固定されていました。
モンテーロとユリアーノが出場機会を分け合い、なおかつトゥドールまでもが控えていた状況。
_2試合目の出場を果たしたのが、8試合目となった延期されていたPIACENZAとの開幕戦。
リッピ監督は
「厳しいスケジュールから選手達を護るために」
と、前節と7人入れ替えて試合に挑んだ。
この試合で二人目の交代として、59分にトゥドールに代わってボランチとして出場。
1-0で完封勝利に貢献した。
なお得点は68分にザンブロッタに代わって最後の3人目の交代カードとして途中出場したネドヴェドが、70分に早くも決勝点を挙げたものであった。
監督の積極的な交代策により、厳しい日程の中で勝利を挙げた試合とも言えるであろう。
そして大一番の仕事となった3試合目は、第9節のMILANとのゲーム。
2-1と、リードして迎えた86分。
守備のリーダーであるフェラーラに代わって、センターバックとしてピッチに投入されます。
この試合でも試合を引き締めて、勝利に貢献しました。
4試合目となったのは、第16節のREGGINA戦。
3人目の交代カードとして、80分に4-0と大差でリードしている場面でダーヴィッツに代わってボランチとして出場しました。
この試合は86分にディヴァイオが5点目のゴールを挙げ、5-0で完封勝利に貢献しました。
この後、第21節までベンチ入りすら果たせませんでした。
続く第22節で5試合めの出場を81分に3人目の交代カードとして、カモラネージに代わって3-1のスコアで投入されました。
直前の79分にコモのベッキアによってゴールを決められて、2点差に追いつかれた事で出場機会がまわってきたようです。
首位を勝ち点で並ぶ形で対決した、第23節のインテル戦ではベンチ入りを逃した。
相手のOGによる先制点から、カモラネージ、ネドヴェドがゴールを挙げて3-0で勝利しました。
続く第24節UDINESE戦ではベンチ入りに留まりましたが、第25節MODENA戦はベンチ入りを果たせません。
第26節のMILAN戦では4分にシェフチェンコにゴールを割られるも、10分にネドヴェドが試合を振り出しに戻す同点ゴール。
しかし、25分にF・インザーギに追加点を許して追いかける展開の中、46分に左サイドバックに入っていたザンブロッタに代わって、デルピエロを投入。テュラム・フェラーラ・モンテーロの3バックで戦います。
さらに、61分にはサラジェタに代えてトレザゲ。
69分にはモンテーロに代えてペッソットを左サイドバックに回します。
トゥドールが、モンテーロの位置に入り4バックへ。
勝ち逃げの状況であれば出場機会は得られたかもしれませんが、先行された時点でフレージの出場機会は失われたのかもしれません。
この後優勝を決めた第32節まで、ベンチ入りすら果たせない日々が続きました。
しかし優勝を決めた次の第33節では、初めてユヴェントスでスタメン出場を果たします。
そしてユリアーノ・フレージ・モンテーロの、3バックのテストも兼ねていました。
しかし17分にディミケーレに先制点を許し、フレージ出場時の無失点記録がここで途絶えます。
しかし、23分にサラジェタがシーズン2点目の同点ゴールに追いついてスコアが動かぬまま後半へ。
47分にブッフォンがプレー中に右肩を痛めたためにリザーブのキメンティと交代。
その隙を突かれ、中村のCKから51分にボナッツォーリのヘッドで2点目が決まり、再びリードを許す苦しい展開。
56分に反撃の狼煙として、カモラネージに代えてオリベーラ投入。
70分にパーロに代えて、ザンブロッタ投入するも2-1で敗戦。
残留争いを戦っていたレッジーナにとって、大きな1勝を金星という形で与える事になってしまった。
フル出場は果たしたものの、悔いの残るゲームとなった。
最終節となった34節、CL決勝に備え。
優勝を決めたのもあり、主力を温存するメンバー。対するCHIEVOはUEFA杯出場を賭け、5位でのフィニッシュをうかがうべく勝利を目指します。
この試合フレージは、ボランチとして初のスタメン出場。
試合は15分にサラジェタがシーズン3点目となる先制ゴールを挙げ、1-0で後半へ折り返すと、リッピは動きます。
ハーフタイムでフェラーラを下げ、フレージがセンターバックへシフト。
ピリンデッリはCHIEVOのルシアーノ対策に左SMFとして入れました。
56分に再びサラジェタがシーズン4点目となる追加点を奪いスコアは2-0。
ここでリッピ監督は動きます、なんとテュラムに代えてザンブロッタを投入。
ザンブロッタがテュラムの右SBに入ります、しかし62分、これが引退試合となっていた元ドイツ代表ビアホフが意地の一発で2-1。
ここで3枚目の交代カードを67分、リッピは切ります。
ディヴァイオに代えてトレゼゲを投入、早速それが69分のトレザゲのゴールに結びつきます。
これで3-1とし、70分にはコンテを倒してしまったCHIEVOセンターバックのダンナがレッドカードで退場。
ここから10人で戦います。逆に闘争心を燃やしたのがビアホフ。
74分、78分に連続ゴールを決めてハットトリックで試合を3-3の振り出しに戻します。
しかし11人対10人の差は87分に、C・ゼノーニのゴールという形で現れます。結果、4-3として辛くも勝利を掴んだのでした。
結果ボランチと、バックラインへの保険という立場で9試合に出場。
スタメン4回、途中出場5回の中、442分間の出場に終わりました。
しかしこの年にチームが得た経験スクデット、CL準優勝を考えるといい時期にチームに加われたのだと思います。
2003-2004シーズンは残留争いをしていたPERUGIAにレンタルされ、ラヴァネッリと共にシーズン途中から加入しました。
結果、プレーオフに回るも残留に失敗、個人成績は11試合2得点に終わりました。
私はこれ以降は、フレージの存在を忘れてしまっていました。
なぜなら翌2004-2005シーズンはセリエAの桧舞台から降り、セリエBのCATANIAに移籍したからです。
さらにスタメンを勝ち取れず、6試合の出場に留まった事が最大の理由です。
翌2005-2006シーズンはSALERNITANAへ、3度目の入団を果たしました。
ここでも6試合の出場に留まった事で、セリエBからも去っていった様です。
_フレージとディヴァイオは、98-99シーズンに、SALERNITANAでチームメイトであった。
なおデリオ・ロッシ現LAZIO監督が、この頃に監督であった様です。
なおユリアーノともフレージはSALERNITANAで、94-95年シーズンにチームメイトとであった。
セリエAではチーム作りにおいて、元チームメイト同士を集めたりする補強が一般的です。
また監督との相性も考えて、指導を以前に受けた事も補強の焦点になります。
_戦術やチームの形を考慮するに当たって、選手のパーソナリティは勿論、見過ごせない要素の様です。
95-96シーズンに、フレージがINTERに移籍を果たした。
_翌96-97シーズン、今度はユリアーノはJUVENTUSに移籍して2003-2004のシーズンまでで187試合7得点の記録を残していた。
_2004-2005のシーズンは構想外となり、シーズン中にMALLORCAに移籍した。
そこで大久保とチームメイトとなり、INTERで監督を務めた経験のあったクーペルに請われての移籍であった。
残留争いの中、15試合に出場し1得点を挙げた。
_2005-2006シーズンはSAMPDORIAに移籍するも4試合の出場に留まっていたため、再びMALLORCAに復帰し14試合で3ゴールを挙げDFながら貴重な得点源ともなった。
2006-2007シーズンはMESSINAに移籍、JUVENTUSを離れて以来の、2度目のイタリア帰還。
ここで21試合に出場を果たし、ゴールは無かった物の復活の狼煙を上げた。
現在は、所属リーグが不明ですがBATTIPAGLIESEというクラブに在籍しています。
2017/11/14 再編集
2023/01/02 微修整
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