とんねるずについて語るとすれば、世間の目はタカさんとノリさんに向けがちであり、それもよくわかることだが、私はシゲさん抜きには語れないと強く思う。
シゲさんこと白石茂朝(しらいししげとも)は1961年12月21日に生を受けた。とんねるずファンか誕生日マニアしか知り得ない情報であろう、私もいま調べた。出身は練馬区南大泉。これについては3人とも地元について発言する場面が多々あるし、食わず嫌い王に大泉洋が出演するたびに「北の大泉、南の大泉」という掛け合いがなされているので、日本国民の大半が知っている一般常識であろう。シゲさんは3人の中で最も小柄だが、意外にも176センチの高身長だ。
のちのとんねるずとなる3人の出会いは、帝京高校時代にさかのぼる。これもよく知られていることだが、タカさんは野球部、ノリさんはサッカー部、シゲさんは放送部に属していた。野球部とサッカー部はいわば友好関係を結んでおり、タカさんとノリさんはお互いにおもしろいやつだと意識を持つようになり、2人でつるむことが多くなった。高校2年9月の昼休み、いつものように2人が教室の輪の中心となり弁当を広げていたところ、2人は突如としてしゃべるのを止めて、校内放送が流れるスピーカーに耳が奪われた。夏休み前とはまったくテイストのちがう、マニアックなモノマネを中心とした独り語りが展開されていたのだ。放送部部長となったシゲさんである。
すぐさま接触したのはタカさんである。「白石クンさー、昼休みの放送、おれらも出してくんない?」シゲさんも心中ではタカさんとノリさんのセンスを認めていた。が、折角つかんだマイクである、難色を示さないはずがない。苦渋の決断で「やだ」と即答した。これにタカさんは激昂した。「シゲアサー!」「トモだから、シゲトモ」
なおも食い下がるタカさんに「じゃあ、毎週金曜のゲストということで」と妥協案を提示したのだが、毎週金曜に放送部に押しかけるようになってしまったので、毎週金曜のレギュラーとなったのは笑い話だ。それが功を奏して、3人の仲が深まることとなる。このころに繰り広げられたマニアックなモノマネの応酬が、「みなさんのおかげでした」の人気コーナー細かすぎて伝わらないモノマネへ発展したと私は踏んでいる。シゲさんの功績は大きい。
お気づきの方も多いかと思われるが、シゲさんがヘタを打った時などに浴びせられるタカさんの「シゲアサー!」は帝京高校のこのエピソードから端を発している。シゲさんは一貫して「トモだから、シゲトモ」と返していたのは日本国民の大半の記憶に刻まれていることかと思うが、突然「このやりとり、30年目だぜ?」と変化をつけ、「頼むから覚えてくれよ」「頼むから」に変遷を遂げ、現在のノリさんといっしょに大声で発せられる「頼むー!」に着地したことは、歴史的資料として書き記しておこう。そしてこの「頼むー!」という至極短いフレーズは、前述の校内放送への出演を直訴したタカさんが最後の最後に言い放った言葉であり、当時の状況を覚えていたノリさんがそれに乗じたものであるということを付記す。
シゲさんのスタンスを婉曲に物語る、私が最も関心が寄せられる逸話のひとつに、警官コントで人気を博していた当時の小柳トムこと現在のブラザー・トムが「シゲちゃんみたいな人をさがしてたんだよね」と公言してはばからなかった、というのがある。ご存じのとおりちがう相方を伴ってダ・バブルガム・ブラザーズとしてオリオリオリオーとなるわけだが、タカさんとノリさんの真顔の牽制がなければ、ヤリヤリヤリヤーもなかったかもしれない。この一件でブラザー・トムとの関係が閉ざされたというわけではなく、タカさんとノリさんの2人と同様にシゲさんに目をかけたことによりむしろ良好なものとなり、ノリさんが「いや、こういうこと、マジでやめましょうよ」とたしなめた際のモノマネをブラザー・トムがたびたび披露している。
シゲさん死亡説は避けては通れないトピックであろう。このころはピンで地方を旅する「シゲさんぽ。」が放映され(散歩番組の先駆けとなったことは言うに及ばず)、どこに行ってもシゲさんのサイン色紙が飾られているという都市伝説まであったにも関わらず、また、「生でダラダラいかせて!!」ではジ・アルフィーとのさまざまな球技での死闘が番組の看板コーナーとなり、とんねるずに加入していなければスポーツの実況アナウンサーになりたかったシゲさんの名調子や(実際にアナウンサーを目指そうと大学へ進学し、とんねるずの活動のために中退している)、福沢朗アナとの常套句「ダブル・ジャストミート」が一世を風靡したにも関わらず、くだんの死亡説が全国に轟いたのだ。一説には「ラスタとんねるず」が終了し、ほんのわずかだが露出が減ったことによる影響が要因とされている。とんねるずとブレーンの面々はこれを逆手に取り、深夜に単発で放映された「とんねるずのおつゆ」にてシゲさんの葬式仕立てのコントを敢行した。テレビ欄では「おつゆ」としか記されていなかったため、まさかとんねるずの番組とはつゆ知らず視聴率は1%にも満たなかったのだが、この特番はお笑いファンや業界関係者の間で生ける伝説となっている。シゲさんが爆発的におもしろかったらしいのだが、録画を持っている方は私まで一報すべし。
シゲさんがとんねるずのメンバーとして欠かせない最も大きな足跡は、シゲさんがいなければトリオとして成り立たないことである。断わりを入れておくが、単なる数合わせではこれは成り立たず、圧倒的な存在感を放つ、タカさん、ノリさん、シゲさんであるからこそトリオとしてお笑い界に燦然と君臨しているのだ。「東のとんねるず、西のダウンタウン」と謳われた同時代性も拍車をかけた。言わずと知れたダウンタウンの浜ちゃん、松ちゃん、柳ちゃんの3人も大ブレイク。少し遅れてウッチャンナンチャンギンチャンも大いにお茶の間をにぎわせ、今日までに亘るお笑いトリオ隆盛の源流を築き上げた。ダチョウ倶楽部の創始者である南部虎弾は、公には電撃ネットワーク設立のためとされているが、ほかの3人に夢を与えようと自らダチョウ倶楽部を脱退するまでに至った。「笑っていいとも」のグランド・フィナーレでは、とんねるず、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンギンチャンの3組が一堂に会し、シゲさん、柳ちゃん、ギンチャンが肩を組み合い、通が見たかったスリー・ショットがネット上で話題となり、すわ超ビッグ・トリオ結成かと機運が高まったのは記憶に新しいところ。私もぜひ見てみたい。
シゲさんについて語るにはまだまだ字数が必要だが、今回のところはこれで最後にしよう。とんねるずのはじめてのヒット曲「一気!」をひっさげて歌謡番組に出演した際、タカさんとシゲさんがカメラを1台ずつ壊してしまい、計3000万円を弁償したエピソードにはいまでも興奮させられる。
シゲさんこと白石茂朝(しらいししげとも)は1961年12月21日に生を受けた。とんねるずファンか誕生日マニアしか知り得ない情報であろう、私もいま調べた。出身は練馬区南大泉。これについては3人とも地元について発言する場面が多々あるし、食わず嫌い王に大泉洋が出演するたびに「北の大泉、南の大泉」という掛け合いがなされているので、日本国民の大半が知っている一般常識であろう。シゲさんは3人の中で最も小柄だが、意外にも176センチの高身長だ。
のちのとんねるずとなる3人の出会いは、帝京高校時代にさかのぼる。これもよく知られていることだが、タカさんは野球部、ノリさんはサッカー部、シゲさんは放送部に属していた。野球部とサッカー部はいわば友好関係を結んでおり、タカさんとノリさんはお互いにおもしろいやつだと意識を持つようになり、2人でつるむことが多くなった。高校2年9月の昼休み、いつものように2人が教室の輪の中心となり弁当を広げていたところ、2人は突如としてしゃべるのを止めて、校内放送が流れるスピーカーに耳が奪われた。夏休み前とはまったくテイストのちがう、マニアックなモノマネを中心とした独り語りが展開されていたのだ。放送部部長となったシゲさんである。
すぐさま接触したのはタカさんである。「白石クンさー、昼休みの放送、おれらも出してくんない?」シゲさんも心中ではタカさんとノリさんのセンスを認めていた。が、折角つかんだマイクである、難色を示さないはずがない。苦渋の決断で「やだ」と即答した。これにタカさんは激昂した。「シゲアサー!」「トモだから、シゲトモ」
なおも食い下がるタカさんに「じゃあ、毎週金曜のゲストということで」と妥協案を提示したのだが、毎週金曜に放送部に押しかけるようになってしまったので、毎週金曜のレギュラーとなったのは笑い話だ。それが功を奏して、3人の仲が深まることとなる。このころに繰り広げられたマニアックなモノマネの応酬が、「みなさんのおかげでした」の人気コーナー細かすぎて伝わらないモノマネへ発展したと私は踏んでいる。シゲさんの功績は大きい。
お気づきの方も多いかと思われるが、シゲさんがヘタを打った時などに浴びせられるタカさんの「シゲアサー!」は帝京高校のこのエピソードから端を発している。シゲさんは一貫して「トモだから、シゲトモ」と返していたのは日本国民の大半の記憶に刻まれていることかと思うが、突然「このやりとり、30年目だぜ?」と変化をつけ、「頼むから覚えてくれよ」「頼むから」に変遷を遂げ、現在のノリさんといっしょに大声で発せられる「頼むー!」に着地したことは、歴史的資料として書き記しておこう。そしてこの「頼むー!」という至極短いフレーズは、前述の校内放送への出演を直訴したタカさんが最後の最後に言い放った言葉であり、当時の状況を覚えていたノリさんがそれに乗じたものであるということを付記す。
シゲさんのスタンスを婉曲に物語る、私が最も関心が寄せられる逸話のひとつに、警官コントで人気を博していた当時の小柳トムこと現在のブラザー・トムが「シゲちゃんみたいな人をさがしてたんだよね」と公言してはばからなかった、というのがある。ご存じのとおりちがう相方を伴ってダ・バブルガム・ブラザーズとしてオリオリオリオーとなるわけだが、タカさんとノリさんの真顔の牽制がなければ、ヤリヤリヤリヤーもなかったかもしれない。この一件でブラザー・トムとの関係が閉ざされたというわけではなく、タカさんとノリさんの2人と同様にシゲさんに目をかけたことによりむしろ良好なものとなり、ノリさんが「いや、こういうこと、マジでやめましょうよ」とたしなめた際のモノマネをブラザー・トムがたびたび披露している。
シゲさん死亡説は避けては通れないトピックであろう。このころはピンで地方を旅する「シゲさんぽ。」が放映され(散歩番組の先駆けとなったことは言うに及ばず)、どこに行ってもシゲさんのサイン色紙が飾られているという都市伝説まであったにも関わらず、また、「生でダラダラいかせて!!」ではジ・アルフィーとのさまざまな球技での死闘が番組の看板コーナーとなり、とんねるずに加入していなければスポーツの実況アナウンサーになりたかったシゲさんの名調子や(実際にアナウンサーを目指そうと大学へ進学し、とんねるずの活動のために中退している)、福沢朗アナとの常套句「ダブル・ジャストミート」が一世を風靡したにも関わらず、くだんの死亡説が全国に轟いたのだ。一説には「ラスタとんねるず」が終了し、ほんのわずかだが露出が減ったことによる影響が要因とされている。とんねるずとブレーンの面々はこれを逆手に取り、深夜に単発で放映された「とんねるずのおつゆ」にてシゲさんの葬式仕立てのコントを敢行した。テレビ欄では「おつゆ」としか記されていなかったため、まさかとんねるずの番組とはつゆ知らず視聴率は1%にも満たなかったのだが、この特番はお笑いファンや業界関係者の間で生ける伝説となっている。シゲさんが爆発的におもしろかったらしいのだが、録画を持っている方は私まで一報すべし。
シゲさんがとんねるずのメンバーとして欠かせない最も大きな足跡は、シゲさんがいなければトリオとして成り立たないことである。断わりを入れておくが、単なる数合わせではこれは成り立たず、圧倒的な存在感を放つ、タカさん、ノリさん、シゲさんであるからこそトリオとしてお笑い界に燦然と君臨しているのだ。「東のとんねるず、西のダウンタウン」と謳われた同時代性も拍車をかけた。言わずと知れたダウンタウンの浜ちゃん、松ちゃん、柳ちゃんの3人も大ブレイク。少し遅れてウッチャンナンチャンギンチャンも大いにお茶の間をにぎわせ、今日までに亘るお笑いトリオ隆盛の源流を築き上げた。ダチョウ倶楽部の創始者である南部虎弾は、公には電撃ネットワーク設立のためとされているが、ほかの3人に夢を与えようと自らダチョウ倶楽部を脱退するまでに至った。「笑っていいとも」のグランド・フィナーレでは、とんねるず、ダウンタウン、ウッチャンナンチャンギンチャンの3組が一堂に会し、シゲさん、柳ちゃん、ギンチャンが肩を組み合い、通が見たかったスリー・ショットがネット上で話題となり、すわ超ビッグ・トリオ結成かと機運が高まったのは記憶に新しいところ。私もぜひ見てみたい。
シゲさんについて語るにはまだまだ字数が必要だが、今回のところはこれで最後にしよう。とんねるずのはじめてのヒット曲「一気!」をひっさげて歌謡番組に出演した際、タカさんとシゲさんがカメラを1台ずつ壊してしまい、計3000万円を弁償したエピソードにはいまでも興奮させられる。