練馬のアパートへ帰るにしても電車賃がかかるので、会社にもどって、いつものソアァーに寝転がった。腹はすいていたが、暑い中を歩いてきてぐったりして、どこかへ食べに出る気もしなかった。もう九時近かった。三十分ほど横になってから、いきなり飛び起きた。あれっ、シャッター下ろしていったよな、と気がついたからだ。戻ってきたときにはそこまで気がまわらなかった。誰かが来ていたのだ。わざわざシャッターを開けてまで入ってくるのは、関係者か物盗りくらいのものだ。あわててロッカーに隠した手提げ金庫を調べたが無事だった。あらためて見回しても室内を物色したような跡もない。行方をくらましていた社主が、様子を見にきたのだろうか。
麦茶でも飲もうかと、冷蔵庫をあけてみる。
「あれっ?」
と、まぬけな声をだしてしまった。ほとんど何も入れてなかった冷蔵室に缶ビールが二本、それにラップにつつんだ握り飯が二個。そのわきにはカラをむいてあるゆで卵がひとつ、これもラップに巻いて置かれていた。ミドリちゃんにちがいない。夕方、帰りがけに立ち寄ったのだ。昼ごはんを用意してくれたのに、こちらに来る暇がなかったのだろうか。缶ビールが二本というのはずいぶん気がきいていた。握り飯の下に、走り書きの置き手紙があった。「神尾さん、ちゃんと食べてくださいね。夏バテしないでいてください」と、書いてあった。なんだか、ミドリちゃんがどこかへ出かけてしまうようなニュアンスだ。夏休みをとって帰省するのだろうか。そういえば、ミドリちゃんの実家のことはほとんど知らなかった。おたがい氏素性のことなんか、まったく口にださなかった。どこで生まれて育ったかなんてことも。男女の間柄になってからも、あとさきのことなんか話さなかった。いや、そんなことはまだ早いにしてもだ。ミドリちゃんのことは知っていても、島村沙代についてはなんにも知らないのだ。それがふいに気になりだした。赤塚さんの不在を確かめて帰ってきたあとだ。ミドリちゃんも、このままいなくなってしまうような気がしてきた。それは夜の妄想かもしれないけれど。海苔をまいて、いつもより丁寧に作ってある握り飯や、缶ビールまで置いてあることも、なんだかなにかの合図のようでもある。
握り飯とゆで卵をとりだし、ビールも一本机の上に置いた。しみじみとありがたかったけれど、しばらく手がつけられずにいた。こんな気持ちになるとは思わなかったのだ。
「明日の朝、なにかの口実をみつけて丸尾印刷にいってみよう・・・・」
これは独り言だ。声に出してしまった。
「そうだ、赤塚さんも真剣に探してみなくてはな」
ここ数カ月で、何人もの人間が目の前から姿を消していっている。音信不通、行方不明、チクデンという言葉もある。こちらに不可解な事柄をあずけたまま、消えていくのだ。世の中にはザラにあることかもしれないが、初めて追いかけてみようという気がわいてきている。ミドリちゃんが気になっているせいかもしれないけれど、もうひとつ、どうしても思い出せない記憶が封をされて身の内にある予感もしていた。いちばん追いかけたいのは。その封印された記憶なのかもしれない。
ようやく食べ物をいただくことにした。いただく、という言い方もあまりしたことがなかった。ミドリちゃんの心づくしをいただくのだ。
握り飯をほおばり、喉につかえた。缶ビールに手をのばすと、せっかく冷蔵庫に入れてあったのに、ビールはすっかり生ぬるくなっていた。