ハンセン病問題を考えるネットワーク泉北

「外島保養院移転予定地」だった
大阪府(旧)泉北郡の地元からの発信

明日の「外島保養院の歴史をのこす会」に参加します

2014年09月26日 00時36分27秒 | 日記
2003年7月に創立した「ハンセン病問題を考えるネットワーク泉北」は、和泉市を拠点にして活動して来ましたが、名前は「・・・和泉」ではなく「・・・泉北」です。
大阪にあったハンセン病療養所「外島保養院」が大正末期に旧泉北郡に移転する計画がありました。地元では町村長中心に激しい反対運動が行われ、結果的には、移転は実現しなかったのです。
国の隔離収容政策の推進(300人→1000人規模へ)には当然反対です。でも移転していたら泉北の丘陵地帯です。人的被害はなかったと思います。この認識を和泉市から堺市、高石市、泉大津市、泉北郡忠岡町、岸和田の一部つまり、旧泉北郡に拡げよう、そしてさらに広くとの主旨でネットワークは地道で地味な活動ですが続けています。「外島保養院を忘れない」「外島保養院の歴史を風化させない」です。
25日にはネットワークの事務局をやっている三宅mのことが読売新聞に大きく取り上げられました。当初の代表は和泉教会の牧師でした。和泉教会の以前の佐治良三牧師は長島の神学学校で教え、地域の子ども達を連れて訪問したと言う歴史があります。もうその子どもたちは70歳に近くなっています。

ネットワーク結成の直接のきっかけは、長島愛生園の故近藤宏一さんの故郷高石市の隣町に住む者として地元に帰ってもらうためでした。最初に近藤さんを迎える時にはいろいろな問題にぶつかりました。近藤さんは直前に体調を崩され、園の職員さんから「大阪へ近藤さんはいけません」と電話がかかり大変でした。近藤さんの了解なしに連絡がされたのです。近藤さんを和泉市で迎え、ハ―モニカと語りでイベントも企画し、広報で流れていました。体調が回復した近藤さんは、園の職員さんに抗議し、ふるさとへ帰って来られました。あっぱれでした。送迎に出向いたもの、会場で出迎えた私たち、近藤さんが帰って来られた感動で涙が滲み、思わず皆で「お帰りなさい  ふるさとへ」と手作りの横断幕を作りました。
昨年、私たちを心から信頼してくれて可愛がってくださった妹さんもなくなりました。寂しいかぎりです。移転問題という歴史認識と近藤さんきょうだいとの行ったり来たりで生かされてきた私たちです。
お2人は邑久光明園開設の翌日に愛生園に入所させられたのです。密かに生家跡、学校、神社など案内したこともありました。

写真は2004年12月に2度目に近藤さんをお迎えした時のものです。左は東京から駆けつけてくださった元「青い鳥楽団」メンバー(ボーカル)
読売新聞にも写真付きで報道されました。


私たちは、お2人に思いを寄せながら頑張っていきます。「外島保養院の歴史をのこす会」は私たちの念願でした。

お知らせ:2015年1月24日(土)黄光男さんの語りとコンサート

2014年09月19日 20時12分09秒 | 日記
和泉市立人権文化センターで行います。

ハンセン病回復者の家族としての思い

ギターを弾きながら

ご自身が作詞・作曲した「閉じ込められた命(いのち)」ほか唄って、

もらいます。

是非 ぜひ

JR信太山駅下車5分の人文センターに

来てください

閉じこめられた生命(いのち)  2014年2月
             詩・曲 黄光男
1、それはボクが一歳(ひとつ)の時だった
母は病にかかっただけなのに
その病が家族を引き裂いたんだ
それは「らい」という名の病

そしてボクが暮らし始めたのは
「孤児院」と言う名の新しい家族
みんな優しかった いい思い出ばかり
だけど本当の家族じゃなかった
 
 ※人を犠牲にしなければならい
  国があるとすれば
 それは人を人として認めない
  国でしかないだろう

※※閉じ込められて暮らした人たちは
それをみんな知っているんだ
殺すこともできない
生かすこともできない
閉じ込められた生命(いのち)


2、ボクが9歳(ここのつ)の時だった
初めて出会った 父さん母さん
初めて出会った姉さんたちと
これがホントの家族だったんだと

らい予防法という名の法律が
ボクらの家族を引き裂いたんだ
人を守るための  法律ではなく
国を守るための法律だったんだと
  
※くりかえし
※※くりかえし

9.21を忘れない・・・室戸台風から80年

2014年09月19日 19時27分02秒 | 日記
浜口金造『生きる あるハンセン病回復者の心の軌跡』(2007年12月22日新生出版㈱)を読んだ。
彼は、1934年9月8日に13歳で外島保養院に入り、2週間後に室戸台風に遭遇したのあった。
委託患者として菊池恵楓園に送られて光明園に戻ってきた。

室戸台風に遭遇した体験を詠んだ短歌

 「薄暗く海はなまり色白波が割れの前にて母の名呼びぬ」
 
 「濁流に助けてくれとおばちゃんが我の手触れて波間に消ゆる」
 
 「吹き荒るる助けてくれと叫びつつ多くの友は波間に消える」
 
 「神経が高ぶる我は恐れなし死骸と一緒にそばに寝入りぬ」

「外島保養院記念碑」前で行われる法要に参加して
  
 「介護長に誘導されて碑の前に花束そなえ胸せまり来る」

※私も大阪とハンセン病問題に15年前位前から関心を持ってきました。
 記念碑前で行なわれる法要で毎年のようにハンセン病回復者支援サポーターズ「虹の会おおさか」として花を奉げてきました。
 でもでも犠牲になった方々にどれだけ深い思いを巡らして来たかと問い返す。
 『外島保養院の風水害記念誌』を何度か読んでいるが・・・・。


ハンセン病問題を考えるネットワーク泉北 事務局 三宅美千子

1月25日「61ha」上映とトークが無事に終了しました

2014年03月13日 21時01分50秒 | 日記
「61ha絆 」上映とトーク
2011年/97分/(C)「61ha絆」製作委員会

【日時】平成26年(2014年)1月25日(土) 午後1時30分~4時30分
【場所】ゆう・ゆうプラザ1階大会議室
「61ha絆 」ビラより
瀬戸内の小島
ハンセン病に翻弄された人生
寄り添って生きる夫婦の愛の物語
ねえ、あなたどう??
よかよ。


61ha絆 [61ヘクタール きずな]
瀬戸内海に浮かぶ大島。
島のハンセン病療養所「大島青松園」で暮らす東條康江と夫の高。
目は見えず、不自由な体のリハビリを懸命に続ける妻に優しく寄り添う夫。
15歳と18歳で島に来たふたり。
わずか61ヘクタールの島の生活は60年以上に及ぶ。
辛いときにも、嬉しいときにも、ふたりの生活にはいつも歌があった。
礼拝の賛美歌。趣味のカラオケ。三十一文字の短歌。
それらはみな、ふたりが生きてきた証。優しい愛にあふれている。
神に祈り、歌に紡ぐ夫婦の日常を描いたドキュメンタリー。
監督は「ハルコ」「マリアのへそ」の野澤和之。撮影は堀田泰寛。
7年の歳月をかけて撮り続けた夫婦の物語。
「15歳のとき、3年経ったら治るからいけいけと、だまされて入れられたわけや」



ハンセン病と大島青松園
ハンセン病は、らい菌によって起こる病気。治療法が確立されている。日本では1907年の法律の制定から1996年に廃止されるまで患者の隔離政策が続いた。現在13か所の国立療養所に約2300人が暮らす。香川県の瀬戸内海の離島にある大島青松園もそのひとつ。1909年の発足当初は、患者定床200床、21名の職員が配置されたが入所者の増加に伴い最大時には860床となった。2012年現在は、高齢化が進み85人が暮らしてい


上映後、「ハンセン病問題」パネルトーク
 ○松浦武夫さん/機関紙『青松』執筆者
  ○金重紘二さん/元大島青松園ケースワーカー
○ハンセン病問題を考えるネットワーク泉北


2013年11月10日、お世話になった長島愛生園のY子さんが亡くなりました

2014年03月13日 16時03分54秒 | 日記
昔、光田健輔が社会復帰しなさいとお墨付きをだした方です。
就職の心配も職員さんがしてくれました。
でも、彼女は、ほんの一時期を除いて療養所で生涯を過ごしました。
私たちの地元出身の方です。晩年に大阪にお招きし、故郷の街をいっしょに訪ねたこと、伊賀・信楽を観光したことがありました。
幼なじみと再会したネットワーク主催の交流会では、生きていて良かったと思われたでしょう。
私の家に泊まっていただきました。夜もしゃべりましたよね。
もう一度大阪に迎えたかったのに!
彼女の冷静さ、聡明さは忘れません。
ネットワーク泉北とのつながりをとても大事にしてくださいました。
12月にあった49日法要では、Y子さんや、お兄さんに繋がる方々と出会い、思い出話をたくさんしました。
出会いに感謝します。
愛しさ、悲しさはまだまだ癒えません!
彼女の形見のカバン、セーターを身につけて過ごしています。
お部屋にあったオルゴール時計は我が家で時を告げてます。
今思い出しても「涙そうそう」です。


        事務局:三宅美千子

10月5日(土)長島愛生園を訪ねました

2013年10月10日 03時43分15秒 | 日記
今日は近藤さんの3回忌にあたる命日でした。

体調を崩しているYさんのお見舞いも兼ねて、三宅ミ、三宅ヨ、岡本、門林、山本で愛生園を訪問してきました。病棟に入院しているYさんは少し疲れているようでしたが、話し始めると少しずつ元気になり、ベットで横になりながらも「お母さんのことを書こうと思っています」ということを話してくれました。
その後、不自由者棟に転居した金泰九さんを訪問すると、、、最初は留守でしたが、カラオケに行っていたようで、お部屋におじゃましてお話をさせていただきました。目も耳も不自由になったとなげいていましたが、“口”と頭の回転はまだまだ大丈夫のようで、「“90歳に乾杯!”という本を口述筆記でもがんばって執筆してください」と励ましていました。

東京の友人Aさんから送っていただいた花を持って納骨堂で手を合わせました。Yさんのいる病棟には、大阪から持って行ったお花を飾りました。
愛生園ではいつもは見たことのない蟹がたくさん現れたり、帰りには鹿まで現れました。これは姿を変えて近藤さんが私たちに会いにきてくれたのだと私は思うことにしました。(少し強引ですが、、、)

愛生園や光明園には職員削減に反対する立看板がありました。裁判に勝ってもまだ闘いつづけなければならない状況があるということを忘れてはならないし、そのことに対して私たちのできることは何なのかを考えなければならないと思います。
そうでなければ、裁判前の状況と何ら変わらないことになるのではないでしょうか、、、。(ハンセン病問題を考えるネットワーク泉北代表)

長島愛生園


邑久光明園

7月に「ハンセン病問題を考えるネットワーク泉北」設立10周年

2013年05月25日 06時19分50秒 | 日記
2003年7月に長島愛生園の故近藤宏一さんを故郷に迎えようと立ち上げた「ハンセン病問題を考えるネットワーク泉北」が10周年を迎えます。
映像、新聞、テレビその他活動の足跡を振り返りつつあります。
来年1月から3月には大島青松園で暮らす夫妻を描いた「61ha」の映画上映会をしてシンポジウムを予定しています。
そして、10年の歩みをまとめていこうとしているところです。

1月26日「もういいかい」上映会無事に終了しました・・心の通い合う交流会でした!

2013年01月30日 20時32分33秒 | 日記
午後の上映の前に、関西退所者原告団「いちょうの会」会長の宮良正吉さんがパワーポイントでご自身の体験を歴史背景とともに講演、映画監督高橋一郎さんからも映画を作った経緯を話してくれました。
2時間20分の映画は長いけど、3つの法律を軸に国家の隔離政策を国賠訴訟を闘った方々で綴る内容は、未来への遺言にもなることでしょう。
沖縄の金城幸子さんを和泉の講演にお招きした時、高橋さんが来られました。「ハンセン病問題を考えるネットワーク泉北」のメンバーとも出会いました。
「ここが映画をつくる原点となった場所です。」と挨拶されるので心打たれました。本当にご自身の足で何度も歩き歩きした結果出来上がった映画と言えるでしょう。
交流会では、打ち解けて暖かい雰囲気でした。最後は宮良正吉さん、ネットワークの岡本晃一さんの三線演奏に合わせて歌い、来年度に向けて充電できた一日でした。
2月に「サンテレビ」で放映されるそうです。楽しみです。
宮良正吉さん

高橋一郎監督

1月26日(土)映画会&講演のお知らせ

2012年12月30日 00時13分38秒 | 日記
1月26日、映画「もういいかい」上映会が和泉市立人権文化センターで行われます
宮良正吉さん(関西退所者原告団「いちょうの会」会長)にお話をお願いしています
映画にも出演されている方です。

結核療養所「福泉園」跡地・・・外島保養院移転予定地

2012年12月30日 00時03分03秒 | 日記
外島保養院移転予定地
よく辺りを観察しながら歩くと
療養所跡には府営住宅が立ち並んでいますが
周辺は当時の名残りの樹木が成長しています
正門付近は桜だけど
他の角度から見ると