「東大卒作家」小谷野敦の「童貞文学」が映画化されるんだそうである(ニュースの見出しにはこういう文言が踊っていた)。
童貞とは、セックスしたことのない人、のことである。通例男。本来は性別に関係ない言葉だが、女の該当者のことは処女ということが圧倒的に多い。たとえば、キリスト教でマリアが処女のままイエスを身籠って出産したという伝承は「童貞説」といい、「処女説」ではない(聖書が翻訳された時に(この意味では)「童貞」という言葉しかなく、以後改訂されていないから)。もともと男女別なく使われていた語が、いつしか「童貞」と「処女」に分化したのは、同じ「セックスしたことがない」でもそれが男か女かではその価値が異なるという、ちょい過去の日本の文化的背景によるものに他ならない。英語ではいまでもどっちも「virgin」である。ここでは、今後男の「童貞」について書く。
さて、ある程度年齢が行った童貞を気持ち悪がる人というのは、「セックスしたことがない」ことを気持ち悪がっているわけではあるまい。昨今の恋愛至上主義かつ「セックス=恋愛」の価値観においては、好きな者同士がどしどし交際するのは奨励されることで、交際した暁にはいずれセックスに至るのが当然視されている。このような風潮の中で童貞であるということは、これまで満足に彼女を作ることもできなかったということを基本的には意味する。そしてこれは前述の価値観においては異常なことであり、その人は異常にもてない要素を持った人間であると見做され、もてない要素というのは大抵「気持ち悪い」のであって、ここに、「異常にもてない要素を持った気持ち悪い童貞」という認識ができあがる。
「童貞」の価値観が恋愛と結びついているのは、「素人童貞」という言葉を見れば明らかである。この言葉は、「セックス=恋愛」が「セックス=結婚」の価値観を卓越した頃に登場した言葉だ。いくらセックスしたことがあったって、相手がプロじゃだめだよねー、恋愛した相手としなきゃ本物じゃないよねー、というわけである。いまや「セックス=恋愛」価値観の独壇場であり、ここにおいて童貞というのは、実は無前提で「素人童貞」のことなのである。推測だが、「素人童貞」という言葉は、80年代とかと比べると使われなくなっていると思う。というのは、現在では何も頭に「素人」を付けなくたって「童貞」というだけでこのことを含意していると思われるからである。その筋で有名な成人向けマンガのセリフだが、「えーっマジ?童貞?!」「キモーイ!」「童貞が許されるのは小学生までだよね!」というのがあると聞く。このセリフを言うのはたしか女子高生だったと思う(セリフを知っているだけで話を知らないので不正確です、すみません)が、誰が言うのであろうと、童貞が小学生までしか許されないのであるならばこれはどうしたって「素人童貞」である。もちろんこれはフィクションの世界の話であるが、セックスの低年齢化とともに、「素人童貞」という概念が既に時代遅れになっていることは間違いあるまい。恋愛至上主義という時代の。
ので、恋愛ということにそこまで大きな価値を置かなければ、童貞だからといって気持ち悪いということにはならない。童貞が気持ち悪いのは童貞くんのせいというよりも、跋扈する「恋愛至上」と「恋愛=セックス」のタッグのせいなのだ。わたしは恋愛にもセックスにも重大な価値を見出していないので、童貞に対して特に何の感興も抱かない。蔑視もしないし、逆に身持ちが良いとか貞操があるとか言って褒めもしない。だって、ただ「セックスしたことがない」だけでしょ。「飛行機に乗ったことがない」「岩盤浴に行ったことがない」「ペルシャ語を勉強したことがない」「都営バス都01系統に始発から終点まで乗ったことがない」などなどが、特に感興を引き起こさないのと同じである。
ちなみに明治時代には、いつまでも童貞だと男に手を出すのではないかと心配されて遊廓に行くことを勧められたりしたとか。大正から昭和にかけては童貞の株が上がり、結婚まで童貞を守って妻に捧げるものだという考えが一般的だったそうである。
まあ良い。現役東大生22歳童貞がこんなこと書いたって負け犬の遠吠えとして取ってくれないのが世間だ。勝手にしろ。
この記事について書かれた日記を見ると、ほぼ「自分のそばに30代童貞がいたら無理」系か、「東大出でずっとがり勉して来たのならまあ仕方ない」系のどちらかである。東大の人間がそのことを過剰に意識してしまうのは半分は学外者のせいであるという説にますます頷きたくなってしまう。「無理」と仰る方に無理してもらおうとは思わないが、しかしね、まず今の東大にそういう昔ながらのがり勉がどれだけいると言うのかね。わたしの昔からの知り合いなら、少なくともわたしがそのタイプじゃないことはご存じのはずだし、そのわたしは、東大文学部の中でがり勉を1、チャラチャラを5とすれば2.5くらいだろう(文学部や経済学部は学内でチャラめだということは考慮しなければなるまいが。わたしも、全学の平均よりはチャラい方に属するかもしれない)。そんな、特別扱いされるほどのがり勉集団なのかは疑問だ、というのが中から見た実感である。
童貞とは、セックスしたことのない人、のことである。通例男。本来は性別に関係ない言葉だが、女の該当者のことは処女ということが圧倒的に多い。たとえば、キリスト教でマリアが処女のままイエスを身籠って出産したという伝承は「童貞説」といい、「処女説」ではない(聖書が翻訳された時に(この意味では)「童貞」という言葉しかなく、以後改訂されていないから)。もともと男女別なく使われていた語が、いつしか「童貞」と「処女」に分化したのは、同じ「セックスしたことがない」でもそれが男か女かではその価値が異なるという、ちょい過去の日本の文化的背景によるものに他ならない。英語ではいまでもどっちも「virgin」である。ここでは、今後男の「童貞」について書く。
さて、ある程度年齢が行った童貞を気持ち悪がる人というのは、「セックスしたことがない」ことを気持ち悪がっているわけではあるまい。昨今の恋愛至上主義かつ「セックス=恋愛」の価値観においては、好きな者同士がどしどし交際するのは奨励されることで、交際した暁にはいずれセックスに至るのが当然視されている。このような風潮の中で童貞であるということは、これまで満足に彼女を作ることもできなかったということを基本的には意味する。そしてこれは前述の価値観においては異常なことであり、その人は異常にもてない要素を持った人間であると見做され、もてない要素というのは大抵「気持ち悪い」のであって、ここに、「異常にもてない要素を持った気持ち悪い童貞」という認識ができあがる。
「童貞」の価値観が恋愛と結びついているのは、「素人童貞」という言葉を見れば明らかである。この言葉は、「セックス=恋愛」が「セックス=結婚」の価値観を卓越した頃に登場した言葉だ。いくらセックスしたことがあったって、相手がプロじゃだめだよねー、恋愛した相手としなきゃ本物じゃないよねー、というわけである。いまや「セックス=恋愛」価値観の独壇場であり、ここにおいて童貞というのは、実は無前提で「素人童貞」のことなのである。推測だが、「素人童貞」という言葉は、80年代とかと比べると使われなくなっていると思う。というのは、現在では何も頭に「素人」を付けなくたって「童貞」というだけでこのことを含意していると思われるからである。その筋で有名な成人向けマンガのセリフだが、「えーっマジ?童貞?!」「キモーイ!」「童貞が許されるのは小学生までだよね!」というのがあると聞く。このセリフを言うのはたしか女子高生だったと思う(セリフを知っているだけで話を知らないので不正確です、すみません)が、誰が言うのであろうと、童貞が小学生までしか許されないのであるならばこれはどうしたって「素人童貞」である。もちろんこれはフィクションの世界の話であるが、セックスの低年齢化とともに、「素人童貞」という概念が既に時代遅れになっていることは間違いあるまい。恋愛至上主義という時代の。
ので、恋愛ということにそこまで大きな価値を置かなければ、童貞だからといって気持ち悪いということにはならない。童貞が気持ち悪いのは童貞くんのせいというよりも、跋扈する「恋愛至上」と「恋愛=セックス」のタッグのせいなのだ。わたしは恋愛にもセックスにも重大な価値を見出していないので、童貞に対して特に何の感興も抱かない。蔑視もしないし、逆に身持ちが良いとか貞操があるとか言って褒めもしない。だって、ただ「セックスしたことがない」だけでしょ。「飛行機に乗ったことがない」「岩盤浴に行ったことがない」「ペルシャ語を勉強したことがない」「都営バス都01系統に始発から終点まで乗ったことがない」などなどが、特に感興を引き起こさないのと同じである。
ちなみに明治時代には、いつまでも童貞だと男に手を出すのではないかと心配されて遊廓に行くことを勧められたりしたとか。大正から昭和にかけては童貞の株が上がり、結婚まで童貞を守って妻に捧げるものだという考えが一般的だったそうである。
まあ良い。現役東大生22歳童貞がこんなこと書いたって負け犬の遠吠えとして取ってくれないのが世間だ。勝手にしろ。
この記事について書かれた日記を見ると、ほぼ「自分のそばに30代童貞がいたら無理」系か、「東大出でずっとがり勉して来たのならまあ仕方ない」系のどちらかである。東大の人間がそのことを過剰に意識してしまうのは半分は学外者のせいであるという説にますます頷きたくなってしまう。「無理」と仰る方に無理してもらおうとは思わないが、しかしね、まず今の東大にそういう昔ながらのがり勉がどれだけいると言うのかね。わたしの昔からの知り合いなら、少なくともわたしがそのタイプじゃないことはご存じのはずだし、そのわたしは、東大文学部の中でがり勉を1、チャラチャラを5とすれば2.5くらいだろう(文学部や経済学部は学内でチャラめだということは考慮しなければなるまいが。わたしも、全学の平均よりはチャラい方に属するかもしれない)。そんな、特別扱いされるほどのがり勉集団なのかは疑問だ、というのが中から見た実感である。