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シルバーの寝言

日々の出来事や感じた内容を徒然なるままに

箸墓古墳の立ち入り調査

2013年02月21日 05時56分32秒 | 歴史・文化
昨日、箸墓古墳への初の立ち入り調査が行われました。
 ↓
-----------------------産経新聞 2013.2.20 11:17 より---------------------------
最古の巨大前方後円墳で邪馬台国の女王・卑弥呼の墓との説がある奈良県桜井市の箸墓古墳
(全長280メートル)で20日午前、考古学研究者らによる墳丘への初の立ち入り調査が行われた。
同古墳について宮内庁は、孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)
の墓として管理しているが、3世紀中頃から後半の築造とされ、卑弥呼が死亡した時期と合致する
ことから、邪馬台国論争との関連で古墳の中で最も注目されている。
調査では、日本考古学協会など各歴史学会の研究者らが墳丘に入り、墳丘縁辺部にあたる最下段を
約1時間半かけて歩いて調査。同庁担当者から説明を受けながら、普段は見ることができない
墳丘内部の様子を詳しく観察していた。
午後からは、卑弥呼の後継、壱与(いよ)の墓ともいわれる同県天理市の西殿塚古墳(同230メートル)
も立ち入り調査する。同古墳は宮内庁が6世紀の継体天皇の皇后、手白香(たしらか)皇女の墓
として管理しているが、3世紀末ごろの築造との説が有力となっている。
陵墓の立ち入り調査は、平成20年に始まり、昨年までに国内2番目の大きさの応神天皇陵
(大阪府羽曳野市)など計7カ所で行われた。
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箸墓古墳・・・・3世紀中頃から後半の築造、卑弥呼の墓? 
        宮内庁では、孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命の墓として管理
西殿塚古墳・・・3世紀末ごろの築造、壱与の墓?
        宮内庁では、6世紀の継体天皇の皇后、手白香皇女の墓として管理
今にきっと、卑弥呼や壱与、そして邪馬台国のことが分かる日が来るかもしれません。
そうなれば、邪馬台国と大和朝廷の関係も分かるかもしれません。
そんなことを想像しただけで、ワクワクしてきます。

先日、と或るお寺の住職からこんなことを聞きました。
 ↓
先祖を祭るということは、自分の未来を祭ることでもある。
過去を敬い、過去を知るということは、未来を知ることでもある。

・・・・・今回の古墳の調査からも、一理あるのかもしれません。

北斎の冨嶽三十六景

2013年01月06日 17時28分45秒 | 歴史・文化
今朝のNHK日曜美術館で北斎の冨嶽三十六景が取上げられました。
冨嶽三十六景は、北斎70歳の時の作品で、人気を呼んだため実際には10作品が
追加されて46になったのだそうです。
それぞれの絵がどこから描かれたものかといった視点で番組が構成されていました。
番組の中で紹介されたのは、以下の作品でした。
 ↓
相州箱根湖水
甲州石班沢
駿州江尻・・・・富士山をバックに風が描かれています
東海道金谷ノ不二・・・大井川の渡しを挟んで島田の町を望む風景
甲州三島越・・・・大きな木を富士山の前に置いた風景
尾州不二見原・・・通称「桶屋富士」。丸い桶の中から遠くに富士山を望む
信州諏訪湖
深川万年橋下・・・橋の下から富士山を望む
登戸浦・・・・・鳥居の中から富士山を望む
凱風快晴・・・・有名な赤富士
山下白雨・・・・富士山の上は晴れで、下は雷
諸人登山・・・・昔の人達の富士登山
江都駿河町三井見世略圖
御厩川岸より両國橋夕陽見
礫川雪ノ旦
江戸日本橋・・・・日本橋の町並みから望む富士山
甲州三坂水面・・・・湖面に映る下の富士と上の富士は非対称。しかも上の富士は雪がないが下の富士は雪を被っている
青山円座松
常州牛掘
神奈川沖浪裏・・・・大きな波と遠くに望む富士山

北斎は、この後75歳の時に富嶽百景を作ったのだそうです。
WIKIで調べてみると富嶽百景は、3巻からなる絵本で、
富士山を画題に102図を描いたスケッチ集なのだそうです。
北斎は、数え年で90歳、満年齢で言うと88歳まで存命だったのです。
ゴッホや作曲家のドビュッシーにも影響を与えたのだそうで、
まさに日本が誇る美の巨人です。


古事記が編纂されてから1300年

2012年10月01日 05時40分29秒 | 歴史・文化
今年は古事記が編纂されてから1300年目にあたるそうです。
古事記ができた経緯について「『古事記』の真実」(PHP)から以下に抜粋しました。
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天武天皇の命で歴代天皇の系譜や事跡である「帝紀」、神代・人代の神話物語や歌謡などを
著した「本辞」などの基礎資料を整理して稗田阿礼(ひえだのあれ)に誦習(しょうしゅう)させた。
天武天皇は完成を見ずに崩御する。これを惜しみ、天武天皇の遺志を継いだのが、
四十三代元明天皇である。和銅4年(711年)、元明天皇は稗田阿礼の誦する「帝紀」「本辞」を
編纂するよう太安万侶(おおのやすまろ)に命を下す。
こうして翌年の和銅5年(712年)に古事記は完成し、献上されたのである。
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古事記の話を知れば知るほど、面白くて興味がわいてきます。
国生みの話は以下のとおりです。
 ↓
------------同じく「『古事記』の真実」より--------------------------
イザナキとイザナミは、天の神より「国土を固めよ」という命を受け、
神聖な矛を授けられた。そして天と地のあいだにかかる天浮橋(あめのうきはし)
に立つと、矛をさし降ろして「こおろこおろ」とかき回した。
矛を引き上げるとしたたる塩水が積もって島になった。これがオノゴロ島である。
島ができると二神は降り立ち、壮大な神殿(八尋殿)を造った。
それから互いに柱をまわって交わると、ヒルコ、淡島という形をなさない島が
生まれる。そこで天意に従ってもう一度やり直したところ、立派な島々を
生むことができた。
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そしてできた島が以下のとおりです。
・淡路島
・四国
・隠岐島
・九州
・壱岐
・対馬
・佐渡
・本州
このように、八つの島をお生みになったので、この国を大八島国(おおやしまのくに)というのだそうです。
このあと二神は様々な神を産みます。
・・・・・・そして話はずーーーーーーっと、続きます。

昭和30年から40年代の景気がよかった頃、神武景気、岩戸景気、いざなぎ景気という言葉がありました。
以下、WIKIから転載しました。
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神武景気は、1954年(昭和29年)12月から1957年(昭和32年)6月までに発生した、
爆発的な好景気で、神武天皇が即位した以来の好景気という意味でした。

岩戸景気は、1958年(昭和33年)7月~1961年(昭和36年)12月まで42か月間続いた
高度経済成長時代の好景気である。神武景気の31か月をしのぎ、神武景気を上回る好景気から、
神武天皇よりさらに遡って「天照大神が天の岩戸に隠れて以来の好景気」として名付けられた。

いざなぎ景気は、1965年(昭和40年)11月から1970年(昭和45年)7月までの57か月間続いた好景気。
神武景気や岩戸景気を上回る好況という意味を込めて名付けられた。
「いざなぎ」とは日本神話で、天つ神の命をうけ日本列島をつくったとされる男神「伊弉諾尊(いざなぎのみこと)」から。
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大昔に私は、この神武景気、岩戸景気、いざなぎ景気という言葉の意味を正しく理解していませんでした。
この言葉をつかっていた人たちは、戦前の教育を受けていたから理解していたのでしょう。
ところが、戦後教育では、神話の話は全く取上げられなくなってしまい、完全に断絶してしまいました。
あとはどこかで興味を持った人が自分で調べて、知識を得ていくしかなくなってしまったのです。
日本は、他国からの侵略を許さなかった稀有な国なのです。長い歴史と伝統に支えられてきた国なのです。
どこかの国みたいに近年になって歴史を捏造して神話を作り出していくような国とは日本は違います。
この古事記を始めとした神話の世界の話は、日本人として語り継いで守っていかねばならないと思います。