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天沼春樹  文芸・実験室

文芸・美術的実験室です。

アンドレ・ブルトンに捧ぐ  8

2011年02月07日 22時15分39秒 | 文芸

Qui suis-je ? 14

 

 

 

 

 人生は階段をのぼるようなものだと誰かがいっていた。誰であったか忘れてしまった。そのいきつく先が天国であるというのだから、おそらく敬虔なキリスト教徒か、牧師かなにかであったのだろう。いまどき数世紀もまえの修辞(レトリック)で人生を譬えるのもどうかと思うが、ぼくはときおり夢のなかで階段をのぼっている自分をみつける。それが、真っ直ぐな階段などではなく、螺旋を描きながら大伽藍の高みにつづいているのだ。螺旋階段の先導者はきまっていて、いつも黒猫のナジャだった。ナジャは数メートルさきを、ときおりふりかえりながらさきにのぼっていく。あとについてのぼりながら、ぼくはうすうす気づいている。黒猫のやつがぼくを天国などに案内するものかと。大伽藍の鐘楼にたどりついたとたんに、そこからまっさかさまに突き落とされるような気がするのだ。これまでもこれからも、ぼくとやつとはそういうつきあいでしかない。

 一歩、また一歩とぼくは螺旋階段をのぼっていくのだ。ところが、どの瞬間からだろうか、いつのまにか階段は下へむかって渦をまいている。のぼっているのだとばかり思っていたのに、こんどは進むごとに下へむかっていくではないか。煉獄へ導かれるフィレンツェの男のように『神聖なる喜劇』(ディヴィーナ・コンメディア)の幕開けが予感される。ただ、ぼくの相手はベアトリーチェなんかじゃなかった。もちろん、黒猫もウェルギリウスの役回りを演じてもくれまい。ただぼくを先導し、迷いこませるだけのこと。上へむかっても下へむかってもおなじこと。天国から地上をぬけて地獄へ! あのドイツの詩人がいったとおりだ。この世をくまなくかけまわらねば、ぼくが満足しないのをあいつは知っているのかもしれない。黒猫はいわば同行者なのだ。ぼくが歩まねば、あいつのいる意味もなくなる。あいつがぼくを選んだのか、ぼくがすすんで選ばれたのか。

 夢のなかでは、なにか合点がいったような穏やかな気分で地獄だろうが煉獄だろうがついていく気になっているのが不思議だ。なにもわからぬま天国に鎮座ましますことだけはごめんだとばかりに。それでも、君、用心したまえ。そんな夢からさめて、重たい脚をひきずって町にでていくと、地獄も煉獄も品ぞろえよろしく目の前にならんでいるのだからね。     


アンドレ・ブルトンに捧ぐ 7

2011年02月07日 22時14分40秒 | 文芸

Qui suis-je ? 13

 

これもやはりメトロに乗っていた時のことだ。ぼくは、まだリセに通う生徒だった。代数とラテン語の時間をサボって、いつものように場末の映画館にでもいこうと思っていた。パリのメトロはひとっぱしりすれば、のぞみ放題の猥雑な界隈につれていってくれる。

車両にのりこみ、ふと足もとをみると、座席の下にクシャクシャにまるめられた紙くずが落ちていた。普段なら蹴飛ばしてみむきもしないのだが、その紙くずは上質な書籍用紙のようなあつみがあり、なにかの四つ折り版の高価な書物の頁のようなおもむきだった。

ひろいあげて、ひらいてみると、印刷物ではなく、クリーム色の用紙に、青いインクで文字が書きつらねてあった。手紙の書き損じかとおもって、捨ててしまおうとした瞬間、詩のような文句が一行眼にはいった。いや、誰だかはわからぬが、たしかに詩を書きなぐっていた。最初のほうの行に、ぼくとしては看過できぬ単語がならんでいたのだ。

 

 この淪落した町の空から

 幾千もの猫の頭が降ってくる夜

 地下の鼠どもが快哉をさけぼうとも

 この町の終末がはじまる

 

 幾千もの猫の頭が降り注ぐ

 きりはなされた頭が禍々しく降ってくる

 この町はもはやゆるされない

 ソドムでさえ、ぬけだした者はいたのに

 

 猫の頭は 街路にころがる

 不気味に 青白く光りながら

 その眼は 人々をにらみつけて

ゴルゴンのごとく石に変える

 

きみは倫理の傘をさしたまえ

その傘の上にも猫の頭は降り注ぎ

布をやぶって君の額をうつだろう

猫はいう「終わりにたちあえただけ幸せだ」と。

 

まったく狂気がかけぬけたような走り書きだった。ぼくは、おそろしくて、思わずその紙くずを投げ捨てた。投げ捨てたところで、一度眼にした詩らしき文句は、今もここで再現したように頭からはなれなくなった。だれが、なんのためにこんなことをしたのだろう。あるいはメトロを仕事場にする詩人の形見なのか。君はなにかの偶然か、あるいは悪戯だろうというかもしれない。ところが、それからぼくは、地下鉄の車内で、床といわず、網棚といわず、奇妙な詩人の捨てて行った文書を何度も拾った。もうすでに、一冊の詩集にできるくらいたまっている。もちろん、拾った紙はその場で引き裂いたさ。それで、ぼくの頭のなかに、地下鉄の狂人の詩集はしっかりとおさまってなくならない。

 

 

 

 

 

 

 

 


アンドレ・ブルトンに捧ぐ 6

2011年02月07日 12時04分31秒 | 文芸

Qui suis-je ? 12

 

 ルネはぼくの部屋にやってくると、たいてい長椅子のうえでうたた寝をしてしまう。ぼくがいないときも、勝手に鍵をあけて入り込んで寝ていたりする。ぼくを訪ねてくるのか、寝心地のよい長椅子がめあてなのかわからない。それでも、眠っているルネを見ているのは嫌ではなかった。むしろこのままずっと眠っていてくれたらと思うこともあった。眠っているルネは、我が儘でも、浪費家でも、浮気者でもない。いつだったか、おそろしく背の高いロシア貴族の士官の腕にぶらさがって、ビクトル・ユーゴ通りを下っていく姿を目撃したことがある。まさにこれみよがしに闊歩していく風情だった。けれども、ぼくはそのとき、またしても黒猫のナジャを追いかけている最中だったから、ルネにかまってもいられなかった。

 ナジャはぼくを4区のはずれにある、いかがわしい安ホテルにまんまと誘い込んだ。またしても窓から二階の奥の部屋に忍び込んでいく。ぼくは、ホテルの受付にまわり、二階の奥の部屋の鍵を受けとった。階段をのぼり、しまっている鍵を回す。室内にはいると、黒猫のナジャは大きな寝台のうえに寝そべってぼくを待っているふうだった。からだをくるりとひねって、海千山千の娼婦がそうするように、さそいかける仕草を見せた。ぼくは、寝台に腰かけて、おとなしくしているナジャの腹のあたりをさすりはじめた。すると、ナジャのからだが突然変化しはじめた。腹部の皮がぱかりとさけたようになって、ふたつにわれると、蝉が脱皮するように中から白い女の肉体が出てきた。ちょうど着ぐるみを脱ぎ捨てるように、ナジャは人間の女になって外に出てきた。黒い毛皮の下から、ぬけるように白い肌が現れる。それにしても、猫は猫なのだから、体の大きさはいかんともしがたい。ぼくの目の前には、身長にして四、五十センチメートルしかない裸体の女が横たわっていた。まるで人形のようにもみえる。驚きが去ると、ぼくは着ている服を脱ぎ捨て、あたりまえの男女のようにひとつベットで愛を交わし逢うことをためらわなかった。小さなナジャは、すこしザラつく舌でぼくを愛撫してくれる。ぼくもおなじようにナジャのからだに触れていく。それからさきのことは、言わぬがよいと思う。いずれにしても、ナジャは人間ではないのだから。そして、ぼくたちが何のためにこんなことをしているのか、どうせわかってはもらえまい。それよりも、こんな奇妙な情事があったあと、二度目の情事では、もっと信じがたいことが起こったとだけ言っておきたい。

 二度目の情事は、ぼくの部屋で起こった。夜中ちかくに、黒猫のナジャがしのんできた。ぼくは、くるりと体をまわして身を起こした。すると、たちまちベットの下に転がり落ちた。ナジャは床のうえでぼくを待っていた。なんと、今度はぼくのほうが一匹の猫に変身しているではないか。なるほどそういうわけか、とぼくは納得して、自然に猫のオスとしてふるまうことにした。しずかにナジャにすりよると、ナジャの首もとをかるく咬んでやり、メス猫の情欲をかき立ててやった。ナジャは腰をしずめ、甘い鳴き声をたてはじめた。はじめからそのつもりでやってきたのがわかる。ぼくは、ナジャの尻尾のほうに鼻さきをつけ、匂いをかいだ。ナジャの性器が特別なにおいを発しながら開きはじめたのがわかる。ぼくを待っている。ぼくは、しごく自然にナジャの背にからだをあずけて、重なっていく。ゆっくりと、ぼくはナジャのなかに入り込んでいった。そのとたん、ぼくはからだの一部だけではなく、真っ暗な闇のなかにすっぽりと包みこまれたような気がした。猫と交尾しているというよりは、闇そのものと交わっているといったところだ。闇のなかに、みるみる吸い込まれていく。やがて、闇と一体になり、なにもかも溶け合っていくかのようだった。溶け合うという快楽だった。まるで死の領域へひきずりこまれるような絶望感をともなった快楽。痙攣するような快楽。おそらく、ぼくは死と抱き合ったのかもしれない。

 目覚めたとき、ぼくは独りだった。腑抜けたように明け方の闇のなかで眼を覚ました。たぶんすべて夢だったのだろう。夢で見た闇にくらべたら、そのとき自分をとりかこんでいる明け方の薄闇は、ひどく汚らしく思えてならなかった。

 

 

 


アンドレ・ブルトンに捧ぐ 5

2011年02月07日 11時56分04秒 | 文芸

Qui suis-je ? 9 

 

 

16歳になったばかりの、生暖かい春の晩だった。ぼくは、いつものことだったが、ヌイー橋を渡った最初の角で細い路地であの黒猫の後姿をみつけた。ほんとうは、ヴェルヌ通りの古本屋へ使いをたのまれていたのだけれど、これは見逃すわけにはいかなかった。なんだか猟犬の本能が棲みついてしまったかのように、ぼくは反射的に猫のあとを追いかける習慣がついてしまっていた。

 猫は路地から路地へ、すたすたと歩き続けていく。いちど振り返って、こちらに気づいたようだったが、小馬鹿にしたように鼻をつんとあげてみせると、一軒のアバルトマンの裏階段をのぼりはじめた。サンジェルマン通り13。これは、あとで考えると、ルネが住んでいた住所であった。ルネはそのアバルトマンの屋根裏部屋に長いこと住んでいたのだ。ルネはアルフォンソ・ミュシャが描いた女優のサラ・ヴェルナールに似ている女だった。ミュシャの描くポスター画はベルナールにはすこしも似ていない。

 遺憾ながら、その晩の追跡はアバルトマンの裏階段までだった。裏階段からは鍵がなくては建物に入れなかったのだ。それなのに、猫のやつはどこかの窓から入ったらしく、みごとに建物のなかに姿を消してしまっていた。ぼくがそこを訪ねた16歳の晩に、ルネがそこに住んでいたかどうかは、ついに聞かないままだった。

 

 

Qui suis-je ? 10

 

食事とは、たがいにむかいあってするものであると、だれがきめたのだろう。ルネはある日、レストランにぼくをさそって、背中あわせに席をとり、ウサギ肉のポワレを食べようといいだした。レストランの給仕も、ほかの客たちも好奇の眼で、この不可解な二人を見ていたものだ。ぼくたちは、背中越しに料理のまずさを囁き合った。ぼくちは、からっぽの向かいの席の透明な恋人に語りかけている感じだった。「食事をしながら会話を楽しむのは悪趣味な習慣だわ」と、ルネは言う。「獣たちは会話などしないものね」と、ぼく。「そのうち、人間のための者がやってくるわ」と、ルネが背後で笑った。果たしてそのとおりになったわけだが、ルネはまっさきにされてしまったような気がする。そして、あのときは、ぼくたちの足もとに、なにか生き物がうずくまっていたことを迂闊にも気づかなかった。

 

Qui suis-je ? 11

 

奇妙な晩餐が終わったあとで、ぼくとルネはグラン・ギニョールの劇場を訪れた。悪趣味な人形劇場で、ぼくの子どもの頃は絶対出入り禁止の場所のひとつだった。ルネとつきあいだしてから、そんな悪所に出入りするのが愉快でたまらなくなった。すでに舞台は始まっていて、二体の人形がグロテスクな詐欺師と娼婦のかけあい漫才を演じていた。詐欺師はスペイン生まれ、娼婦はロシア女というふれこみだ。詐欺師がスペイン訛りのフランス語でひとしきり卑猥な冗談をいって、ロシア女に横つらをはりとばされ、観客の笑いをさそっていた。「ああ、おれっちは故郷に帰りたいよ。せめて人目でもおがみたい !」そういって、詐欺師は娼婦のスカートなかに頭をつっこんで、悲鳴をあげた娼婦とともにもつれるように舞台から消え去った。 

暗くなった舞台に再び照明がついたしき、舞台上には若い女の人形が立っていた。いや、立っていたというより、マリオネットの糸にくるくるとまきつかれて身悶えしている。なにかの操作が失敗したのか、そういう演出であるのか、人形はしばりつけられて苦しんでいた。それは喜劇どころではなかった。アントナン・アルトーの残酷劇でさえ、のっけからそんな拷問は始まるまい。マリオネットが金切り声をあげた。

ぼくは、「あっ」と同時に声をあげた。なぜなら、舞台上で縛られていたのは、ぼくの隣にすわっているはずのルネだったからだ。ルネ、あるいは、グラン・ギニョールの虜になった人形は、何本もの糸でキリキリといたぶられていた。「ねえ、ごらん、君がいるよ」と、ぼくはようやく隣に座っている女に声をかけた。女は驚いたように首をのばした。首がのびた ! そこにいたのはルネなんかじゃなかった。口がパクパク動く、手垢にまみれた娼婦の人形だ。

「ボン・ソワール、ムッシュ!」

 と、人形はカタカタ笑った。そればかりではなかった。いままで大喝采していた観客席の人々が、そろいもそろってマリオネットに変身しているではないか。みなが、天井からさがっている無数の糸で操られ、気が狂ったように騒ぎたてている。

「ルネ !

ぼくは、ルネの糸をひきちぎろうと舞台に突進していった。舞台上にかけあがり、身悶えするルネをしっかりと抱きとめたとき、やはりなにかの呪がかかっていたのか、ルネは真っ黒な猫に変身して、ぼくに爪をたてると、あっというまに走り去っていった。その刹那、舞台の明かりが一斉に消えた。

「あなた、どうかしたの」

 その声に、我に返えると、ぼくたちはまだまずい晩餐の最中だった。

 


アンドレ・ブルトンに捧ぐ 4

2011年02月07日 10時53分12秒 | 文芸

 

Qui suis-je ? 8 

 

 

リヨンに住む叔母の屋敷をたずねたことがある。正直いって、ぼくはこの叔母の屋敷を訪問するのは気が進まなかった。叔母がいつも料理女に作らせてふるまってくれる田舎料理が苦手であったからだ。なかでも、牛の内臓を、もっと詳しくいうなら第一胃と第二胃なのだが、そいつをたたんでフライにしたカツレツにしたものだ。その臭いには閉口させられた。みかけは普通のカツレツだったが、タルタルソースをかけたカツレツの中身は、いくら噛んでもなくならず、しだいに内臓特有の味がしみだしてくるのだ。だから、その日も、ひとりで近くの森の道を散歩してうろつきまわり、夕食の時間に遅れてやろうと思っていた。夕食に遅れると、叔母はスープしかだしてくれないのだ。

 夕暮れの道はしっとりしめって、日没まえのわずかに残っている陽の光では足もとがおぼつかない。大きなブナの木が道の両側に生えている場所まできたときた。小道に握りこぶしほどの穴があいているのをみつけた。なにかの巣穴にもみえたが、道のまんなかである。なにか剣呑なかんじがして、ぼくはてまえでたちどまった。ぼくの予感はあたっていた。

しばらくすると、その穴から蛇がはいだしてきたのだ。蛇? そいつが、こちらにはいよってくるではないか。ところが、いよいよ一メートルほどさきまではいよってきたとき、ぼくはそいつが蛇なんかではないことに気がついた。体は50センチメートルほどの蛇であったが、その頭部は毛むくじゃらな猫なのだ。猫の頭をつけた蛇が三体ぼくの足もとにやってくる。猫蛇は、赤い舌をだしながら、たちまちぼくの脚にからみついてきた。猫蛇にふさわしく、二ャア二ャアと啼き散らしながら、ぼくの脛にはいあがってくるのだ。怖いというより、あっけにとられてぼくは猫蛇にからみつかれて動けなかった。そのうちの一匹が、すばやくぼくの首もとにまでのぼってきて、また、一声啼いた。

啼いた拍子に、猫蛇の口から、生臭い息がぼくの顔にふきかかった。ぼくは吐き気をもよおし、同時に気が狂ったように体全部をはげしく揺すって、猫蛇どもをふるいおとした。猫の息は、あの内臓カツレツの臭いとそっくりだった。タブリエ・ド・サプールTablier de Sapeur。工兵のエプロンとは、なるほど臭うはずだ。

 

 


アンドレ・ブルトンに捧ぐ 3

2011年02月07日 10時49分06秒 | 文芸

Qui suis-je ? 6

 

それからまた、ぼくの身辺には不可解なことばかり起こっていた。学校の悪友が一時黒魔術に凝っていて、真夜中に悪魔を捕まえて、自分の「使い魔」にする方法を教えてくれたことがあった。ラテン語らしい意味不明の呪文つきだ。 

「いいかい、合わせ鏡だよ。二枚の鏡を寸分の狂いもなく平行に向かい合わせるのだ。100分の1ミリ狂ってもうまくはいかない。正しい定規で測るといい。あとは、真夜中まで待つことた。正零時になった瞬間、小さな悪魔がひとつの鏡から出てきて、むかいの鏡にむかって通っていく。ほんの一瞬、この世の空間に出てくるわけだ。そして、また無限の鏡の空間に歩み去っていく。悪魔がとびだしてきた瞬間だ。すばやく鏡の角度をずらしたまえ。すると、二枚の鏡でできあがっていた無限の回廊は消え去り、悪魔のやつ、テーブルの上に落っこちてくるから。やつが、怒ってわめこうが、悪態をつこうがとりあっちゃだめだ。まず、呪文を唱えて、やつを脅しつける。命令にしたがわなければ、永遠に鏡の回廊はみつからないってことを思い知らせてやるんだ」

 そんな講釈をきかされたその日の晩、ぼくはさっそく母親と姉の部屋から化粧用の手鏡を持ち出して来て、定規をつかって平行に向かい合わせたんだ。時計は父親の懐中時計を失敬してきた。悪魔が手下になったら、鏡だって時計だって何百個だって買える富が手に入るはずだったし。

 正零時が訪れた。一方の鏡の無限の奥から、なるほどなにか黒いものがこちらにむかってきた。もう一方にはなにも映っていない。ぼくは固唾を呑んで、その黒いものが空中にとびだす瞬間を待った。一瞬の勝負だ。

来た! 黒い影が空中にうかんだと。ぼくは間髪をいれずもう一方の鏡をはじきとばしてやった。すると、どうだ、相手は凄まじい唸り声をあげて、テーブルのうえにころがり、次の瞬間、すばらしい跳躍力をみせて、窓ガラスにむかってジャンプしていったのだ。

 とびだしたのは悪魔なんかじゃなかった。例の真っ黒な猫だった。小指ほどしかない小さななりをしていたが、あっというまに窓ガラスのなかにとびこんで消えてしまった。夜だったので、窓ガラスは鏡のようにぼくの顔を映し出していた。

  

 

 

Qui suis-je ? 7 

 

 

 

鏡のなかに 墜落するおまえに

どれほどの あわれみを そそいでも

無限落下の 快楽に酔った おまえには

噴飯ものの 憐憫にしか思えまい

 

食膳と食後に、ストリキニーネをあおる おまえに

いくらジギタリスのスープを供しても、

薬味ほどにも 感じまい

C21H22N2O2 ストリキニーネの化学式

 

むしろおまえの、唾液のほうが

寝苦しい夢の種になる 

おまえの唾液の化学式など 知るものか! 

 


アンドレ

2011年02月07日 10時36分20秒 | 文芸

Qui suis-je ?[   2

 

「わたしは何者であるか?」という問いにこたえるならば、わたしならば「どんな夢をみるか」ということにつきる。子ども時代、わたしは頻繁に町のうえを飛ぶ夢をみた。たいして高くはなく二階の窓にとどくくらいの低空を両手をのばして、時代おくれのピーターパンよろしく、あちこち飛び回っていた。目覚めると、両腕がひどく痛むときがあって、その夜はよほど力をこめて羽ばたいていたのだろう。

飛行しながら、わたしはなにを見ていたのか。いや、見ているというよりは、たいていなにかを追跡しているのだ。地上をすばしこく逃げ回る生き物を・・・・・

 

 Qui suis-je ? 3

 

きみは夢でみたことと、ほんとうにあったことの区別がつかなくなってしまったこ経験はあるだろうか。もちろん脳の具合がひどく悪いといわれれば、それまでだが、ぼくにはいくつか、どうしてもどっちなのかわからなくなっている事件がある。

たとえば、わかれた恋人のルネが、目の前で銃で撃たれた記憶だ。ルネただし、ルネは生きている。夢であったからだ。誰に撃たれたのかはわからないままだった。ルネの新しい恋人だったのか、当時パリを占領していたドイツ軍の兵士であったのか。その両方であったのか。ぼくは、肋骨の下を撃ち抜かれて報道にくずれおちるルネの姿を見て「あっ」と声をあげた。悪夢だと思った。けれども、ルネが銃殺された夢をみてからしばらくして、ルネ自身から手紙がきた。シテ島をみおろせる、サン・クールの橋のうえで会いたいと書いてきた。ぼくは会いにいかなかった。返事も書かなかった。ルネは死んだじゃないかと、そのときはかたくなに思い込むようにしていたからだ。

ところが、それから数年してみて、しばらくぶりにルネのことを思い出したとき、おかしなことが起こった。ルネが死んだあと、ルネから手紙が来た夢を見たとぼくは思い込んでいるのだ。ルネが胸から血をながして舗道ののうえにくずおちる光景と、いつもの郵便配達が「ボン・ジュール、ムッシュ !」といって、わたしに茶色い封筒の手紙を手渡した朝の光景が、どちらが夢で、どちらが現実なのか区別がつかなくなっていた。ルネを射殺したのが誰だったのかは曖昧なままだ。

 

 Qui suis-je ? 4

 

それから、また昔の写真の話にもどるのだけれど、猫頭の友だちは、実は男の子ではなかったような気もするのだ。ブラックキャットの花を胸にかざるような男の子なんて、その頃いるわけもなかったから。

 

 Qui suis-je ? 5

 

その日、ぼくは 16区の市電をのりつぎ、サンジェルマン・デ・プレの伯父の家を訪ねる途中、母親とはぐれてしまった。伯父の家にいくには、一度メトロの5番にのらぬとならない。ひとりでメトロにのったことのないじぶんだったから、おおいに困った。このまま家にひきかえそうとしたときだった。例の黒猫のやつが、これみよがしにメトロへの地下階段を降りていくのか見えた。あいつめ、こんな街中まできていたのか、と思うと、もう追いかけずにはいられなかった。切符のことなんか知らん顔で、メトロのホームへ追いかけて行った。黒猫がホームの端にすわりこんでいるのが見えた。そのとき、暗いトンネルから轟音をあげてメトロの車両がすべりこんできた。その日、見たメトロの車両ときたら、きみは信じないかもしれないけれど、ぶこつな四角い箱なんかじゃなかったのだよ。

 それは、ほんとうに魚の形をした地下鉄の車両だった。たったの一輌。これがトラムなんかであったら、それこそパリ祭かカーニバルの余興の花電車の試運転であったろう。ところが、その魚の形をした地下鉄は、暗いトンネルからぬうっとホームにすべりこんできたのだ。まばらにホームにたっていた人々は、行先の方面がちがうのか、さして関心もしめさず、新聞を読んだり、あらぬ方角をほうっとみつめていたり、あるいは会話に夢中になっていて、この驚くべきメトロの出現を気にもとめていないようだった。ドアがシューっと音をたてて開いた。開くと同時に、魚河岸にでもいるような魚くさい空気がホームに流れ出てきた。黒猫のやつは、しごくあたりまえだとでもいうように、メトロにとびのっていく。あっと思って、ぼくもとびのろうとしたが、鼻先でドアがしまってしまった。メトロのドアはもう金輪際開くことはないというみたいに、無慈悲な音をたててしまったのだ。ぼくは、またしても黒猫をのがしてしまうのか。魚は、いやメトロは、鱗をひからせながら発車していき、たちまちトンネルに姿を消した。ありがたいことに、それから数秒後、こんどはいつものメトロの車両がホームにはいってきた。ぼくは、先頭車両にまで走り、運転士の真後ろに陣取って、前方の軌道に眼をこらした。魚型メトロはなんだかノロノロ、ヌラヌラ走っていくようだったから、ひょっとして追いつけるかもしれないと思ったのだ。

 案の定、一マイルほど走った頃に、前方の軌道に巨大な魚がすべっていくのが見え始めた。トンネルがカーブしているところでは一瞬見えなくなるが、魚との距離は確実に縮まっていた。このままでは追突するかもしれないほどに。地下鉄軌道を逃げていく魚だ。運転士はもう気付いているはずなのに、なにごともないように車輌を走らせていく。ぼくのすぐ後ろに立っている大人たちが、昼食に食べたヒラメのムニエルの批評を熱心にしているのが耳にはいった。「魚ってやつは、料理人次第ですな・・・」と、いう言葉が聞こえた。

 ぼくはライトに照らし出される前方の軌道に眼をこらしつづけた。「いた !」と、ぼくは心のなかでさけんだ。ところが、もう手のとどきそうなところまで、ぼくの乗るメトロが追いついたとき、逃げていく魚は、トンネルの薄闇のなかで文字どおり溶けていってしまった。あとかたもなく、鱗ひとつのこさず、乗っていた黒猫もろとも溶けていってしまったのだ。

 


アンドレ・ブルトンに捧ぐ

2011年02月07日 00時50分45秒 | 文芸

      黒猫ナジャのための覚書 ®

 

     アンドレ・ブルトンに捧ぐ 

 

このMemoはほぼ決定稿で、本年度じゅうに画本として刊行の予定。画家はA.K氏

で、現在制作中です。

  ◆http://www.preview-art.com/previews/02-2004/TransAmerican.html

 

 

     

                           序

 

それはほんとうにあったことだろうか。ぼくはほんとうに生きていたのだろうか。ぼくは、ぼくの写っている何枚もの色褪せた写真をながめては、ためいきをつく。それがかつてのぼくであったなんて、確証はどこにもないのだ。ぼくはなにものか ? –ぼくがおいかけてきたのは、いったいなんであったのか。ぼくがこのように、すべてを曖昧にしか考えられなくなったのにはわけがある。そんな話をしてみようか。ことわっておくが、それは過去の物語ばかりではない。いまこれからだって、じゅうぶんにくりかえされる話なのだ。

 

世の中には子ども時代にこだわるあまり人生を台無しにしてしまう人種がいる。厳格な父親への恐れと嫌悪とか、母親を聖母化してしまうとか、悪い友人たちの影響とか、大人になったらきれいさっぱり忘れてしまえばいいものを、そういう記憶につきまとわれて、現在の生活をだめにしてしまうのだ。かくいうぼくも、そんな人種のひとりなのだ。ぼくがひきずりまわされているのは、人ではない。一匹の黒い猫だ。ぼくは、その猫に、敬愛するアンドレ・ブルトンにならって、ナジャとなづけることにした。黒猫のナジャというわけだ。ブルトンのナジャはロシア系の娼婦であったらしいが、ぼくのナジャは猫であるだけに、いっそう不可解で始末が悪い。ひょっとしたら、彼女は人生という迷路の案内人のつもりなのかもしれない。その迷路がどこにもいきつかないものであることは、百も承知のうえで、ぼくは黒猫のナジャをおいかけている。

 

 Qui suis-je ? 1

 

こどもの頃の一枚のふるぼけた写真がある。四人の少年が写っている。一番ひだりにぼくが、そこぬけにあかるい顔で、ほほえんでいる。そのとなりがちびのルイで、その次が魚屋の息子のジャン・リュックだ。二人の名前はよくおぼえている。ふたりとも、ぼくのこども時代に、そろいもそろって自動車事故で死んでしまった。ぼくは現場も知らないし、ルイとジャンの葬儀がいつおこなわれたかも知らされなかった。ただ、夏の終わりに親からそれと聞かされただけ。大人たちは、新聞記事でも読んで聞かせるように、その年の夏休みにあった友だちの出来事を話していた。

それから、右端に写っている子。しかし、これは誰だったのだろう。たまたまいっしょにいたにしては、ぼくたち四人はいかにも親しげだ。

ぼくは、セピア色の写真を丹念に眺めてみる。すると、右端の少年の頭部だけが、いささかおかしいのに気がつくのだ。いささかというのでは言葉がたりない。なんと。その子の頭は一匹の猫そのものなのだから。白いきちんとした襟のシャツにネクタイをむすび、うすい色のビロード地のジャケットの胸ポケットにはなにやらしおれかけた花までさしてある。よくみたらブラックキャット草のようにみえる。ごていねいなことだ。

あわてて、目をこすって、もういちど写真を見ると、こんどはその少年をのぞいてぼくまで全員が猫の頭部に変わっている。おそろしくて、それ以来その写真は、机のひきだしにしまいこんだまま二度と見ていない。いまでも、ときどき写真館のショーウィンドウに飾られているポートレートのなかに、猫に変化した紳士のものをみかけることがある。おそらく、人は見て見ぬふりをしているとしか思えない。大げさに騒ぎ立てるようなことじゃないとでも思っているかのようだ。そのとおりなのだろうか。あの写真の裏に19335月とペンで走り書きしてあったことを覚えている。