雑感記録所

内容の制約を一切せず、その時書き留めたいことを記録していた。

ラヴ・アンド・セックス時代

2008-09-19 14:05:32 | かんがえ
 「東大卒作家」小谷野敦の「童貞文学」が映画化されるんだそうである(ニュースの見出しにはこういう文言が踊っていた)。

 童貞とは、セックスしたことのない人、のことである。通例男。本来は性別に関係ない言葉だが、女の該当者のことは処女ということが圧倒的に多い。たとえば、キリスト教でマリアが処女のままイエスを身籠って出産したという伝承は「童貞説」といい、「処女説」ではない(聖書が翻訳された時に(この意味では)「童貞」という言葉しかなく、以後改訂されていないから)。もともと男女別なく使われていた語が、いつしか「童貞」と「処女」に分化したのは、同じ「セックスしたことがない」でもそれが男か女かではその価値が異なるという、ちょい過去の日本の文化的背景によるものに他ならない。英語ではいまでもどっちも「virgin」である。ここでは、今後男の「童貞」について書く。
 さて、ある程度年齢が行った童貞を気持ち悪がる人というのは、「セックスしたことがない」ことを気持ち悪がっているわけではあるまい。昨今の恋愛至上主義かつ「セックス=恋愛」の価値観においては、好きな者同士がどしどし交際するのは奨励されることで、交際した暁にはいずれセックスに至るのが当然視されている。このような風潮の中で童貞であるということは、これまで満足に彼女を作ることもできなかったということを基本的には意味する。そしてこれは前述の価値観においては異常なことであり、その人は異常にもてない要素を持った人間であると見做され、もてない要素というのは大抵「気持ち悪い」のであって、ここに、「異常にもてない要素を持った気持ち悪い童貞」という認識ができあがる。
 「童貞」の価値観が恋愛と結びついているのは、「素人童貞」という言葉を見れば明らかである。この言葉は、「セックス=恋愛」が「セックス=結婚」の価値観を卓越した頃に登場した言葉だ。いくらセックスしたことがあったって、相手がプロじゃだめだよねー、恋愛した相手としなきゃ本物じゃないよねー、というわけである。いまや「セックス=恋愛」価値観の独壇場であり、ここにおいて童貞というのは、実は無前提で「素人童貞」のことなのである。推測だが、「素人童貞」という言葉は、80年代とかと比べると使われなくなっていると思う。というのは、現在では何も頭に「素人」を付けなくたって「童貞」というだけでこのことを含意していると思われるからである。その筋で有名な成人向けマンガのセリフだが、「えーっマジ?童貞?!」「キモーイ!」「童貞が許されるのは小学生までだよね!」というのがあると聞く。このセリフを言うのはたしか女子高生だったと思う(セリフを知っているだけで話を知らないので不正確です、すみません)が、誰が言うのであろうと、童貞が小学生までしか許されないのであるならばこれはどうしたって「素人童貞」である。もちろんこれはフィクションの世界の話であるが、セックスの低年齢化とともに、「素人童貞」という概念が既に時代遅れになっていることは間違いあるまい。恋愛至上主義という時代の。
 ので、恋愛ということにそこまで大きな価値を置かなければ、童貞だからといって気持ち悪いということにはならない。童貞が気持ち悪いのは童貞くんのせいというよりも、跋扈する「恋愛至上」と「恋愛=セックス」のタッグのせいなのだ。わたしは恋愛にもセックスにも重大な価値を見出していないので、童貞に対して特に何の感興も抱かない。蔑視もしないし、逆に身持ちが良いとか貞操があるとか言って褒めもしない。だって、ただ「セックスしたことがない」だけでしょ。「飛行機に乗ったことがない」「岩盤浴に行ったことがない」「ペルシャ語を勉強したことがない」「都営バス都01系統に始発から終点まで乗ったことがない」などなどが、特に感興を引き起こさないのと同じである。
 ちなみに明治時代には、いつまでも童貞だと男に手を出すのではないかと心配されて遊廓に行くことを勧められたりしたとか。大正から昭和にかけては童貞の株が上がり、結婚まで童貞を守って妻に捧げるものだという考えが一般的だったそうである。



 まあ良い。現役東大生22歳童貞がこんなこと書いたって負け犬の遠吠えとして取ってくれないのが世間だ。勝手にしろ。
 この記事について書かれた日記を見ると、ほぼ「自分のそばに30代童貞がいたら無理」系か、「東大出でずっとがり勉して来たのならまあ仕方ない」系のどちらかである。東大の人間がそのことを過剰に意識してしまうのは半分は学外者のせいであるという説にますます頷きたくなってしまう。「無理」と仰る方に無理してもらおうとは思わないが、しかしね、まず今の東大にそういう昔ながらのがり勉がどれだけいると言うのかね。わたしの昔からの知り合いなら、少なくともわたしがそのタイプじゃないことはご存じのはずだし、そのわたしは、東大文学部の中でがり勉を1、チャラチャラを5とすれば2.5くらいだろう(文学部や経済学部は学内でチャラめだということは考慮しなければなるまいが。わたしも、全学の平均よりはチャラい方に属するかもしれない)。そんな、特別扱いされるほどのがり勉集団なのかは疑問だ、というのが中から見た実感である。

9月11日

2008-09-12 02:12:41 | かつどうのきろく
 長野県安曇野市(旧豊科市)までセフィーロを走らせた。上信越道東部湯の丸IC→旧丸子町→鹿教湯温泉→三才山トンネル→松本トンネル→安曇野市。旧丸子町から松本トンネル有料道路の終点までは国道254号、すなわち東京都文京区より長野県松本市に至る国道、いわゆる「春日通り」「川越街道」あるいは大妻嵐山高の前を通っている太い道の果ての果てである。復路は松本トンネルおよび旧丸子市街を回避した。なお「三才山」は「みさやま」と読む。総走行距離は362キロ(東京駅
から東海道線沿いに行けば名古屋駅寸前の金山駅辺り)。遊びに行ったわけではない。
 オートマ車ながらチェンジレバーをさかんにがちゃがちゃやったりできる山道は楽しいが、遵法速度のため散々煽られるというのがネック。特に三才山トンネル周辺は東信地方と中信地方を結ぶ唯一の「大」動脈で(国道143号青木峠という「毛細血管」はありますがww)、交通量も馬鹿にならない。こっちが登坂車線に避けて大型ダンプカーに追い抜かれた日にゃ……。
 速度超過、カッコ悪い。

高揚般若心経

2008-09-08 13:57:29 | おんがく
 はっきり言おうじゃないか。こういうのをこそ待ってたんだ。

【Perfume】SEVENTH HEAVENを法事で使えるようにしてみた


 やっぱお経ってクールだ。僕の観点からすれば、この動画の「楽曲を法事で使えるようにしてみた」というタイトルは極めて不適切で、「般若心経にテクノポップを合わせてみた」と言ってほしかった。メインはお経。



 以下余談。
 「出家」したい。仏道に帰依するつもりはないけども、世間からは離れたい。一口に出家と言っても、たとえば徒然草の兼好法師は出家したと言っても双が岡に庵を結んでいたのであって、京都中心部から徒歩30分くらいのところ(現在では完全に街中になってしまった)。当然頻繁に京都に出かけて行って人に会ったり、また逆に京都の人が彼を訪ねるのも造作の無いことだった。元来出家願望はあるのだが、この程度でもオッケーなのだと先日の院試勉強会で気付かされて、なお願望が強まった。
 森林公園と川越カントリークラブに挟まれた辺りとか、出家先としてはなかなか魅力的なのだが。
 ただ一方で僕は俗世に執着心満々なんで、実現するとしても相当先のことか、余程の事件なりが起こらなければならないのだろうが。

馬はとしとし啼いても強い

2008-09-06 17:36:14 | かつどうのきろく
 昨日はS嬢と「北京故宮 書の名宝展」@江戸東京博物館に行ってきた。草・行・楷の3書体を完成させ、「書聖」として書道史上最高の権威とされている王羲之(おう・ぎし、Wang Xizhi; 生没年未詳、東晋時代)の傑作「蘭亭序」が、今回の目玉。初来日となる。
 もっとも王羲之の真筆ではない。伝承によれば、自ら能書家であった唐の太宗(「貞観の治」の李世民)が、生前蒐集した書の傑作をごっそり自分の墓に入れてしまい、王羲之真筆の蘭亭序は失われてしまった。またそれ以外の書も時の流れの中で失われ、今日に伝わる王羲之の書はすべてが職人や書家によって臨摸されたものだが、それにしたって、原本がないんだから古い時代の複製も貴重なのである。今回の来日は、北京の故宮博物院所蔵の「八柱第三本」。八柱本とは、清の乾隆帝が蒐集した蘭亭序模写3作のことであり、3つとも北京故宮博物院に所蔵されている。
 なお蘭亭序とは、永和9(353)年3月、会稽郡山陰県(現・紹興市)の蘭亭にて催された曲水の宴で編まれた詩集に、主催者の王羲之が自ら序文を【付けようとした下書き】である。草稿であるから、誤字を塗りつぶしてあったり、推敲の跡が残ったりしている。しかし何度清書してもこの草稿以上の出来にならなかったとかで、下書き状態のままで伝えられた。書き直しの箇所なども忠実に複写されている。

 もとより、書道を嗜むものではない。鉛筆・ペンを使って書く文字はそこそこ整っていると自負しているが、筆を使いこなせるとは思えない。言うまでもなく草書は読めないし、況や隷書・篆書をやであるし、正直行書だって崩しの度合いの大きなものは危ない。また、漢文(白文)も読めないので、翻字されたものを見ても意味が取れない。結局見ていても何が書いてあるのかわからない。ので、純粋に筆の運びのみを鑑賞することになる。書道を嗜むS嬢がいなかったら皆目わけがわからなかったところだ。
 問題の蘭亭序は、展示ケースの前に一人分の幅でロープが張ってあり、内側(展示側)は立ち止まり禁止で行列、外側は肩越しになるが静止可で行列なしとなっていた。警備員がのべつ立ち止まらないよう促していたが、言う場所が良くないためになかなか列が進まない。いつまで待っても列の長さが変わらないどころかどんどん長くなるため、直近で眺めるのは諦めて肩越しに覗くことにする。ところが今度は、「肩越し」であるはずの外側にいた小母ちゃんが、ロープを押し込んで直近まで割り入って止まっており、そのために列の方が動こうにも動けないという有様になっているのを目撃した。これにはウケた。

 素人目には何を以て良しとするのかよくわかんなかったというのも、恥ずかしながら偽らざる感想である。

 各書体の英語がおもしろかったので挙げておく。

篆書:Seal script(印章の書体)
隷書:Clerical script(書記の書体)
草書:Cursive script(筆記体)
行書:Running script(流れる書体)
楷書:Regular script(標準書体)

 行書のrunning scriptが好き。
 ちなみに王羲之曰く、わたしは坊やらしい。



 おそらく小学校6年の社会科見学以来となった江戸博。常設展も見たが、この10年間に蓄積した知識により、ずいぶん見応えが変わっていた。昼過ぎには博物館を出る算段が、常設展を途中で切り上げても4時頃。S嬢が大黒屋で入手してくれた安チケットで、思いの外満喫してしまった。

B管仕様の字幕に吹いたww

2008-08-28 03:30:46 | おんがく
 楽器をやるならやっぱり若いうちでないと、おのずと限界がある(もっとも僕のヴィオラの場合、ちゃんと練習してりゃ今頃もう一回りマシになっていて、前回の定演にも乗れてたんじゃないかとか思う。周りを見ると、弦楽器「初心者」という人々の上達具合がみんなして僕のそれと次元を異にしているのだ。それでもまあやはり、もっと若いうちから始めていた人の領域は遠い)。

 若いうちに合奏を経験したかった。小学校の器楽クラブではやったけども、あれは先生の言う通りにそれこそ駒として音を鳴らしただけで、音作りに参画したという意識は希薄だ。中学で吹奏楽部に入っても良かったかなと、こういうのを聴くと思ってしまうね。

バーンズ「アルヴァマー序曲」(東京佼成ウィンドオーケストラ)
0:00~:楽譜通りのテンポ
7:30~:コンクールの時間制限をクリアする必要から各地の学校で自然に生まれたハイテンポ・ヴァージョン。作曲者は聞いて激怒したらしい。




夢と死生観

2008-08-26 11:05:37 | 分類なし
 死生観に関する議論(池田晶子『帰ってきたソクラテス』のうち「ソクラテスの遺言」3篇)を読んで寝たからか、夢に故人が出てきた。中学でうちの学年主任だった森先生である。

 時季は冬の終わりくらい、まだ木々が芽吹いていない頃。
 覚えている最初は、学校の合宿所のようなところの洗面所で知らない中学生が朝の支度をしている。学校の方針でお湯が出ないということだ。けっこう普通じゃないかと思う。
 そこを出ると富士見中の廊下(細部が異なりそのものではない)。誰もいない。奥の階段に面したとある教室に入る。ということはおそらく奥から2番目なので、自分が使っていた教室ではなかったようだ(今考えてみると、熊高の3年8組と混乱していた可能性はある)。やはり誰もいない。適当な机の上に勝手に物を広げて、自習する。
 校内を一回り回ってみる。
 教室に戻ろうと事務室脇の階段を登っていると、なぜか熊高の先生を何人も見かける。混乱していると自覚する。先ほどの教室の階では全教室で研究授業が行われており、大変賑やかになっている。机の上に物を置きっ放しであることを思い出して慌てて戻ると、その教室では斎藤先生が授業をしていた。少なくとも知っている先生(元担任)が授業をしているのでホッとする。休み時間まで待つしかないようだ。
 そこへ森先生が何気なく階段を降りてくる。あまりにも何気ないので、故人が出てきたという感覚が湧かない。ごく普通に通り過ぎようとし、わたしに気付いて声をかけてくれる。さては亡くなっていなかったのかと思ってしまう。
 授業がぼちぼち終わり始め、斎藤先生と荻野先生を含めて立ち話になる(この人選は謎めいているが、荻野先生はここ数日思い出す機会があって意識にあったので本人には納得ずく。日記のネタにしようかと思っていたくらいだから)。しばらくして斎藤先生が、「終わったら八畳間に行くの?」という一言。何のことかと訊くと、森先生の命日が近いということで法事があるらしい(当然富士見中に法事ができる座敷なんかない)。いつの間にか献花台がそこにあり、わたしはいつの間にか持っていた花束を供えた。やはり森先生は亡くなっていたらしい。
 すると森先生がお礼を言い、涙ながらに次のようなことを語った。

 死んだ今わかることだが、こうして死者の供養をするということは、死者の心を澄ませるということだ。誰かが花の一本でも手向けてくれると、自分(森先生)の心が澄むのがわかる。そして落ち着いた気持ちになっていく。

 これを聞くと、夢は混沌となり、目が覚めた。



 死んだことのない我々には、「死後の世界」があるのかどうか判断することはできない。葬送の儀式は、死者のためというより、残された者の心の整理という意味合いが強い。というか、我々にはこっち側のことしかわからないのだ。死者のためになっているかどうかは、あらゆる意味でわからない。とりあえず残された者のためになっているとは言える。そのレヴェルである。
 しかし森先生の一言は、死後の世界を前提として、そうした供養が実ははっきりと死者のためになっているという、「向こう側」からの通達だった。

 寝る前に死生観の議論を読んだからと言ってこうした夢を見てしまうわたしの正直さに、少々驚いた。わたしにもまだこんな真っ直ぐなところがあったのか。見直した。
 また、夢に出てくることがそのまま自分の考えであることはもちろんないが、このように死後の世界を前提とする夢を見るのは、無意識下のわたしはけっこう素朴な死生観を持っているのかもしれず、興味深かった。

サティのうた ~「自分らしく安上がり」へのアンサー~

2008-08-22 00:18:03 | かんがえ
 今年3月にNHKハイビジョンで放送された作曲家エリック=サティの伝記番組「サティのうた」から、パリのスコラ・カントルム音楽院校長のミッシェル=ドニのことば。


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 サティは常に批判されてきました。音楽の教授たちは彼を重要な人物として扱っていませんし、名のあるピアニストたちは「確かに美しい曲だが、技巧に欠ける」とケチをつけます。

 しかしごく普通の学生にとっては、弾きやすくて、面白味がある。

 これは大切なことですが、サティの非常に優れている点は、誰が聞いてもすぐ彼の曲だとわかる、独自のスタイルを持っていることです。
 
 誰の作品だかすぐにわからない作曲家はたくさんいます。サティには特有のスタイルがありますよね。そこを批判することは簡単ですが、しかしそれこそ彼が支持されている点であり、作曲家としての魅力なんです。

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 多少の買い被りを含めて云うけれど、高校の頃わたしがサティに熱狂したのは、たぶんこの辺に惹かれたのもあるんだろうなあ。ピアノの基礎的な修養を積んでない自分でも弾けるってこと以上にさ。

 たとえ世間の理解を得られなくても、爪弾きにされようとも、自分のスタイルを貫くということ。

 しんどかろうが、これは目指さなければならない。


 サティ自身は次のように言っている。


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 サティ派など存在しない。サティ主義などありえない。そんなものにはわたしが反対する。芸術には、いかなる奴隷制度もあってはならない。

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 これは究極には学問にもあてはまることだと思う。まあ現状で学問と言ったら、派閥だの主義だのがむっちゃくちゃ高い壁としてそそり立ってる世界ですけどもね。うちの研究室の中には[検閲削除]

 わたしゃがきの時分から本当に派閥(含仲良しグループ)の排他性ってのが嫌いで、自分があらゆる派閥に深入りしないように(排他的な部分をまとわなくても良い程度にお仲間になるように)注意するあまり、結果八方美人または八方不美人に徹することが多いわけですが、まあぶきっちょな生き方ですよね。なかなか大きくなると、人々の中で自由であり続けるのは難しいもんです。こういう話になるとまたメタメタに飛ぶので適当にしときますけども、やっぱり空気を読むのは苦手っすね。


 でもやっぱさ、護るべきは自分のスタイルだよ。

フランス語の逆襲

2008-08-13 23:26:28 | 分類なし
 机の周辺を片付けていたら、教養課程時代のフランス語のノートが発掘された。挟まっていた小テストを見ると、見終えた瞬間に破り捨ててしまった(実話)くらいひどい出来だった。点数もひどいが間違い方がなおひどい。惜しい間違いはほとんどなく、ものすごい見当違いの間違いだらけなのだ。これは小林康夫御大が授業中に「長島君が理解したんなら皆さん大丈夫でしょう。次に進みます」とわたしの理解度を進行の目安にしていたのも頷ける。よほどわかっていなかったのだろう。問題は当時それほどの自覚が無かったということである。3年経って、ようやく気付いてしまった。

 ぱらぱらとノートをめくっていると、rester chez moi syndromeという懐かしい文言が目に入った。意訳して「自宅滞留症候群」、つまり、外出を必要最低限に抑えようとするわたしの腰の重さを表したつもりの造語なんである。どこかに旅行に行きたいと口癖のように繰り返す割には、わたしが大学に入って以来出かけた泊りがけの個人旅行は、1年の夏に1泊で訪ねた会津だけである。忙しい忙しいと言いながらその実学業に励むでもなく、楽器の練習に励むでもなく、下らないこと(ほとんどがネットサーフィン)に時間を空費して、ずるずるずるとここまで惰性で進んできて、卒論や院試を前にして途方に暮れるということになっている。フランス語を離れて久しくこの文言を忘れていたが、まあ、当時に比べれば人間関係もまともに近づいたし、サークルにも入ったし、ミクシィも始めたし、ちょっとは腰が軽くはなったはずだ(だって日時を決めて人と会ったりするようになったからね!!えらい進歩だ)。けども、本質的にやはり未だrester chez moi syndromeの頸木から逃れてはいないんだなあ。

 あ~あ、どっか行きたい。でも今は勉強しなきゃなあ。何で一昨年の夏とかどこも行かなかったんだろうなあ。

スターマインコンクール優勝は神田花火

2008-08-12 01:12:11 | かつどうのきろく
 オグシオがメディアに露出し始めたころ、僕の顔の好みは小椋だったんですが、オリンピック開幕直前あたりから潮田の方に傾いてきました(潮田って綾瀬はるかと同じ系統じゃありませんか?)。いったいどういう心境の変化なんでしょう。どうでも良いですが。

 9日には御学友2名が来熊。大学に入って以来、散々熊谷を宣伝して来たその成果がやっと現れた。と言いながら、案内したのはお隣行田市の埼玉(さきたま)古墳群。鉄剣でお馴染みの稲荷山古墳などがある古墳時代後期~末期の古墳群である。併設の資料館を含め小学校以来の訪問だったが、これが意外とおもしろく、ずいぶん時間を使ってしまった。本来はもういくつか案内する場所を考えていたのだが、結局古墳だけで観光は終了。珈水亭本店で休んだ後は、熊谷花火大会を河川敷で見物。おととしも河川敷までは行ったがずっと歩きまわっていて、座って見物したのはずいぶん久しぶりだった。八木橋(注1)提供のスターマインは群を抜いていたが、シネティアラ、梅林堂、ベルクもなかなか健闘していた。それにしても、八木橋の前のアナウンスはずいぶん気合いが入っていた。こんなに気合いを入れていたのは初めて聞く。「お待たせしました」言ったよ。しかも観客にカウントダウンを求めたよ。市民の期待度の高さを物語っていた。
 ひとつ勉強になったのは、終了後の渋滞があんなに激しいとは知らなかった。あんな東松山の方まで込んでいるとは。終電に危うくなり、まさかの関越フラグが立ちかけたが、抜け道の抜け道でどうにか間に合わせた。


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注1:八木橋とは、熊谷唯一の「百貨店」もしくは「デパート」。まかり間違っても「大型スーパー」ではない。かつては群馬高崎に支店があったらしいが、現在は熊谷本店のみである。北埼玉における権威は甚だしく、ある世代以上の人々にとって贈答品は八木橋で用意するのが常識である。

純近況報告

2008-08-05 12:09:59 | かつどうのきろく
 8月を迎えまして、皆さまいかがお過ごしでしょうか。お祭りも終わり、わたしは名実ともに(?)受験生になったので、卒論の調査と並行しつつ、池袋東急で映画「アフタースクール」の2度目の鑑賞をしたり、山手線内回り列車で上野から御徒町まで行ったり(所要約1時間)、「眠らない街」上板橋を散策したり、当地の有名ラーメン店の前まで行っておきながら行列に負けて引き返したり、院試の勉強に使う本を探しに行ったジュンク堂で河川工学の本を買ってみたり、国文と合同の院試勉強会に参加したりと、受験生らしいリア充な生活を送っております。
 上板橋は噂に違わず眠らない街でした。コモディイイダの交差点がある、眠らない地蔵尊や眠らないコインランドリーや眠らないBigAが面した通りは、国道254号線との交差角度からしてそうじゃないかと薄々は思っていたのだけれど、やはり川越街道の旧道だったらしいですよ。

 北埼玉代表本庄第一高校、甲子園初出場にして初勝利おめでとう。久々に屈託なく応援できる地元校、春の聖望に続きぜひ旋風を起こしてもらいたいものです。

 さて、勉強しないと。と宣言くらいはしておかないと。