ハナウマ・ブログ

'00年代「ハワイ、ガイドブックに載らない情報」で一世を風靡した?花馬米(はなうま・べい)のブログです。

バラマキ男に逃亡女

2020年04月23日 | 沈思黙考

これを書いている私も、そして読んでいるあなたも、約2週間後には息も絶え絶えに屋外テントの中で横たわっているかもしれない...。
こういった心構え、イメージを持てる人が、コロナ後の社会立て直しに力を発揮できるような気がする。

危機感を持てない人たち

特段の事情がないのに外出することは、反社会的行為とまでは言わないにしても、「いま自分(たち)さえよければ、他人がどうなろうと知ったことではない」と考えていることの表明に他ならない。

今朝(4月23日)、食料品の買い出しに近所のコンビニに出かけたのだが、そこの駐車場で考えさせられる光景を目にした。複数人で乗用車に乗り合わせゴルフに出かける人たちだ。
もちろんそれは明確に禁止されていることではない。しかし自己責任では済まされないことをしているという意識もないのだろう(心身の健康維持の目的で、十分な注意・配慮のうえで散歩やジョギングをすることは、必要な外出であることはいうまでもない)。

自分にその症状や自覚がなくとも、他人にウィルス感染させてしまう可能性があるということが、ずっと指摘され続けている。
この場合、「無症候性キャリア」という言葉が適切かどうかわからないが、感染経路が不明である人の割合が高く、とにかく外出や人との接触機会を減らさないと深刻な事態になるということを想像できない人が、まだまだ存在している。

こういった問題意識が欠落した人たちは、感染がわかった後に意図的にナイトクラブへ出かけた男性や、空港検疫所の待機要請を聞かずに沖縄へ向かった女性と同じに見える。
すなわち「バラマキ男に逃亡女」である。意地悪な言い方をするならば、感染症を媒介する「ベクター(蚊やダニ、ノミなど)」と同じ役割を果たしていることになる。

自分はマトモ

宅配の荷物を届けてくれた人に向かって、いきなり除菌スプレーを吹きかけるという事例があったらしい。
また愛媛県では、長距離トラックドライバーの子どもだからという理由で、学校に来ないよう指示した教育者が問題視された。

極端な例だと信じたいが、似たような事例はすでに多く指摘されている。個々の事例にはそれぞれの背景や経緯があるかもしれないが、共通するのは「自分(たち)はウィルス感染に関してクリーンである。マトモである。」という前提ではないだろうか。

そもそもPCR検査も受けていないのに、勝手に「自分はクリーン」と考えているとすれば、おかしな話といえる。願望と科学的事実は別のはずだ。

「緊急事態」が届いていない

極端なことをいえば、警察官や自衛官を街に出して、戒厳令の如く一切の外出を禁じてしまうのが、接触機会を減らすためには効果的かもしれない。しかしそれではさすがに度が過ぎるだろうし、それなりに本末転倒なことがいろいろと起きてくる。
たとえば、診療や治療を受けるべき人が受けられなくなって病状が悪化したり、さまざまな介護サービスで健康を維持していた高齢者が孤立したりすることが考えられる。
さらに状況が悪化すれば、経済面だけでなく治安の悪化にさえつながっていく。

ではなぜ日本では「命令」がなく「要請(または指示)」なのか。
もちろん、個人の権利の制限という重大な問題があるからだが、これにくわえて個人的に思うのは「日本人は一定の分別がある」という前提だ。
総理大臣や地方自治体の長が国民や市民に対して「要請」しているということの意味について、一人ひとりがそれぞれの立場で、どう解釈し、どう行動すべきかを考える分別をもっているという期待があるからではないかと思う。

そして、どうしても意味がわからない人に対しては、店名や法人名の公表といった「見せしめシステム」が発動される。
いかにも日本らしい「強制力」のありかたではないだろうか。

欧米社会では日本と異なり、しばしば明確な強制力を行使しないと、国家としてあるいは人間集団として制御が困難であるという事情がある。
しかし日本では、歴史的、地勢的、さらには宗教的事情から、欧米に比べてまとまりやすい人間集団であるため、そもそも明確な強制が必要なかったのではないだろうか。

いま政治や行政は、人々の経済的損失に対する措置を取りつつも、人々に感じてもらうべき緊張感がきちんと伝わるよう、情報発信についてもう少し工夫が必要なのではないか。

まとめ

「東男に京女(あづまおとこにきょうおんな)」になぞらえたわけではないが、特段の必要もなく、問題意識もなく出歩いている人々を見て、ふと「バラマキ男に逃亡女」というタイトルを思いついた。

いつか新型コロナウィルスの一件が終息して、総括・反省すべき時期が来たとき、もしかしたら我々は、社会機能の維持や安定のためには、一定の強制力が必要な日本になってしまっていることに気づかされるのかもしれない。
そうだとすれば、少し悲しい気もするがそれもまた時代の変化と受け止めるべきなのだろう。
そこで大切なのは強制力が必要かどうかということより、異なる個人が集団となり、国家を構成するときに、多くの人にとってどのような形がもっともベターなあり方なのかということを、継続的に議論することだ。

ただ、いまは目前の危機に立ち向かう必要がある。私もあなたも「バラマキ男」、「逃亡女」にならないよう、分別ある日本人でありたい。 と同時に、感染が明確にわかっていない時点で人を判断してしまうことの重大な罪についても、あらためて確認しておきたい。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 新型コロナ、前向きで建設的... | トップ | クレジットカード、分割払い... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。