2003年7月に創立した「ハンセン病問題を考えるネットワーク泉北」は、和泉市を拠点にして活動して来ましたが、名前は「・・・和泉」ではなく「・・・泉北」です。
大阪にあったハンセン病療養所「外島保養院」が大正末期に旧泉北郡に移転する計画がありました。地元では町村長中心に激しい反対運動が行われ、結果的には、移転は実現しなかったのです。
国の隔離収容政策の推進(300人→1000人規模へ)には当然反対です。でも移転していたら泉北の丘陵地帯です。人的被害はなかったと思います。この認識を和泉市から堺市、高石市、泉大津市、泉北郡忠岡町、岸和田の一部つまり、旧泉北郡に拡げよう、そしてさらに広くとの主旨でネットワークは地道で地味な活動ですが続けています。「外島保養院を忘れない」「外島保養院の歴史を風化させない」です。
25日にはネットワークの事務局をやっている三宅mのことが読売新聞に大きく取り上げられました。当初の代表は和泉教会の牧師でした。和泉教会の以前の佐治良三牧師は長島の神学学校で教え、地域の子ども達を連れて訪問したと言う歴史があります。もうその子どもたちは70歳に近くなっています。
ネットワーク結成の直接のきっかけは、長島愛生園の故近藤宏一さんの故郷高石市の隣町に住む者として地元に帰ってもらうためでした。最初に近藤さんを迎える時にはいろいろな問題にぶつかりました。近藤さんは直前に体調を崩され、園の職員さんから「大阪へ近藤さんはいけません」と電話がかかり大変でした。近藤さんの了解なしに連絡がされたのです。近藤さんを和泉市で迎え、ハ―モニカと語りでイベントも企画し、広報で流れていました。体調が回復した近藤さんは、園の職員さんに抗議し、ふるさとへ帰って来られました。あっぱれでした。送迎に出向いたもの、会場で出迎えた私たち、近藤さんが帰って来られた感動で涙が滲み、思わず皆で「お帰りなさい ふるさとへ」と手作りの横断幕を作りました。
昨年、私たちを心から信頼してくれて可愛がってくださった妹さんもなくなりました。寂しいかぎりです。移転問題という歴史認識と近藤さんきょうだいとの行ったり来たりで生かされてきた私たちです。
お2人は邑久光明園開設の翌日に愛生園に入所させられたのです。密かに生家跡、学校、神社など案内したこともありました。
写真は2004年12月に2度目に近藤さんをお迎えした時のものです。左は東京から駆けつけてくださった元「青い鳥楽団」メンバー(ボーカル)
読売新聞にも写真付きで報道されました。
私たちは、お2人に思いを寄せながら頑張っていきます。「外島保養院の歴史をのこす会」は私たちの念願でした。
大阪にあったハンセン病療養所「外島保養院」が大正末期に旧泉北郡に移転する計画がありました。地元では町村長中心に激しい反対運動が行われ、結果的には、移転は実現しなかったのです。
国の隔離収容政策の推進(300人→1000人規模へ)には当然反対です。でも移転していたら泉北の丘陵地帯です。人的被害はなかったと思います。この認識を和泉市から堺市、高石市、泉大津市、泉北郡忠岡町、岸和田の一部つまり、旧泉北郡に拡げよう、そしてさらに広くとの主旨でネットワークは地道で地味な活動ですが続けています。「外島保養院を忘れない」「外島保養院の歴史を風化させない」です。
25日にはネットワークの事務局をやっている三宅mのことが読売新聞に大きく取り上げられました。当初の代表は和泉教会の牧師でした。和泉教会の以前の佐治良三牧師は長島の神学学校で教え、地域の子ども達を連れて訪問したと言う歴史があります。もうその子どもたちは70歳に近くなっています。
ネットワーク結成の直接のきっかけは、長島愛生園の故近藤宏一さんの故郷高石市の隣町に住む者として地元に帰ってもらうためでした。最初に近藤さんを迎える時にはいろいろな問題にぶつかりました。近藤さんは直前に体調を崩され、園の職員さんから「大阪へ近藤さんはいけません」と電話がかかり大変でした。近藤さんの了解なしに連絡がされたのです。近藤さんを和泉市で迎え、ハ―モニカと語りでイベントも企画し、広報で流れていました。体調が回復した近藤さんは、園の職員さんに抗議し、ふるさとへ帰って来られました。あっぱれでした。送迎に出向いたもの、会場で出迎えた私たち、近藤さんが帰って来られた感動で涙が滲み、思わず皆で「お帰りなさい ふるさとへ」と手作りの横断幕を作りました。
昨年、私たちを心から信頼してくれて可愛がってくださった妹さんもなくなりました。寂しいかぎりです。移転問題という歴史認識と近藤さんきょうだいとの行ったり来たりで生かされてきた私たちです。
お2人は邑久光明園開設の翌日に愛生園に入所させられたのです。密かに生家跡、学校、神社など案内したこともありました。
写真は2004年12月に2度目に近藤さんをお迎えした時のものです。左は東京から駆けつけてくださった元「青い鳥楽団」メンバー(ボーカル)
読売新聞にも写真付きで報道されました。
私たちは、お2人に思いを寄せながら頑張っていきます。「外島保養院の歴史をのこす会」は私たちの念願でした。