はな to つき

花鳥風月

桜の下にて、面影を(17)

2019-08-31 19:41:26 | 【桜の下にて、面影を】
☆☆☆

――いよいよ、幕が上がる時が来たようですね。
何度目になるのかさえ、すでに分からなくなるくらいに通い慣れた京都。
住友苗雅は、ロマンティック街道まっしぐらな後輩寂念の説に乗ったような振りをして、桜の季節の古都にいた。

旅の初日は、決まって昼の食事を済ませることからスタートする慣わしの彼は、初めて訪れた喫茶店の扉を、いつもの静かな腕で引いた。
――『Born to Smile』ですね。
お気に入りの曲に耳を奪われ、それだけで心地の良い店という折り紙を付けた。
「いらっしゃいませ。ただいま満席でして、少しだけお待ちいただけますか?」
「どうぞ、お構いなく」
慌ただしく動く、丁寧な店員の言葉に苗雅は丁重に答え、店内をゆっくりと見渡そうとした。
とその時、その暇もないほどに鮮烈な視線を受け止めた。
入り口を背にして立っていた彼の正面奥の席、一人で食事をとっていた女性の視線だった。
まるで幽霊か何かでも見るような、現のものとは思えないような不思議な目だった。
これまでの人生、その風貌から好奇な目で見られ続けてきたことは知っている。
それでも、そのような視線によって己が道を違えることはなかった苗雅(なえまさ)である。
しかし、たった今向けられているものは、これまでのどれとも異なる、どんな前例も当てはまらないものだった。
想定を超えていた。
想定以上の展開に、うまい言葉が見つからない。
あまりに言葉が浮かばないという未経験に、いささかおかしさがこみ上げてきて、
表情のほとんど変わらない彼には珍しく、視線を合わせたまま相好を崩した。
そんな一瞬なのか、数分の出来事なのかさえ判別できない事態が展開していた横で、
小回りの効く店員は、耳打ちするように正面で一人座る女性に確認をして戻ってきた。
「ご合席でよろしければ、すぐにでもお通しできますが」
視線を外すことも憚られる思いに駆られながら、一旦、至近距離の店員にフォーカスを変えて、いたって日常の口調で答えた。
「もちろん、問題ございません」
見事に短時間で一人ずつの客が合席に合意した。
「先ほどは、誠に申し訳ございませんでした。いきなり微笑むような不躾な行為をお許しください」
着席する前、当世らしからぬ風情で衣紋を直し、苗雅はゆっくりとお詫びの言葉を伝えた。
「いいえ、こちらこそ無作法な真似をしてしまい、ごめんなさい」
そう言ってから、あまりの挙動不審になってしまっていた自分に漸く気づいた二葉は、心を落ち着かせるようにして穏やかに席を立ち、目の前に立つ和装男性の正面に入って深くお辞儀をした。
「わたくしは、住友苗雅と申します。もしや以前どこかで、お会いしたことがございましたか?」
わざわざ喫茶店で合席になった人に、その場で名乗る義理などどこにもない。
しかしそれ以上に苗雅という人物は、そんなことをケチケチするような人物ではなかった。
「いいえ。初めてお目にかかりました」
「そうでしたか。それであれば良かったです」
「はい。ご心配をおかけいたしました」
「いえいえ、心配などはいたしておりませんので、どうぞお気遣いなく。そして、ご合席のお許しを賜りまして、ありがとうございます」
どこまでも崩れることを知らない言葉遣いである。
「いえ、私も四人席を独占しているみたいで、少し心苦しい思いをしていたところですから」
「なるほど。ある意味では渡りに舟のようなタイミングだったのですね、わたくしは」
「そうですね、渡りに舟のようでした」
珍しく苗雅が口にした冗談を、まるでいつものことのように冗談として捉えた二葉は微笑んだ。
「それでは、遠慮なく正面を拝借いたします」
「取り散らしておりますが、どうぞお気になさらないでください」
育ちの良さが滲み出る会話である。少し緊張しているが、やりとり、言葉遣いそのものに偽りはないことが誰にも分かった。
単なる挨拶という行為にもかかわらず、それが和装で端正な青年と瀟洒な佳人によるものだったことで、二人が共存する空間に周囲の視線は無遠慮なまでに吸い寄せられた。
「同じものをお願いできますでしょうか?」
苗雅はお冷を持ってきた店員にそう注文して、二人同時に着席した。
曲は、「Loving Life」に移っていた。

(つづく)

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