ハナウマ・ブログ

'00年代「ハワイ、ガイドブックに載らない情報」で一世を風靡した?花馬米(はなうま・べい)のブログです。

不自然にきれいなお姉さんは、好きですか。

2021年12月20日 | 沈思黙考

むかし、ある家電メーカーの広告で使われていたキャッチコピーをご記憶の方も多いだろう。平成の半ばぐらいからだろうか、「きれい」の実態はあくまでも見る人と見られる人の間の「中間存在」を前提としている場合が多くなってきているようだ。この意味でのきれいは「いっとき物語」としては華々しく存立するのだけれども、これが中間存在のない状況に置かれたとき、途端に滑稽なものとして浮かび上がってくる。

INDEX

  • カワイ過ぎる被疑者の写真
  • 「美は高精細に宿る」という思想
  • 物語としての美しさ
  • 画像分析的でない「きれい」こそ魅力

カワイ過ぎる被疑者の写真

数年前の話だが、幼い子どもを自分たちの身勝手な事情で餓死に至らしめた若い男女の事件が新聞に載っていた。深刻で、悲しくて、やりきれない気持ちになる事件だ。
ところがそこに掲載されていたのは、身勝手極まりない被疑者のカワイイ写真だったのである。

パンチパーマのようなヘアスタイルに口ひげを生やしたその男の写真は、口はおちょぼ口、目がクリっとして大きく、そして(新聞の写真ではあるが)肌はきれいである。しかし顔全体としてどこか違和感の残る、生身の人間らしくないアンバランスさが感じられる。
既にお気づきのとおり、これはおそらく「プリクラ写真」である。観光施設やゲームセンターなどに置かれている、楽しく画像加工することが第一目的の写真撮影ボックスの作品である。

事件が発生した時、現場の記者は被疑者の顔写真を手に入れようと必死に周辺を駆けずり回るらしいが、このときはマトモな被疑者の写真を得ることが出来なかったのかもしれない。そもそもこの類(たぐい)の事件を起こすような人物にとってマトモな写真は、逮捕後に警察で撮影されるもの以外にないのかもしれない。
いずれにしろその三面記事は、悲惨な事件の内容よりもカワイイ被疑者の写真のほうが異様な存在感を放っていた。

「美は高精細に宿る」という思想

テレビを含めあらゆる画像再生装置がデジタル高精細であることが当たり前のいま、その前の時代を想像するのは難しいかもしれない。
一般家庭レベルで(そこそこ)高精細なテレビ視聴が出来るようになったのはだいたい2000年ごろのことだ。

ハイビジョン・テレビが市販され出したのは1989年ごろだが、その時の価格は100万円を軽く超し、企業や、ムダに金を持っている世帯などでなければ買えるような代物ではなかった。
もちろん収録、編集、送受信、再生などのステップは、すべてアナログ技術の時代である。そしてテレビ画面はLEDでも液晶でもなく、おもに「ブラウン管」であった。

「ハイビジョン」という言葉はNHK関連の一般財団法人の登録商標らしいが、この時期まずアセッたのは、NHKの女性アナウンサーだという。それは無理もないだろう。
その後、テレビ界の革命たるハイビジョンへの地殻変動は、その宣伝効果を狙った「肌のキメまでクッキリと」といったようなキャッチフレーズとあいまって、女優や女性歌手、女性アナウンサーたちをざわつかせた。
美容業界は化粧品メーカーを中心に、ここぞとばかりに「ハイビジョンに耐えうる美しさ」を強調しはじめ、電気・電子の技術用語が美容業界で乱舞した。
思えばこの時が、「美しいとは、高精細で見ても美しいということ」という、分析的な価値観を世に固定化させ始めたタイミングだったのかも知れない。

物語としての美しさ

プリクラに代表される気軽で親しみやすい画像加工技術、テレビ放送をはじめとした高精細の画像再生技術、化粧品(特にファンデーションやコンシーラー)の進化、そしてインターネット(特にSNS)の浸透、プロフェッショナルレベルにまで進化した、一般人向け画像加工ソフトウェア。
これらがあいまって「きれい」ということの意味が、「どんなに画像を拡大してもきれい」ということなのだと言う空気が社会を覆うようになってきた。
シミ一つ、毛穴一つあっては許されない。

しかしもはやそれは人間の自然な姿からは程遠い。
あまりに行き過ぎた加工により、却って不気味な蝋人形のような人物画像まで出回り始めた。そこであえて小さなシミや影を追加するなどといった逆転作業さえ行われている。
ただこういった現象はおもに、テレビやインターネット、広告写真など、つまりは生身の人間が向き合うのではない状況で行われていることである。すなわちメディア(まさに媒体)という中間存在を介していることが大前提となっている。

これはなにも芸能人などだけではない。一般人もスマホで気軽に写真を撮り、意図しなくとも「キレイ加工」され、SNSやスマホという中間存在を介して友人や恋人に加工画像を渡している。受け取った方はそこで、自分なりの物語を膨らませることが可能なのである。

ちなみにスマホのカメラも含め世に出回っている一般向けのデジタルカメラは、その原理から言ってプリクラと同じである。何も加工していないつもりでも、画像エンジンという名の電子回路とソフトウェアが、現実とは異なる画像を作ってくれているのである。
もし真実の写真?を得たければ、プロ向けの高級デジタル一眼でも購入して、RAWという特殊な形式で画像データ(生データ)を記録するといい。

演劇などの舞台装置もメディアである。
観客はひと時、舞台の額縁(プロセニアム・アーチ)の内側に没頭する。生身の人間が会場で向き合っているとはいえ、舞台と観客席は物理的・心理的に一定の距離があり、そのことがすでに中間存在となっている。
筆者は3,000円程度のチケットで観られるオペラを年に1~2回見に行くが、公演終了後にロビーで役者たちがあいさつに並ぶシーンに、滑稽さと少しの嫌悪感を持ってしまう。
なぜなら、衣装はともかく非日常的な舞台メイクで向き合ってあいさつされても、なんだか奇妙な居心地の悪さを感じるのだ。「汗だく歌舞伎メイク」でニッコリ感謝される違和感である。舞台メイクはあくまで遠目で見るべきものだ。
だから本当はこんなロビーあいさつを避けて、舞台の感動を壊さないようにしてさっさと帰りたいというのが正直なところなのである。
これは白無垢の花嫁がうっかり笑ってしまい、歯の黄色さが強調されてしまう瞬間と通じるかもしれない(かといって人工的で不自然に輝く白い歯にも強烈な違和感を覚えるのだけれど)。

話がそれたが、こういった中間存在が前提となる「きれい」は、現実を超越した物語として「きれい」ということではないだろうか。
そしてその物語が破壊されるのが、ロビーあいさつであり、白無垢の黄色い歯であり、いつもは中間存在を介して「会って」いた人物と生身の人間として対面する時なのかも知れない。

画像分析的でない「きれい」こそ魅力

人や物の全般にわたって「きれい」と「きれいでない」を選択できる状況にあるとすれば、「きれい」を選択するのが普通だろう。しかし単に「きれい」であることがすぐに魅力的という感情につながるかといえば、必ずしもそうではない気がする。

「輝く笑顔」という表現があるけれども、どうも昨今の男女の画像というものに、言わば血の通った魅力を感じないのは筆者だけだろうか。
確かに画像分析的にはきれいなのだけれど、それが魅力にまで変化していくような感動は、まず起こらないのだ。ときおり「うまく造りこんだねぇ」という、分析的・技術的感動がある「作品」に出くわすという程度なのだ。

これは多分に、昭和40年生まれという筆者の世代感覚も大きいのかもしれない。
しかし、加工技術によって生産された「きれい」には魅力を感じないのである。画像分析的にきれいである「だけ」ならば、現代はどうにだってできる時代である。
もしも「きれいなだけ」であるとすれば、それは「金だけはたくさん持っているバカ」とあまり変わらないような気さえする。ならば、「なにより自然体で、ふつうレベルのきれい」のほうが魅力的ではないか、と思うのである。
高級な家具や調度品が置かれた家などより、よく掃除が行き届いた古い住宅のほうに魅力を感じるのである。
やはりこれは、世代感覚のなせる業であろうか。

ただ、「きれい」とか「うつくしい」という感情は、それを訴えようとする側と感じ取る側とで多分にズレがあるものなのかもしれない。
「きれい」を(特におおぜいの人に対して)アピールする側としては、画像分析的なきれいさを追求せざるを得ないのかもしれない。しかし受け取る個々人としては、おそらく画像分析的なきれいさよりも、自分の脳内イメージ、すなわち自分の脳内物語としてのその人の存在こそが重要なのではないか、という気がしている。

さて、「不自然にきれいなおねえさんは、好きですか。」


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