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榛名古道

ブログでは「榛名古道」と名乗っています。

今昔マップで辿る古道の変遷 ~スルス峠の道を例に~

2022-05-23 13:12:44 | 榛名古道

「今昔マップ on the web」 は明治時代からの五万分一地形図を現在のものと対照させながら見れるウェブ上の無料のサービスです。様々な用途がありますが、この記事では「今昔マップ on the web」を使って、スルス峠の道を例に古道の変遷を辿ってみたいと思います。ここでの方法論は榛名山に限らず他の地域にも適用できます。

スルス峠の道については以前の記事をご覧ください。


「今昔マップ on the web」で、 日本地図をクリックすると左画面に昔の地形図が白黒で、右画面に現在の地形図がカラーで表示されます。左画面の榛名山のあたりにカーソルを合わせると左画面の右下にこのように表示されます。

1/50000「榛名山」
明治40測図・大正2.11.30発行

これは今昔マップの基になっている五万分一地形図を表しています。明治40年測図というと、上の記事に出てきた二万分一地形図「榛名湖」「榛名山町」「柏木澤」と同じですので、五万分一地形図「榛名山」もそれらと同じデータを基に作成されたと考えられます。

それを裏付けるように、「今昔マップ on the web」でスルス峠付近を拡大して見ると、片方実線片方破線の道が二万分一図「榛名湖」とほぼ同じ形で見えます。目立った違いは二万分一図ではC1の手前で土の崖記号を横断しているのに、五万分一図では横断していないことです(他にも違いがありますが、後述します)。

「今昔マップ on the web」は二万分一図より縮尺は当然粗いですが、二万分一図でカバーされていない地域もカバーされていますし、左の画面で道の表示をカーソルで追うと、右の画面で現在の地形図における位置を知ることが出来るという使い方が出来ます。



ここからはいよいよ「今昔マップ on the web」で時間軸を移動していきます。右画面の右上のメニューの「地理院地図 ⅴ」の「ⅴ」をクリックしてスクロールダウンして

現データセット
 1928~1945年

を選択します。これで右画面が

1/50000「榛名山」
昭和9年要修・昭和15.11.30発行

の図になりました。明治40年が1907年で昭和9年が1934年ですから27年後の図ということになります。

道の表示がが片側実線片側破線から単線の実線に変わりましたが、これは道路の地図記号の図式が変更されたからで、昭和9年図では道幅1m以上2m未満の道を単線の実線で表示するようになったのです。片側実線片側破線として表示されるのは道幅2m以上3m未満の道です(「登山者のための地形図読本」97ページ)。

明治40図と昭和9図におけるスルス峠の道を比べてみますと、大きな違いが3カ所に見つかります。

一、等高線480m付近(黒髪神社と物見塚の間)

二、等高線840m付近(ガラメキ温泉付近)

三、等高線1120付近(スルス峠付近)

順に見ていきます。

一、等高線480m付近

明治40図では黒髪神社からスルス峠に向かう道に分岐は描かれていないが、昭和9図では松原からの新しい道(2m以上3m未満)が出来ており、元々の黒髪神社からの道(1m以上2m未満)より太い。

ここからは「スルス峠の道の起点はどこか?」という話になります。黒髪神社を起点とすることもできますが、スルス峠の道を物資輸送の道と考えたとき、その物資はもっと麓からやって来ているわけで、このブログでは起点を下小鳥にある三国街道の道標とします。

三国道の道しるべ

「三国街道」は公儀(幕府)が整備した道であり、ルートが明確に定義できます(公儀の道は群馬県内にほかに中山道と日光例幣使街道があります)。一方、「伊香保街道」や「信州街道」といったものは「街道」と名が付いていも俗称であって、始点・終点やルートに複数の解釈があり、明確に定義できるものではありません。前述の黒髪神社は伊香保街道の一ルートからスルス峠の道が分岐する地点ですが、伊香保街道自体の定義が揺れていることもあり、このブログでは起点とは捉えません。

その伊香保街道からの分岐の手前、黒髪神社の東南に柏木宿(柏木沢の宿)があります。現地に建っている「柏木宿の由来」という案内板には

「[柏木宿の]繁昌は明治二十六年(一八九三)高崎―金古―渋川間に馬車鉄道が開通し、旅人の流れが急速に変わるまで続いた」

とあります。この旅人の流れの変化に伴い、柏木宿の物資輸送の中継地点としての役割も低下していったものと考えられます(「急速に」と言う割には明治40図ではその変化が反映されてるように見えませんが、旅人の流れと物資輸送の流れにはタイムラグがあったのかもしれません)。そして柏木宿が担っていた機能は、この付近の中心地である箕輪町の西明屋に代わられた。・・・こんなふうに考察していくと、昭和9図における松原からの新しい道は、そうした物資輸送の流れの変化を表しているものと読み取れます。

まとめますと、もともと

下小鳥(三国街道道標)=>柏木宿=>黒髪神社=>ガラメキ温泉付近=>スルス峠

と通っていた人や物資の流れが、柏木宿の衰退の結果、昭和9年頃までには

下小鳥(三国街道道標)=>西明屋(箕輪町の役場がある)=>松原=>ガラメキ温泉=>スルス峠

と流れが変わったことが読み取れるのではないかと思います。

二、等高線840m付近

明治40図ではスルス峠の道からガラメキ温泉へは支線(脇道)へ入るように描かれているが、昭和9図ではスルス峠の道がガラメキ温泉を通っているように描かれています(二万分一図「柏木澤」では両方の道が描かれている)。

「群馬縣群馬郡誌」

のガラメキ温泉の項にこうあります。

「泉質は鹽類泉にして、先年分析の結果、慢性僂麻質私・疝痛・神經痛其の他慢性皮膚諸病に効驗あること明らかなりしを以て、一層の入浴者を增加し益々盛運に趣けり。 」

大正14年発行ですから、「先年」というのは大正後期と思われます。ガラメキ温泉は主に麓の農民が農閑期に利用していたと聞いています。スルス峠の道を通って物資を運ぶ人は当初ガラメキ温泉をバイパスしていたものが、先のように温泉の利用客が増えたことにより、物資を運ぶ人もガラメキ温泉で荷の上げ下ろしをしたり温泉で休憩するようになったと考えれるのではないでしょうか。

三、等高線1120付近(スルス峠付近)

明治40図のスルス峠の標高を示す「1129」の数字の右の「1」の文字のすぐ上にある曲がった線は道とも等高線ともとれます(二万分一図「榛名湖」ではそこに道はなく、道は標高を示す数字に隠れていますが鞍部を通っているように見えます)。昭和9図では道がありますが、明治40図の曲がった線より僅かに東にあるように見えます。

このことに気づかれたブログの読者の方が現地を調査して大発見をなさったのでコメントから引用させていただきます。

長くなりますが、一つ新たな疑問が沸きました。 
かつてのスルス峠から下りの取り付き口は、現在多くの人が入る所ではなく、もっと東の東屋がある近辺であったのではないか?
貴兄から教えてもらった今昔マップや陸軍の地図等を眺めていると、どうもルートが違う!と。

(中略)

 一昨日・昨日と「峠の古道」探索に行って来ました。

(中略)

 まず「峠の下り入口」は別にもありました。(2箇所?)
現在多くの人が入るところから、尾根筋を東へ20m位上った所に、崩落防止のための階段状の石積みがあります。そこの左側に東側へ緩やか入っていく道があります。踏み跡はなく、笹原ですが、樹木もなく地形的に約2m位の幅の平らな道の跡が続いています。そして50m位進むと、左側の斜面の上に「馬頭尊の石碑」(明治32年建立;世話人5名と外馬持連中)があります。地形図上「スルスのス」の岩の北、標高約1113mにありますが、道よりかなり高所にあるので大概見落とすでしょうが、その数m先に、左斜面から下ってきて、石碑の後ろを通って合流してくる道があります(ここも歩いたので石碑に気づきました)。こちらの道は、あずまやと石積みの間で、「関東ふれあいの道の道標」(左;ヤセオネ峠・右;榛名神社)が立っている場所からです。道標の後側へ立ち入っていく左へ進む道がみつかります。
こちらは下り坂ですが道幅は十分にあります。

(中略)

そもそも、荷駄を積んだ馬を通すには、1間(1.8m)位の道幅がないと厳しいでしょうし、主たる街道なら、すれ違いが生じた時に、道を譲るために安全に退避できる地形であること(道の左右の斜度が大きくないこと)。そう考えると、現在スルス峠としてメインルートとなっている西側の下り口は、荷駄馬には不向きだった!と思います。

(以下略) 。

明治32年の石碑と、その前と後ろに二本の広い道を発見されました。

今昔マップにこじつけると、石碑の前のルートが明治40図の曲がった線で、石碑の後ろのルートが昭和9図となると思います。そして、それらと二万分一図「榛名湖」との違いには二つの可能性があると思います。

可能性A

二万分一図に反して、最初から道は石碑の前のルートを通っていた。人馬の交通量が増えたので更に広い道にするために上り下りのある石碑の後ろに付け替えた。

ただ、昔の人が「遠くからも目標にしやすい鞍部」ではない別の場所に道を通したとは考えにくいと思います。

可能性B

もともと鞍部に付けられていた道を、人馬の交通量が増えるにしたがってより広い道を通せる場所に二度にわたって付け替えた。

石碑が建てられた明治32年に最初の付け替えが行われていたが、二万分一図には反映されなかった。



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23 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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県の調査 (榛名古道)
2023-06-15 14:30:53
県教育委員会の調査が読めるところを見つけました。

https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/101990

三国街道の巻もあります。(私は三国街道の下小鳥にある道標からスルス峠の道が分岐すると見ています)

https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/101969

そして「信仰の道」に参考文献として出ていたのが、

「群馬県立歴史博物館調査報告書 第1号」(1985)の中の

「上野国相馬山をめぐる庶民信仰」

ですが、読めるとことが見つかりませんでした。県内の図書館には入っているとことがあります。
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Unknown (garamekion1000(山はこれから))
2023-05-13 01:57:55
県教委の調査があったということは、新聞報道(?)で存じています。またHPであったか別の記だったかと思いますが、
調査した榛名の信仰の道は、現榛名神社から湖畔へのルートの調査(天神峠方面?)を中心にしたものと聞き、黒髪ルートとは異なる地域の調査であったと思yい、調査報告書へは目を向けませんでした。
黒神山信仰に関しても触れられていたのですね。
探して当たってみることにします。

相馬が原の御嶽塚は、現在、自衛隊の小施設があるようです。そこに建っていた石碑は、黒髪山神社社殿の横にある現在の新しい石碑の前に、破片(「嶽」の字の部分)が置かれています。ただの石だと見過ごしていました。
戦後の建立の 新しい黒御影石で「御嶽山神社」という石碑がなぜここにあるのか?奇異な感は持ってはいたのですが、御嶽信仰の神社だからか、と思い、それ以上は気にしなかったのですが、平成20年頃に活動した「相満山史跡研究同好会」という自衛官達のサークルが調べた冊子で、かつての石碑を黒髪山神社に下ろしたということを知り、あたためて現石碑をよくよく見たら、碑の前に文字が彫り込まれた石があり、これが現地にあった旧碑の一部なのだと判りました。
この会(自衛隊員のサークル)は、今はないそうですが、会長さんは群馬県内にお住まいで、ガラメキ温泉の保護活動等でご活躍されているらしいです。
ガラメキ温泉のヒューム管が埋もれていないのも、会長さんやその後輩たちが、大雨等で自然に流れてくる川原の石を除けたり、流路を作ったりしてくださっているので、温泉湧出地点付近が現況のようになっているようです。
因みに、現在の湧出口のヒューム管は、中村智昭氏が、昭和40年頃に埋めたものだそうです。(その経緯は講演にて)
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歴史の道 (榛名古道)
2023-04-24 16:34:47
山はこれからさん

本当に長らくお返事していませんでした。申し訳ないです。

群馬県教育委員会が出している「歴史の道調査報告書」(全20巻)をご存じでしょうか。県内の古道探索愛好家必携のシリーズと言ってよいです。その中の「信仰の道」という巻の3分の1が榛名山でして、私は図書館にあったものを全頁コピーしています。(さらに「三国街道」や「信州街道」の巻も見ておくとよいと思われます)

通常、防衛上の観点から演習地内の写真撮影は禁止だと思われますが、県の調査だからなのか、その神社記号があった場所の写真もあります。

そもそも明治の黒髪山信仰は御嶽信仰の人たちがひらいたものだったようです。

参考サイト:
相馬山
http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%9B%B8%E9%A6%AC%E5%B1%B1

それに、「御嶽信仰 宣託」で検索していただくとお分かりになると思いますが、行者に神様が下りてきて語る「宣託」というのが御嶽信仰の大きな特徴となっているようで、黒髪山でも同じことがあったという資料を見たことがあります(その資料を図書館のデータベースで検索しているのですが上手く出てきません)
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Unknown (garamekion1000(山はこれから))
2022-12-29 02:11:08
なるほど!榛名山とは、神社周辺。
西明屋から善地を経て地蔵峠の先。そうですね。
迅速測図が東・西明屋から西側がないのが、残念です。

(別の話題ですが、関連がなくもないので)
黒髪神社から現演習地内を物見塚へ向かうルート(~1945地形図の502地点の北)に神社記号が記されています。ワタシはてっきり大平開墾の人たちが祀った神社であろうと思っていましたが、どうもそうではないらしい。
ある人の研究によると、現在黒髪神社社殿西に建っている「御嶽山神社霊神婢」が本来あった地だとか。そしてそこは(同じ山岳信仰としての)黒髪神社の中宮であったと。
想像してみれば、信仰者は南側の街道筋から坂を登って参拝。大平地区に開墾に入った人たちからは、南側の耕作地の先の小高い丘に山岳信仰者の祠か石碑が建てられている。といった感じだったのかも。
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訂正 (榛名古道)
2022-12-27 17:36:24
>明治20年代以前に人が住んでいたのはほぼ榛名神社の社家町だけだったと思われます。



「明治20年代以前(つまり室田村となる以前)に人が住んでいた土地のほぼ上限が社家町だったと思われます。」

に訂正させてください。社家町より下には他の集落がありました。
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補足 (榛名古道)
2022-12-27 14:18:20
江戸時代に「榛名山」と言えば即ち満行宮の社地のことであり、それは榛名湖周辺にも及んでいましたが、あくまで中心地は今の榛名神社のあるところでした。ですから「榛名山全図」をうたいながらあの範囲の図なのです。

明治になり満行宮が榛名神社となってからは社地が縮小されて榛名湖周辺は外されたようですが、明治20年代になるまで榛名湖周辺に人が住んでいなかったのは、人々の意識がそこが社地であった江戸時代のままだったからではないでしょうか。ですから明治19年で言う「榛名山」も依然として神社のある場所のことを指していたのではないかと推測するのです。
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Unknown (榛名古道)
2022-12-27 13:41:23
山はこれからさん

「榛名山村」は現在の高崎市榛名山町と榛名湖町を合わせた区域で、明治20年代以前に人が住んでいたのはほぼ榛名神社の社家町だけだったと思われます。明治22年に上中下室田村と合併して室田村となっています。

(Wikipediaより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E7%94%B0%E7%94%BA


演習場も昔(といっても戦後)は地元の人が割と自由に中を通れたという話を聞きました。
地元の人の榛名湖までのルートは特にA渓谷の西の崩壊地点の後、迂回して元の馬道を辿っているのか、それとも別のルートだったのかは気になります。

前橋~金古のルートも使われ続けたことは想像できます。距離でいうと前橋からも高崎からとほぼ同じです。
ですが、伊香保街道、信州街道、そして三国街道という諸街道の存在から、榛名湖周辺は前橋より高崎との結びつきがより大きく、それ故通行量も多かったのではないかと私は推測します。
(もっとも、五万図での道の太さの表現が実際の通行量を反映していない可能性もありますが)

明治迅速測図の「榛名山」の記載、ご指摘ありがとうございます。気づきませんでした。

江戸時代までは「榛名山」と言えば榛名神社(とその周辺)のことを指しました。これは他の山でも同様で、例えば「根本山」は現在のように山頂ではなく「根本山神社」を指していました。

(下の高崎市のサイトの「榛名山全図」も全図と言いながら神社周辺の図です
https://www.city.takasaki.gunma.jp/docs/2013121900249/


明治迅速測図は明治19年に完成していますから、ここでの「榛名山」も榛名神社周辺を指しているのではないかと思います。
つまり、箕輪~地蔵峠~榛名神社のルートを表しているのではないかと。

「榛名山」が榛名神社周辺でなく、今のように榛名湖周辺を指すようになった時期は、やはり明治20年代に湖周辺に人が住むようになった以降のことだと予想します。数年~数十年のタイムラグがあったのかもしれません。

C8~C7間ですが、当初二万分一図で全国をカバーする計画だったのが頓挫し、その調査時のデータをもとに五万図が作られていると聞きましたので五万図は二万図を簡素にしたものだと思っていましたが、
馬頭観音の石碑を発見された時の例がありますから、探究しがいがありそうです。
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Unknown (garamekion1000)
2022-12-27 00:40:35
本文「一」の低位部の主要ルートには、大筋で同意します。
それでも、物見塚へ向かうのに黒髪神社里宮を通るルートは、前橋~金古方面からの主要ルートであり続けたであろうと推測しています。
今昔マップで「明治迅速測図」を見ると、高崎から箕輪への道は「榛名山ー高崎駅」井手から宿は「伊香保村ー高崎駅」と記されています。高崎からみれば、小鳥で分岐して箕輪経由が「榛名山道」。井手・宿・黒髪神社経由が「伊香保道」であったように思われます。
榛名湖畔が拓けるにつれて、高崎との物流や人の往来が盛んになり、相馬が原を通るルートも、短距離で物見塚まで登り上げるルートがより拓けてきたのではないかと思います。
「三」の最上部については、ワタシが執着している箇所ですが、C8~C7間に、別のルートを想定もしています。
二万分の一図が示すC7辺りには、確かに道跡があるので間違いないよ思うのですが、五万分の一地形図は、さほど西へ行かないで、早目に曲がって直線的に下っていますね。
【仮説】になりますが、C8を曲がった先の崩落ガリへ出る手前で、左へ曲がるルートがあるのでは・・。と考えているのです。実際、その部分は、左へカーブしているようにも見えなくもないのです。
しかしそのすぐ先、大石・岩が地面を覆っていて、道ではないのです。でも、この部分を抜けて緩やかに下っていくと、直線的に下る窪地道(?)ーC5~C4と想定したい箇所ーの上部に出られます。
この岩場さえなければ、西のC7回るより、ずっと近い!と思うのです。(二万分の一図で明らかにC7・C6?・C5?に想定されるルートを見つけているのですが・・・。そことは全く別です)
もしかして、ある時、大岩・大石が崩れて道を塞いでしまったのでC7へ回るルートができたのかも?とも考えますが、地図の時系列(新旧)では逆になるので、信憑性がないのですね。
ともかく、来春、含みながら再確認してみたいと思っています。
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Unknown (garamekion1000)
2022-12-20 23:17:15
榛名古道さんの文献資料の検索・研究力には、刮目しています。
「湖畔に人が住み出したのが明治20年代」
時代背景等を勘案すれば、納得の時期ですね。
明治初期に、桃井郷と相馬山論を争った「榛名山村」の人々とは、主に山合(現榛名神社周辺?)の住人だったのでしょうね。
スルス道についても、山仕事や古くからの僅かな物流や通信のための道筋はあっても、荷駄が行き交うような街道としてのスルス道(私見では1間幅)は、せいぜい50~60年間使われたに過ぎないということですね。 その栄枯盛衰に哀感を覚えると共に、それから80年近く過ぎた今、ここがその道の痕跡だ!と勝手に推測している所が、本当にそうであったか?その後の自然の力で偶々道のようになっただけなのではないか?と、不安にも思います。
もっとも、昭和30年代には、山仕事(薪採り)も行われていたでしょうし、山辺の子供が榛名湖へスケートに行った(ワタシの同級生も)等、耳にすると、それなりに使われてはいたようですね。
同級生の話は伝聞なのですが、人物が特定できるので、取材すれば、貴重な情報が得られると思います。おそらく演習地内の旧大平地区を抜けて、物見塚からガラメキ跡や表口石標経由で、スルス峠を越えて湖畔と往復しているので、何処を通ったか?(特にA渓谷~スルス峠は、現行の泣き掘りをかすめるハイク道ルートを使ったか?ワタシが辿ることに執着している旧道を使ったのか?)
そういいながら、ワタシ自身は、古道探索は、6月以降自身の時間が取りにくくなり、入山していません。
落葉して、見通しがよくなった冬から春、探索再開したいと思っています。
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Unknown (榛名古道)
2022-10-27 14:03:51
赤城山の場合、猪谷六合雄さんの著作によって開発初期の様子を伺い知ることができますが、榛名山の開発史の資料というと見つかるのはこれくらいです。

良好な自然環境を有する地域 学術調査報告書
http://www.gmnh.pref.gunma.jp/research/gunma-rese/report_environment/reportenv_no44

リンク先の上から五つ目のPDFの38
と39ページに榛名湖周辺の歴史が短いですが載っています。「榛名湖畔に人が住みつくようになったのは明治20年代」とあり、山はこれからさんの発見した馬頭観音の碑もそれから遠くない時期のものであり、他の資料が少ないだけに貴重な発見だと思います。
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Unknown (山はこれから)
2022-07-10 15:01:09
相馬山、右京のムダ堀
https://yamap.com/activities/10621844
の記については、9枚目のせせらぎが写っている画像が、右京の穴から下流側を撮った画像のようです。その前の2枚の画像は撮影場所が途中の山中に関連つけされていますが、ミスのようですね。
峠鞍部から西側(右)の岩に沿って下り、岩が終わったら「右側(西)の沢」に回り込むように下りると「右京窟」です。ほぼ1年中水が流れています。沢の下流は深く抉られていて、右岸は植林地、左岸は篠原で広葉樹が生えている「夕日河原地区」です。峠鞍部下のこの西側の峰をスルス「西大黒岩」。50mほど東の大岩峰(岩マーク3つ)をスルス「東大黒岩」と、ワタシは名付けています。
鞍部から右京の近くまでの間が急坂(以下A渓谷まではなだらかな)で、徒歩ならなんでもありませんが、荷駄にはきついので、東大岩より東側の荷駄のルート(古道)がつけられていたのでしょう。
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Unknown (山はこれから)
2022-07-10 06:20:29
主題の古道からは外れますが、
「右京~十字渓中股」は間違いないです。最近、十字渓から、谷筋を認識しながら、左岸の道なき笹原を上ったことがあります。右京~十字渓は深いU字谷で、左岸側からの大きな合流筋はありません。
この左岸の右(東)側に小峰があり、日当たりのよさそうな所ですが、木も少なく笹も短い区域です。地形図でも、等高線が突き出ています。峠鞍部からみて西側の岩(この西岩が終わった所を右(西)に回り込み沢に出ると右京)から続く分水嶺です。
この峰筋の東側に、笹の繁ったガリがあり、下るとA渓谷へ続いています(もう1本ありますけど)。このガリを上ると右京・鞍部からA渓谷へ向かう現行のハイク道(メイン道)と交差します。
この中股の沢左岸から現行道が斜めに横切る地域は、広葉樹が大きくなってきてはいますが、それでも幹の太い大木がみられない。樹齢はわかりませんが、結構近年(50~70年前)まで、原野であったように思われます。
・火入れが為されていたのか?
・権利関係は抜きにして柴刈(秣採集)がされていたか?
・あるいは米軍接収期に火事でも起こったか?
・・・。
ここより東方の、古道探索している地区にも、疎林の地域がありますね。
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Unknown (山はこれから)
2022-07-09 16:57:58
直線距離にすれば300m程度の区間ですが、何回も入り込んでみても、見つからないし、貴兄のポイントですら未だに不明点がある状況です。
草木が生い繁ってしまったので、実地踏査は秋以降にします。それまでにワタシの踏査したことをまとめてみようと思っています。
A渓谷からの取りつき部はC1~C3については、ワタシの①と同じ見解ですね。ワタシも①が有力と思っています。そして、ここを削った沢の上流部は、C7~C6間のU字谷で、下りでみれば、C8を右へ回り込んだ先の崩落部が源流ですね。
C8からこの崩落部へ出る所は小切通しになっていて、尾根筋の岩が、(下り道として見ると)右から左へ続いていますね。この尾根筋は、(ワタシの推定の)C6?の所で終わります。この「C6?」のそのすぐ東に小土手に囲まれた道であるかのようななだらかなガリがあります。これが古道だったといわれれば納得してしまいます。このガリは少々上部で消えます。この辺りはなだらかです。ここが気になり、一つの仮説が立つのですが、それについては後にしますね😅
返信する
Unknown (榛名古道)
2022-07-07 14:11:07
山はこれからさんの方が詳しくなられたので私に聞かれてもという部分はありますが、

C3が見つからないことについての私の推測

C1=A渓谷の徒渉点で、右岸に黄色い「保安林」の標識があります。A渓谷の右岸をわずかに下ると右上(下流方向)に登っていくスロープのような地形があり、青い目印が続いています。探索図2のQ地点です。

最初は「整備された道(つまり古道)」と思いましたが、そのスロープを登って右に90度曲がると、すぐに進行方向の右前から左後ろに深いガリが横切っていて、道がなくなります。ガリの上流側の対岸に青い目印が続いていますが、両岸は険しく馬は通れなそうです。「整備された道」からすぐの難所。

このガリが、戦後に出来たものなのではと推測します。米軍の占領地の中だったので道拵えができない時期だった(そもそも道が通れなかった)上に、返還後も馬が使われなくなったので道拵えがされずに今に至っているのでは。それで、馬の通れない迂回路が勝手に付けられている(ガリの対岸の青い目印のルートもその一つ)。

そうすると先の「右に90度曲がる」がC2で、C3はガリが出来たことで崩壊した、あるいはガリでC2以下と分断されてヤブの中にある。C3から先もヤブになった。C4もヤブの中(あるいは「I」地点がC4で、展望がいいので通る人がおり、そこだけ道が残っている)。

黄色い標識の上の台地にある道跡について

C3C4あたりだと思われます。前後に崩落地点があり、そこだけ道が残っているのでは。そして迂回路の踏み跡がいくつもある。候補の①に近いのかと。あの付近は地形の変化が激しいのだと思います。
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Unknown (榛名古道)
2022-07-07 13:19:47
A4について

現地での調査はしていませんが、1050の等高線の四角の左上の角から北西の、1070のくぼみのことと思われます。ただのくぼみで沢ではない可能性はあります。

C6C5について

私が発見できなかった道跡を発見なされたようです。
「木が繁った」というのが私が迷ったFG間辺りで、「道っぽいガリ」というのが探索図1で言うGあたりではないかと思われます。
返信する
Unknown (harunakodou)
2022-07-07 12:59:06
A2について

現行の地形図の峠南東の三つ固まった岩マークの右脇と思われます。C8からC9の間の道はA2の源頭より上を通っていて、その下でも道はA2と出合いません。図を見るとA渓谷本流と出合う前に別の谷に吸収されているように見えますので、道探索の目的から言うと重要度が低いです。

A3について

谷に沿って上り下りしていませんが、A1とA渓谷の間の最も大きい谷であることから、探索図2のOQ間で右(山側)から直角に出合うササのついた谷/ガリがあるのでそれではないかと思います。

明治40図について

この地域だけでなく、等高線はすべてズレていると言っていいです。ですが、空中撮影もなかった当時の地形図の作成方法を知ると、この程度のズレで済んでいるのは奇跡的と思えます。
(逆に道は時間をかけて踏査されてるので、戦後の地形図より確度が高い。)
個人的には等高線は「1100=>1110」というように10mくらいづつ嵩上げして読んでいます。

C8とC7の間について

   ガ ―C8
 岩 レ
   場
C7―

こんな風になっている箇所があります。ガレ場は近年の崩壊でできたとしても、小さく二回切り返さないと馬が通れないような急斜面です。切り返しが小さすぎて図に表せなかったのか、それともルートが私の想定とは別のところを通っていたのかも知れません。
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Unknown (榛名古道)
2022-07-07 12:04:45
>前橋からなら金古~黒髪山神社ルート

「歴史の道調査報告書 信仰の道」の58ページに群馬町北部や榛東村、前橋の人は榛名神社に行くのにスルス峠を通ったとあり、明治時代以前からスルス峠が用いられていたようです。
それは明治に作られた馬道とは異なるルートだったと考えられます。おそらく遠くからも目印となる鞍部を通ったと思いますし、ガラメキ温泉も経由したかも知れませんが、それ以外は手がかりすらありません(黒髪神社すらなかった頃です)。

A1について

スルス峠から右京まで谷を上り下りしたことがないのですが、ヤマップを見ますと右京=十字渓の中俣の源頭部の情報と、右京=A1=鞍部直下の両方の情報があります。

相馬山、右京のムダ堀
https://yamap.com/activities/10621844
ジョーズ岩~スルス岩~右京の泣き掘-2021-03-27
https://yamap.com/activities/10396164

二つの記録の右京の位置はかなり違います(上の記録は写真の順番が違っている?)。

ヤマレコだと中俣の記録があります。

相馬山 黒髪尾根(修験の道)
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-3755352.html

私がhttps://blog.goo.ne.jp/harunakodou/e/9a7cc9327b11670e0a138932dfc845b5
の青いルートを通った時の経験からも、中俣には上流でも水があった(沢音が聞こえた)けれどA1は水のない小谷だったので、右京は中俣の源頭ではないかと思っています。
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Unknown (榛名古道)
2022-07-07 11:25:15
山はこれからさん

間が開いてしまいましたが、いくつかに分けてコメントを返したいと思います。

石碑の裏のルートは整備したのではなく、ショートカットというのは肯けます。

「道拵え」は榛東村誌の728ページにもありますが、祖父母世代のお話が聞けたのはよかったです。

ですが、私は別の説を立てたいと思います。

良好な自然環境を有する地域学術調査報告書 44
http://opac.city.takasaki.gunma.jp/opw/OPW/OPWSRCHTYPE.CSP?CHGIMG=0&DB=LIB&FLG=LIST&HOLD=NOHOLD&HOLDSEL=2&LID=5&MODE=1&PAGE=1&PID2=OPWSRCH1&SORT=-3&SRCID=1&WRTCOUNT=10

の39ページにこうあります。

「磨墨峠・相馬山分岐から磨墨峠に続くなだらかな尾根周辺には、二次林中に防火帯が設けられていたことで小規模な草地が維持され、」

「防火帯」は一般に「カヤト」と言われるものです(“火や止”の意か)。かつて道拵えしていたところを、戦後は道ではなく別の目的のカヤトとして維持したとは考えられないでしょうか。
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Unknown (garamekion1000)
2022-05-27 00:02:52
↓「別視点」と言いながら、地図ではほぼ鞍部に通じる道が記されていますけど・・・😨💦
それに、今昔マップでは「1129」の数字に掛かっていてハッキリしませんね。等高線のようにも見えますし。
現況は?ですが、前記の2箇所と鞍部から左折していくルートと、どれも旧道と言える道幅がありますね。鞍部からは、一部崩落がありますが、崩落止め石積みの下を抜けて、石積み左からも道と合流して(C9辺り)、馬頭尊石碑に向かって行きます。石積み補修箇所の崩落の時期も含めて要検討ですね。
今日も懲りずに下って&上ってみて、C6とC5ではないか?と思われる折り返しまで、約1間幅の道らしき跡がありました。深い谷の左岸(東)でガリより手前(西)。C6がガリ内、あるいはガリの左岸(東)とするのには、この辺りでガリへ入るのに、ガリ右岸の小土手を上って越えねばならず、土手にそれらしい箇所がない。南西からの道を折り返して続く道(に見える)があったので、C6に想定。
その先、左へ折り返し(C5に想定)、小ガリになり、小沢っぽくなって、以後不明。
渡らなかったガリの下流の右岸に木が繁った小丘があり、さらに東側には、道っぽいガリが分岐しているのだが・・・、そことの繋がりが見えない。
[A渓谷渡渉地点から(下から見て)]
A渓谷の右岸、現行渡渉点の少し下流(=炭焼窯の対岸)の「黄色い標識」の崖の上には、明らかに道跡と見える所がありますが、渡渉点右岸からの取り付きがわからない。崩落によって消えたのでしょうが、どこから取り付いたか?
現行道のA渓谷右岸には、不思議なことに、(上り側から見て)標識を上ると、ここだけ「道が広い!」所がある。この道は、右側の台地を回り込んで、A3?の谷の左岸の侵食崖を上流方向へ進んでから右岸へ渡り、その先は右京方面や鞍部への現行のメイン道になっています。
そして、この谷の渡渉地点の右岸の台地上は、C6付近から続くガリになっていて、小崩落しています。
この広い道の回り込みが「C2」なのかも?
[3つの候補]
①回り込んだ先で、沢(谷)の右岸(現行道の狭い箇所)から上のガリへ上る道があったのが、侵食・崩落して消えた。
②回り込む所から台地へ取り付いた。(斜面を2回折り返しながら上ることが可能な道跡とも見えなくもない筋がある)
③黄色標識辺りから少し上流から台地上の道跡へ取り付いた。(C2は台地上になるかも)
[問題点]
①だと、台地上のガリの左岸(A渓谷寄り)にある道は何?
②では、台地へ上る折り返しが、険しすぎるように思える。本当に道?という疑念も。
③台地上にあって、崩落で途切れている箇所との間の高度差が大きい。道があったのなら、A渓谷による相当量の侵食・崩落があったとしなければ、消えた道筋が想像できない。
今月、集中的に探査したのですが、まだまだ旧ルートは不明です。
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Unknown (garamekion1000)
2022-05-25 10:01:40
「峠の取り付き位置についての別視点」
湖畔側から見ると、稜線近くの傾斜地は広葉樹林になっていますが、関東ふれあいの道の案内標識の所だけ、広い笹原になっています。(下部は灌木が生えていますが)
なぜ、ここだけ? と考えました。以下仮説です。
湖畔から稜線へは、この笹原部を上ってきていた。そして、10mほど西側へ下って、現石積の辺りから東方へ折り返すように斜度の少ない下り道へ入っていた。
しかし、西側へ回らないで、現在の案内標識の裏側へ直進し、馬頭尊石碑の後ろへ下ると、下り坂にはなるが、僅かにショートカットになる。近道したいのは人間の性で、こちらを使う人馬もたくさんいて、自然と道になり、両道になった。という想像です。
ここだけ笹原なのは、そう遠くない最近まで、樹木を伐っていて、沼の原からスルス峠への道とされていたのでは?とも思えなくもない。
広大な公有地内容のこと、道の多少の異動は問題にはされなかったでしょうし、道の整備・保全は、関係者による奉仕作業であったことでしょう。山麓の里のワタシの地区では、現在の地区住民による道路愛護・道路清掃活動のことを、祖父母世代までは「道こせえ(拵え)」と、あたかも道を作るかのような呼び方をしていました。
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Unknown (garamekion1000)
2022-05-24 02:49:59
早速、訂正!
A4は、本流のA渓谷ではなく、凹というか凸というか?の西の側の角ですね(本流は東の角)。
実際に見ても、沢というには微妙な所ですね😨。
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Unknown (garamekion1000)
2022-05-24 02:47:57
早速、訂正!
A4は、AA渓谷ではなく、凹というか凸というかの西の方の角ですね。実際に見ても、沢というには微妙な所ですね😨。
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Unknown (garamekion1000)
2022-05-24 02:29:36
ワタシのマイブームに付き合っていただいて有難うございます😅💦
高崎から「物見塚」へのルートとして、「小鳥」から先、「井出~保渡田~柏木宿・黒髪山神社」経由と、「浜川~箕輪(西明屋・東明屋)~松原」経由と、どちらが主だったか?あるいは両道併用か?という疑問は持っていましたが、疑問のままで、時代の変遷では考えませんでした。(前橋からなら金古~黒髪山神社ルート=宿は通らない。になるので、併用的?と軽く考えていました。)こちらもまだまだ調べて見るべき課題ですね。
今、峠~A渓谷の道探しに、集中しているのですが、貴兄の以前にブログ記の内容がやっと解ってきたところですが、まだまだ「?」な地点があります。
まず、A1~A4に確信が持てないこと!
A1とは、右京の沢で、A4は、大林氏のいう夕日河原A渓谷。でよいのでしょうか? それでもA2とA3は、ワタシには確信が持てない😨のです。A3は、現行メイン道が、A渓谷の渡渉点(右岸に黄色い標識、左岸に炭焼窯跡)へ出る直前に越える小谷のことでよいでしょうか?(とするとA2は、笹原の中を南方向へ走ってA渓谷へ出るガリ(対岸の川原に3号堰堤がひっそりある)。
もうひとつ、「C9~C1」は陸軍地図に基づいていると思われますが、この地図には、等高線の表記に誤謬がありますね(よりによって、このルートの所)。この地図は、道筋が詳しいので、とても参考になるのですが、CとCの間隔(特に下部)は、正しくないのでないか?と。

ともあれ、やっとのこと、貴兄の記の内容がずいぶん理解できてきたと思うのですが、このルートに3回挑戦してみても、まだまだ不明点があり、お聞きしたいことがたくさんあります。
・C8とC7の間に切り返しがあるみたい。
・C6地点が不明(ガリより東?)。
・A渓谷の渡渉点やや下流右岸の黄色い標識の上の台地にある道跡とガリ。その台地への取り付き。等。
我ながら、細々としつこいなあ!と思うのですが、もう少し、お聞きしてもよろしいでしょうか?
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